死ヲ想フ。

 初夏。幻想郷中の花はおびただしい霊と共に彼岸へと渡って行き、入れ替わりにむせ返る程の鮮やかな緑が命を通わせている。耳障りな蝉の鳴き声がじりじりと、灼熱によって熱せられた大気を更に厭わしい物へと変える。
 だが、氷精の時はあの異変からこの方、凍り付いたままだ。
 大ガマの池のほとりでぼんやり、水面を眺める。履き物を脱ぎ捨て、素足を水に浸すと水面が輪を描いて揺れ、また水に溶ける。交互に足を浸し、水面を揺らす。不意に癇癪に襲われて、水面を叩くも、再び水は鏡に戻る。
 己を襲う癇癪の理由を、氷精は測りかねていた。ただ、何となく楽しくない。
 嫌なことなんていつもは一晩眠れば綺麗さっぱり忘れるのに。
 あの閻魔が全部悪いんだ。チルノはそう結論づけた。

 死ぬ、なんて、怖くて考えたくないから。



「おやおや、日向ぼっこですか? 溶けちゃいますよ」
 黒い影が傍らに、暑苦しい羽ばたき音を伴って降りてきた。影の主は羽根まで黒いので、熱まで集めてくれる始末だ。至れり尽くせりの、実にいい迷惑である。
 またあいつだ。チルノは舌打ちする。
 地下に封じられた妖怪達を除けば、天狗は幻想郷で一番嫌われている種族である。彼(女)らは常に尊大で、周りを小馬鹿にし、いざとなればその強大な力で相手をねじ伏せる。ねじ伏せられねば言論の暴力を振りかざし、ある事ない事ない事ない事を書き殴っては印刷して幻想郷中にばらまく。故に人々は天狗の新聞などマトモに読まない。今チルノの元に馳せ参じたのはその中でも特別一番嫌な奴で、一番馴染みの顔でもあった。
「チルノさんらしくないですね。まさか、考え事でも?」
「どうでもいいでしょ」
 実際、射命丸にとって、妖精の考え事など取るに足らぬものではあった。こんな挨拶はいわば社交辞令だが、妖精如きにまで欠かさないのは、天狗の職業病に他ならない。
「はい、実際、どうでもいいです」射命丸は慇懃無礼を隠そうともしなかった。相手がチルノだからではなく、誰に対してもそうなのである。「貴女が実存と本質の違いについてだとか、北斗七星が北極星を食べるまでの時間や十二支縁起について思いを巡らせているいうのであれば話は別ですけれど」
 つまり妖精がそんな大それた事を考えるようじゃあ世の中は終わりだ、と暗に、否露骨に言っているのであった。
「そんな事考えてないわよ別に」
「ですよねぇ」射命丸は笑顔を絶やさない。単に笑顔を貼り付けているだけともいう。
「……ただ、死ぬってどんな事かなって考えてるだけよ」
 射命丸の顔から、嘘の笑顔が剥がれた。
「誰かに」射命丸はそこまでではっきり、力を込めて区切った。「言われたんですか」
 チルノは頷いた。
「それは花の異変の時、ですね」
 再び、頷く。
「……もう夏だってのに、まだその事を考えているのですか」
「悪い?」チルノは射命丸を睨め付ける。何もかも知ってるって顔して、あたいを馬鹿にしてるんだ、とでも言いたげに。「もし悪いとしたらあいつが悪いのよ」
 あいつ、か。射命丸は呟いた。
 射命丸は改めて問うた。あいつって、閻魔様ですか。
 うん、とチルノは力一杯頷いた。
 全く、閻魔様も罪深い事をなさるものです。射命丸は深々、溜息を一つ漏らした。
 蛙を凍らせることだって、チルノにとっては遊戯だ。蛙を凍らせた罰で大蝦蟇に食べられるのだと叱る者もあるが、チルノにとっては大蝦蟇に喰われるのも一種のゲームだし、チルノが蛙を凍らせたら全ての蛙が死ぬ訳では勿論ない。殆どの蛙は上手に解凍できれば生き返るし、そも日がな一日蛙を凍らせる程蛙遊びしかしていない訳でもないので、例え毎回蛙を生き返らせるのに失敗したとしても幻想郷の蛙がいなくなる事はない。それどころか、チルノの凍らせた蛙は、物によっては人里で飴玉に交換して貰える事すらある。喜んでくれる者だっているのに、それが悪いなんてチルノにはどうしても思えない。
 チルノは溜め込んでいた鬱屈を吐き出す。吐き出してから、『死』がこんなにも己を強く捉えて離さなかった事に、初めて気付いた。
 ふむ、と文は考え込む。
「……茶化さないの?」
「茶化しませんよ」射命丸はもう笑っていなかった。「遠き死を思うくらいなら、今を楽しみなさいな」
 去っていった文の顔が何時になく真摯だったので、チルノは余計に不安を掻き立てられていた。
 何故だろう。何で『死』なんだろう。
 チルノはぼんやり考えた。

 チルノは何時しか、死に魅いられていた。

 一から十までそんな様子であるから、チルノが再思の道から無縁塚の辺りを根城にする様になるまでそんなに時間は掛からなかった。陰気は陰気を呼ぶのだ。
 無縁塚には凍らせる蛙もいないから――いても、今の気分ではそんな気にならなかったが――ぶらぶら遊んでいると、見知らぬ少女に出会った。
 外の世界の子供だ、とチルノは直感した。服装が違うから、一目で分かるのである。
 服の形もそうだが、まず生地が違う。幻想郷では化繊など作れないので、生地は概ね木綿か麻か絹と相場が決まっている。形だって、外の子供はレースのぴらぴらしたスカートなどまず着ない。すそがラッパみたく広がった分厚い生地のズボンを履いている。それだけではない。外の世界の子供は、いや、大人も、例外なく服に継ぎを当てていない。少女も例外ではなく、ただし例のズボンと同じ様な生地で作られた膝丈のジャンパースカートにハイソックス、そしてこの季節には少し暑苦しい長袖のシャツを着ていた。
 とはいえ、幻想郷の人間が外の世界の服を着ても、またその逆だとしても区別は容易に付いた。だいたい、幻想郷では、何時妖怪に襲われるか解らないのにぼんやり突っ立っている呑気者は多くない。
「ねえ、あんた」
 少女を助けてやる義理もなく、外の人間は食べても良いと決まっているが、チルノはこのぼんやりものに思い切って声をかけてみた。
 少女が、さっと振り向く。
 チルノは初めて、そこで少女の顔を見た。
 怯えた、眼差し。冥い、陰鬱な瞳。
 目と目が合ったのに、少女の視線はすぐに揺らいで、逸れた。
 少女は小走りに、チルノが二の句を継ぐより早くその場を走り去ってしまった。
「何だあいつ」
 せっかく親切に、助けてあげようと思ったのに。チルノはぼやいた。自分が外の人間にとって異形にしか見えないのだ、という可能性は微塵も過ぎらない。
 まあいいや。
 既に一人遊びにも飽いていた。丁度良いきっかけ、と、ねぐらに帰る事に決めた。
 あんな奴、どうなったって知るもんか。
 ふん、と鼻をならして、チルノは踵を返す。明日は何をして遊ぼう。
 ?
 何処かで鈍い音がしたような気がしたが、チルノにとってはどうでも良い事だった。
 一歩を踏み出した途端、今度は悲鳴が覆い被さった。
 さっきの子だ。
 文句を垂れながらも何となしに足を向けると、少女はいた。
 しかし、少女は何かが変だった。
 少女は妖怪に襲われ、地面に座り込んでいた。
 襲い掛かろうとしている妖怪を、茫然と見上げ。
 いつもの光景に見えた。だが、チルノにすら解った。
 やるせない、如何にも、申し訳なさそうに少女は言った。
 すみません、ごめんなさい、と。
 訳が解らなかった。
 何なの、この子。おかしいじゃない。
 何で謝ってんのよ!
 チルノは訳もなくカッカ来た。氷の精には似付かわしくない熱さにかられて、少女は猛然と突っ込んだ!
 ぎゃ、とあがった短い悲鳴は体当たりされた妖怪のそれだ。ひっくり返った妖怪を押し退け、チルノは少女の手を取る。少女はしかし、チルノの顔をぼうと見つめたまま身じろぎもしない。
「ちょっと、アンタぼんやりしてないで立ちなさいよ!」
 え? と惚けた顔の少女を睨め付け、チルノは少女の手を引いた。
「逃げるよっ!」

 再思の道を駆け抜け、二人は漸く弾ませた息を整えていた。
 本当は妖怪は追いかけてこなかったのだが、チルノがおつむをホットにし過ぎたのと、女の子のもたつき具合に焦った所為でとにかく、足を止めるタイミングが解らなかったのだった。二人は、主にチルノが落ち着きを取り戻すと、お互いを見る余裕を取り戻して、訊ねた。
「あんた誰」
 少女は口ごもって目を逸らした。ほら、まただ。チルノの中のイライラ虫が頭を擡げる。
「失礼じゃないの、さっきから」チルノはむくれた。「助けてあげたのに」
 少女はそこで漸く、はっと顔を上げた。「ごめんなさい、ごめんなさい」
 今度はチルノがおたつく番だった。
 そして、考えた。どうしてこの子はすぐ謝るんだろう。
 本人に聞いてみなけりゃ解らないよね。と、あっさり結論づけて、チルノはその問いを押しやった。元から別にどうでも良い事だった。
 少女はチルノになかなか目を合わせないまま、漸くぼそぼそと、聞き取りづらい声で有難うと呟いた。そんな事までビクビクしなくていいのに、とチルノは思ったが、お礼を言われた事の方が嬉しかったので帳消しにしてあげた。
「何だ、あんたちゃんと話せるのね。あたい、チルノ。超最強の妖精だよ。あんたの名前は?」
「希美。のぞみ、っていうの」
「そっか」チルノは希美の手を持ち替えて、掌をぎゅっと握った。「あんた頼りないから、あたいが守ってあげるよ! あたいたち、これから友達ね」
 そこで、初めて少女は、チルノの手を握り返した。握り返して、ちょっとだけ、口角を持ち上げて、強張った笑みを作った。
「チルノちゃん……有難う。ごめんね」
「いいって事よ!」チルノも強く握り返した。「友達だからね!」

 それから二人は、地平線に日が落ちて、くたくたになるまで遊んだ。最初は強張っていた希美の笑みも時と共に和らぎ、チルノの御機嫌もつられて驚くほど良くなった。大体、今まで一人で無縁塚なんぞで遊んでいたのが間違いだったのだ。
 チルノは希美の手を取り、幻想郷中を連れ回した。太陽の丘を見せた時の希美の喜びようと言ったらなかった。チルノとしては幽香に見付からないかヒヤヒヤものだったけれど、運が良かったのか、はたまた幽香が二人を見逃したのか、二人は美しい一面のひまわり畑を存分に楽しんだ。
 方々を歩き回った後に霧の湖のほとりまで来て、二人は靴を脱いで腰掛けた。
「チルノちゃんの羽根、綺麗だね」
「そうぉ?」チルノは鼻の頭を擦る。「そんな事言われた事無いけど」
「うん。素敵だよ。触ってもいい?」
「いいよ」
 希美は恐る恐るチルノの羽根に触った。チルノの透き通った氷の羽根は、遊び疲れて熱を保った体に心地良く感じられる。チルノは希美の熱を察して、希美の額に手を当てる。
「気持ちいいでしょ」
「うん」
 二人はそうして、この上なく贅沢な時間をただ何もせずに過ごした。
「ここ、いいとこね」不意に希美の額が、チルノの手を逃れた。
「でっしょ」チルノは目を輝かせる。「幻想郷は素敵な楽園だからね! 希美もずっといると良いよ」
「うん。おばあちゃんの田舎みたい」
「おばあちゃん?」
 チルノの問いに、希美の面がやや曇った。「ここんとこずっと会ってないけど……」
「そ、そうなのかっ」チルノは慌てて話題を逸らす。「明日は妖怪の山にいこうね」
 希美の腹から、本人より早く腹の虫が返事をした。希美は慌ててお腹を押さえる。
「んな事まで隠さなくていいのに」
「でも」希美は言い淀んだ。「ん……いいの」
「いいって、いいの?」
 チルノは希美の顔を覗き込んだ。
 妖精には、お腹が空くという概念はない。妖精が物を食べるのは娯楽の一形態に過ぎない。甘い物は大好きだけれど、あくまでも妖精にとって食べ物は嗜好品だ。食べなくたって生きていけるし、死んでも生き返る。
 しかし、チルノが目の前にしている少女は人間であった。食べねば、人は死ぬ。
 死ぬ。
 またお前か。嫌な奴!
 こんな時にまで顔を出さなくたって良いのに! ばか、ばか、どっか行っちまえ!
 しかしそんな事で死の影は去ったりしなかった。思いも寄らぬところから顔を覗かせた厄介者に、苦々しい想いを隠し切れず、チルノは叫んだ。
「どうでも、いいわけないよ!」
 希美は目を瞠った。しばらくぽかんとチルノの顔を見つめていたが、やがて、ぺこんと頭を下げた。
「う、うん。ごめんね」
「食べないと」チルノは焦った。もう日が暮れるし、如何にも歩き慣れていない様子の希美に、ここから人里まで歩かせるのは少しばかり酷であった。
 チルノは必死に考える。希美が死んだら困る。
「……あった! ……ちょっとだけ、ちょっとだけ待っててね!」
 希美の返事を聞かず、チルノはまっすぐに飛び出していった。
 先には、魔法の森が待っていた。

 チルノが希美を置いていったのは訳があった。普通の人間は魔法の森の瘴気に耐えられない。
 とはいえ、希美を一人で残すのには不安があった。先程みたいに妖怪に襲われたら、どうやって助けるというのか。
 もどかしい思いを抱えつつも、チルノは全力で魔法の森を突っ切る。急いで帰れば何とかなる、そう信じるしかない。
 この辺りかな、と思ったところで、急に森が開ける。
 小さな掘っ立て小屋がぽつんと、現れた。チルノは小屋に飛び込んだ。

 霧雨魔理沙は幻想郷の夜の空を一人独占していた。実際には他にも飛んでいたのだろうが、偶さか彼女の目の届く範囲にはいない。普段なら妖怪どもが飛び交っていておかしくない夜空の大気を独り占め出来るなんて、なかなかな贅沢だぜ、と魔理沙は一人御機嫌だった。脇には紅魔館の図書館からこっそり盗んできた魔法の奥義書だってあり、主な御機嫌の理由は寧ろこちらにあったと言っていい。
「今日の占いがあったら、運勢ははさしずめ大吉プラスアルファってとこだぜ」
 今日の運勢というのは日の終わりに逆算するものではないが、朝に解るとしてもそれはそれで、運勢は予測出来ないから人生は楽しいんだと言い張りそうな、要するに、魔法使いの癖に占いには全く興味のない魔理沙であった。
 占いに興味のない魔理沙が、しかし、辺りの微弱な魔法力の変化には大いなる興味を抱きつつ自宅の前に音もなく降り立つと、何やら外からでも家中を家捜ししている誰かさんの様子が伺える。魔理沙は息を殺し、箒を振りかざして抜き足、差し足。自分が泥棒するのは良くても、他人の泥棒は見逃さない。えいやっと扉を勢いよく開け、魔理沙は運勢の勢いとやらに身を任せ勢いよく箒を振り下ろした。
「ふぎゃっ」
「やっぱり今日はラッキーデーだったぜ。……ありゃ、チルノじゃないか」
「痛いじゃないの!」箒を押し退け、チルノは頭をさする。
「お前は泥棒じゃないか」魔理沙はあっさり切り返した。
「だってしかたないじゃない!」
「仕方ないのは魔界の門番だけでいいんだぜ、さ、帰った帰った……って、れれ……?」
 魔理沙は足下にひんやりした重みを覚えて狼狽えた。この泥棒、振り払おうにもしっかとしがみついて離れようとしない。無理矢理押し退けようとすると、さらに強くしがみつく。
「あの子が、あの子が死んじゃうんだよう、死んじゃうんだよう」
「お、落ち着け、解った、解ったから、顔拭け!」
 チルノの顔は涙でぐちゃぐちゃだった。泥棒かと思ったら居直り強盗か。チルノの顔を拭いてやりながら、魔理沙はぶつぶつ不平を垂れた。
 不意に、チルノが顔を上げた。
「早く、早く帰らなくちゃ! ちょっと来てよ!」
 魔理沙は訳の解らないまま、チルノに手を引かれて帰ってきたばかりの家を留守にした。

 希美は無事だった。チルノは心底ほっとして、半泣きのまま希美に抱き付いたので、何故チルノが泣いているのかさっぱり解らない希美は茫然と、チルノとその客人である霧雨魔理沙の顔を交互に見比べるしかなかった。ただチルノが、良かった、良かったと繰り返すのをうんうん、と返すのが精一杯。
 一方、魔理沙は今日の占いの結果を訂正しなければならないと思い始めていた。見知らぬ少女は何処から見ても外の世界の人間で、チルノが再思の道辺りから犬か猫でも拾う勢いで連れて来たのに違いなかった。
 人間の子供をチルノに任せて放っておく訳にはいかない。魔理沙は渋々二人を連れて霧雨邸に連れ帰る事にした。
 希美は初めこそ警戒の色を隠そうとしなかったが、魔理沙が人間である事を説明され、魔理沙の自己紹介を受けて少し安心したようだった。二人は握手をし、魔理沙は希美を箒の後ろに招待した。希美が魔理沙の腰に捕まると、箒はふわりと宙に浮く。先程まで魔理沙が一人で独占していた幻想郷の夜はかくて、凸凹三人組によって共有される事になった。
「わ、わ、すご……」
「お、おおい、暴れんなよ……」腰にしがみつかれる力の強さに魔理沙は狼狽える。
「あれ、希美は飛べないの?」
「ばっか、飛べるわけないぜ」
 へぇ、とチルノは返して、二人の周りを衛星宜しくくるくる飛んだ。いつもなら邪魔だと追い払うが、希美が嬉しそうなので魔理沙はチルノがしたいままに任せておいた。それに、外の世界では空の大気の心地よさも、天蓋に鏤められた輝きも、天に美しい弧を描く真実の月の残滓も、長らく絶えて久しいと霖之助から聞いている。
「……ありがとう」
「どういたしまして、なんだぜ」魔理沙は三角帽子のつばを跳ね上げる。「ほら、チルノ。希美ちゃんもああ言ってんだから、私に感謝しろよ?」
「何それ、関係無いじゃん」
「あーそんな事言っていいのかなーあんなにべそべそ泣いてたクセに」
「あう、やだ、それいいっこなし!」
「はいはい、そろそろ降りますよっと」
 魔理沙はムキになるチルノをよそに、希美に簡単な魔法防御壁を施してから魔法の森の自宅へと降り立った。

 希美は初めのうちこそ、魔法の森の瘴気と見知らぬ他人の家で緊張していた所為で大人しくしていたが、魔理沙が夕餉を給仕すると、余程お腹が空いていたのか見ていて気持ち良い程美味しそうに食事を平らげた。チルノは食べなくても平気だったが、チルノ達が箸を付けないと希美が胃袋をぎゅうぎゅう鳴らしたまま一向に食事を摂ろうとしないのを見て取った魔理沙に勧められ、遠慮がちに箸を付けた。希美の食べっぷりを見て、魔理沙は少女を家に連れて来た自分の判断を改めて肯定した。
「そんなに美味しかったか?」
 はい、と希美はいらえた。遅れて、思い出したようにすみません、と頭を下げる。
「希美は謝らなくて良いぜ。チルノ、お前が謝れよこの泥棒」
 チルノはてへっと舌を出し、御馳走様、と手を合わせた。そんなチルノに、魔理沙もまんざらでも無さそうである。二人の不思議な関係を測りかねて、希美は不思議そうに、でも、楽しそうに二人を見守っている。
「仲、良いんですね」
「仲は悪いぜ」魔理沙は断言した。「しょっちゅうケンカしてるぜ、むしろいじめてる」
「悪いぜ」チルノも便乗した。「しょっちゅうケンカしてるもん。むしろ泣かせてるぜ」
「嘘吐き」
「二枚舌」
 希美は笑った。初めて会った時に比べても、驚くほどナチュラルな笑顔だった。
「よし、いい笑顔だ。疲れてるだろ、風呂は?」
「いえ、あの、ご飯だけで十分です。すみません」
「別にすまなくないし。遠慮しなくてもいいぜ?」魔理沙が希美の肩に手をやると、不意に希美が竦み上がった。希美の手が汁椀に当たり、くるくるとひっくり返って少ない中身を机の上に空けてしまう。
「あ、あの、ごめんなさい! ごめんなさい!」
「そんな気にしなくていいから」魔理沙は希美を押し留め、濡れ布巾をチルノに投げやった。チルノは空中で布巾をキャッチし、机を手早く拭く。いつもなら上げ膳据え膳が当たり前のチルノも、希美の謝りグセを察して空気を読むくらいはお手のものだ。
「あい、いっちょ上がり」
「おいよ、お風呂いらないなら無理して入らなくても良いぜ。……せめて、うちに泊まっていけよ。まさか野宿するつもりじゃないだろ?」
「え……」
 チルノが慌てて言葉を継いだ。「ま、魔理沙の奴がそう言ってんだから、甘えちゃえばいいよ! あたいだっていつも泊まってるし!」
 嘘だけど。
 本当は魔理沙の家なんか泊まった事もなかったが、本当の事を言うと希美が遠慮するのは目に見えていた。
「そうそう、チルノと一緒に寝てやってくれよ。時々寝小便するけど」
「しないよっ!」チルノは汚れた布巾を投げ付ける。魔理沙は布巾を空中キャッチして桶に放り込んだ。
「希美、一緒に寝ようね」
 うん、と頷いた希美に、二人は漸くの安堵を覚えた。

 しかし希美は魔理沙のパジャマを借りる事を頑なに拒んで、結局服を着たままベッドに潜り込んだ。

 魔理沙は寝る前にふと、寝室を覗き込んだ。
 少女と一緒に寝ているチルノの、こよなく穏やかな、無防備な顔。悩みも何もない、安らぎの境地。
 そんなチルノの寝顔を前に考え事に耽る魔理沙の顔は、無明の闇に明かりを求めて彷徨う者のそれであった。



 翌日の朝。
 霧雨邸の中に魔理沙の姿はなかった。テーブルには醒めてはいたが既に朝ご飯が準備されていて、空腹の少女達を優しく迎え入れた。魔理沙は和食党なので、味噌汁にご飯、お浸しと香の物、という一汁二菜のシンプルな朝食だが、二人にとっては、否、幻想郷の住民にとってもかなり豪勢な馳走である。二人は嬉々としてテーブルに着いた。
 食事を終え、後片付けを済ませた二人は遊びに行く事にした。
「ねえ、チルノちゃん」
「なあに」珍しく希美の方から声を掛けられ、チルノは顔を上げた。少しずつ心を開いてくれる、その事がたまらなく嬉しい。
「……ん、何でもない」
「何さ」チルノは気になって、希美のスカートを引っ張った。「言ってよ」
「ん、あのね」
 唇の先まで乗りかけた希美の一言は、しかし舞い上がる一陣の風に遮られた。二人は風の運び手を仰ぎ見る。
「霊夢! 魔理沙!」
「アンタはここにいていい子じゃないのよ。外の世界に帰りなさい」
「親御さんが待ってるだろ?」
 巫女と魔法使いは二人の前に降り立つと、外の世界の少女の手を取った。少女は特に逆らう様子もなく、二人の方に引き込まれる。
 ああ、また独りになっちゃうんだ。
 薄々気付いてはいた。何時かこういう日は来ると。
「……そうですね。すみません、ごめんなさい」
 ああ、また謝るんだ。
「結界の外まで送ってあげるから、一緒に行きましょ。ほら、チルノ。あんたもお別れの挨拶したげなさい」
 チルノは一連の出来事を、薄い皮膜がかかった、いわば他人事の様に眺めていた。あまりに急で、うまく状況を飲み込めなかったのだ。チルノは言われるがままに、希美の手を取った。
「ごめんね、チルノちゃん」
 希美の手は温かかった。チルノはいつまでも、希美の手を握っていたかった。
 でも、仕方ないよね。
 チルノは希美の手の記憶を留めようと、希美の手を、熱を、五感で、懸命に感じ取ろうとした。霊夢も魔理沙も急かさなかったので、なかなか自分から希美の手を離そうという気になれない。チルノは握手する右手に、自分の左手を小さく添える。
 ?
 絡んだ指の隙間、袖口から覗く希美の手首。
 急いで、強引に振り解かれるチルノの手。チルノは一瞬、自分が何を見たのか解らなかった。
「あ、あの……ごめんね。ありがとうチルノちゃん」
 薄い皮膜が、ぱっと弾けた。
 チルノの直感が告げた。希美を外の世界に帰してはならない。
「う、やっぱりやだ! やだやだ帰らないで! 帰っちゃだめだよ!」
「はぁ? 何いってんだ、落ち着けよ!」
 しかしチルノは己の直感を論理的に表現する術を持たなかった。直感は論理よりは寧ろ感情と容易に手を結び、チルノの感情を揺さぶる。顔が見る間に崩れ、青い目に涙が溜まっていく。堪えても堪えても、口端から呻きが零れて、落ちる。遅れて、決壊した瞼から溢れる、雫。
 だがチルノは無理矢理引きはがされた。ぐずり、暴れるチルノを宥めようと魔理沙はチルノを抱える。間にさっと霊夢が入って、チルノは二人に取り囲まれる。チルノの前に立ちはだかる少女二人は、チルノには摩天楼より高い壁に見えた。
「お前、どうやってあの子を喰わせてやるつもりなんだよ」
「そうよ。あの子にはあんたと違って、外で待ってる人がいるの。チルノと人里で一緒に住む訳にいかないでしょ? だからって、子供が外で暮らしていたら死ぬ可能性が高いのよ」
 死。
 チルノの中で、もう一つの何かが、ぱんと弾けた。
「やだ。絶対、絶対あたいが死なせたりしないんだ!」
 チルノは懐からありったけのスペルカードを取り出した。辺りの気温がぐんと下降する。朝露が凍り付き、下草を白く染める。二人は舌打ちし、受けて立つべく懐からカードを取り出そうとした。
「だめっ!」
 チルノの手から、カードが零れ落ちた。カードをはたき落としたのは、果たして、希美であった。希美は霊夢と魔理沙の前に立ちはだかり、初めて声を荒げ、叫んだ。
「帰るから、帰るから、チルノちゃんやめて、お願いです。やめて下さい、チルノちゃんをいじめないで」
 三人は茫然と、立ち尽くすしかなかった。もはやスペルカードルールの意義を説明する気力すら、無かった。

 その後のチルノのしおらしさと言ったら無かった。おざなりな握手と別れの挨拶を交わした後、希美は霊夢に結界の外へと連れて行かれた。ぐずりっぱなしのチルノの世話を押し付けられた魔理沙はとうとう根を上げ、勝手にしやがれとチルノを突き放し、怒ったチルノに氷の塊をぶつけられてたんこぶを作っていた。
 チルノと女の子が去っていった後、二人は神社の境内で茶を啜った。お茶請けはない。
「なぁんか、後味の悪い別れよね」霊夢は溜め息を零した。「何か私達が悪人みたいじゃない」
「悪巫女じゃないかどう見ても」魔理沙は投げやりにいらえて茶を啜る。霊夢はすかさず、空になった魔理沙の湯飲みをむしり取った。
「ンな事言うなら茶ぁ飲むな。……そもそも、あんたがあの子を外の世界に送ってくれって言いに来たんでしょ」
「ま、そうだけどさぁ」魔理沙は頭をさすった。「まだ痛いぜ」
 魔理沙を一顧だにせず、霊夢は茶を啜り独りごちた。
「あの子、ほんとは帰りたくなかったんじゃないかな」
 魔理沙は頭をさする手を止めた。止めて、湯飲みを霊夢から奪い返そうとして、止めた。
「まあ、そう言うわけにもいかんさ」
「そうね……そうかもねぇ」いつもの様に淡々と茶をすする霊夢。いつもの光景の様に見えるのに、何処か釈然としない、縁側の光景であった。



 秋。
 厭わしい夏が終わり、本来の季節が近付きつつあるというのに、チルノの顔は一向に輝きを取り戻そうとしない。希美の記憶が脳裏を離れないのだ。
 他に遊ぶ相手がいない訳でもないのだが、陰気を発している者に近付こうという妖精はいない。チルノは何時しか、無縁塚の周辺を彷徨く事が多くなっていた。蛙を凍らせる遊びもめっきりやらなくなった。大蝦蟇にも食べられなくなったが。
 こんなの初めてだなぁ。
 湖のほとりでの石切遊びにも飽いて、ただぼんやり水面を見つめている。
 水面の影が、二つに増えた。
 魔理沙が後ろから、ひょっこり覗き込んでいた。
「よ、最近沈んでるんだって? アンニュイなチルノちゃんてのも乙なもんだな。ちったあ賢くなったか?」
「どゆ意味よ」
「文字通りの意味さ」魔理沙はチルノの頭をわしづかみにして、殆ど髪の毛をくしゃくしゃにするつもりで頭を撫ぜ回した。「恋娘のおてんばがすっかりなりを潜めてるんでつまらないって、天狗が言ってたぜ」
「あんな奴どうでもいいもん」チルノはぷいとそっぽを向いた。「あんただって七色魔女やら紅白巫女やら、他に遊ぶ相手が一杯いるでしょ」
「ああいるぜ」魔理沙はチルノの頭を軽く小突いた。「お前なんてどうでもいいしな」
 じゃあ、構わないでよ。
 魔理沙は、しかしチルノの抗議を軽く受け流す。「どうでもいいから弄るんだぜ」
 ああそうかい。
「植物の名前なんだぜ、それ」魔理沙は笑った。チルノはその植物の事を知らなかったし、知っていても興味はなかった。植物の事は風見幽香にでも任せておけばいい。
 チルノがいつまでもむくれているので、魔理沙はチルノのほっぺたを軽く叩いた。
「んな顔してたって友達は戻ってこないぜ」
「……解ってる」
「だよな」
 二人は押し黙ってしまった。湖面を薙ぐ秋風が、妙に二人を落ち着かない気分にさせた。
 秋風が急に強まって、魔理沙の帽子を吹き飛ばした。
「お? サボタージュの泰斗がどうした? サボりすぎて更迭か?」
 帽子を拾おうとする魔理沙の手が止まった。いつの間にか、死神が魔理沙の帽子を手に、らしからぬ険しい面で立っていた。死神は魔理沙の手に三角帽を押し付けると、声色を和らげる様子も見せずに言い捨てた。
「アンタら、一体何をしたんだい。とにかく、急いで白玉楼へ来な」

 事情も解らぬまま白玉楼に連れてこられた二人を、此又険しい顔で庭師が迎え入れる。奥には白玉楼の主人・西行寺幽々子と、見覚えのある白い着物の女の子が待っていた。何時にも増して儚げで、色素の薄い印象は、強ち表情の所為ばかりではないように見えた。少女は初めて会った時のやるせない、強張った仮面を付け直している。
「希美ちゃん!」
 チルノは一目散に飛び付いた。飛び付いて、飛び退いた。
 冷たい。そして明らかに、色が薄い。微かな、白粉の匂い。
 チルノは周りの顔を仰ぐ。何だか、みんな、変だ。
「この子はね、死んでいるの」幽霊嬢は淡々と、言葉を継いだ。
「どういう、事?」
 チルノの肩に、温かい手触りが乗った。小町の手だ。労られているみたいで、チルノは無性に腹が立った。
「死んで、閻魔様の元に連れてこられたって訳さ。だけど判決が下っても、この子頑として言う事を聞かないんだ。チルノちゃんに会いたい、チルノちゃんのところに行きたい、の一点張りでね。未練が残り過ぎていると成仏出来ないのは知ってるだろ? この子は死んでるから会わせてやる訳には行かないかもしれんが、せめて遠目で見たら少しは執着も薄れるだろうってんで改めて調べてみたら、この子幻想郷に来ていた事があるっていうじゃないか。うちの四季様に顕界担当の閻魔様が訊ねて、アンタ達だって解ったのさ」
 死。
 チルノは下唇を噛んだ。どうして?
「どうして、死んだの?」
「見せてやんな」大して見せてやりたくも無さそうに、小町は吐き捨てた。
 希美は死に装束の袖を、たくし上げた。
「何か変じゃないか、小町? らしくな……うぇっ!」
 魔理沙は目を伏せた。チルノは目を瞠った。
 腕一面の、煙草を押し付けた痕。傷だらけ、痣だらけの腕。
 帯を解き、死に装束を脱ぎ捨てた体に、至る所黒々と刻まれた。
「もういい」魔理沙は目を背けたまま装束を急いで拾い上げ、希美に押し付けた。「早く着ろよ、もういいから」
「なんで、なんでなの?」
「しらんよ」小町は苦々しげに、殆ど独り言の様にいらえた。「ただ、この子は悪くない」
「悪いわけないじゃない。ないじゃない」
 ごめんね。希美は呟いた。
 ああ、まただ。
 悪くないのに、何で謝るの。
「あやまるな」幼いながらに怒気を含めた、低い声。「あんたは悪くない」
「チルノちゃん、私が悪いんだよ」しかし、少女はかぶりを振った。「だって……悪い子だから叱られるんだもん」
「あたいの方がよっぽど悪い子だよ! ばか! 希美のばか!」チルノは希美を叩いた。叩いて、叩いて叩いた。泣いた。涙が溢れて止まらなかった。何で希美がこんな目に遭わなくちゃいけないんだ。「ばかだし、泥棒だって平気だし、すぐケンカするし、怒るし、蛙を凍らせるし……!」
「違うよ、チルノちゃんは悪くないよ」希美はチルノの頭を撫ぜた。「だって泥棒したのも、ケンカしたのも私のせいじゃない。私が悪いんだよ」
「好い加減にしろよ希美」
 魔理沙だった。「お前は悪くないだろ。何で何でも自分の所為だって言い張るんだよ。ばっかじゃないのか?」
「やめなさい」幽々子が三人の間に割って入った。「希美ちゃんが自分を責めるのには、訳があるの。この子はね」
 幽々子の口ぶりが刹那淀み、しかし、苦おしげに零れた。
「親に虐待され続け、挙げ句の果てに虐め殺されたのよ」

「さ、お別れの挨拶しなよ」ごく事務的に――そうでなければ冥界の橋渡しなどやってはいられない――小町が澱んだ沈黙を寸断した。
「お、別れ?」
「そうだよ」小町は優しく、戸惑うチルノに言い含める。こんな顔の小町は、チルノも魔理沙も見た事が無かった。「この子は幻想郷の生まれじゃない、外の世界の子だ。外の世界のものは外の世界のルールで裁かれねばならない。この子が行く冥界も、ここじゃあない」
 それは、つまり。
「二度と会えなくなるんだよ。死ぬってのは、そういう事だ」
 死を想え、と。
『人間はいつかは死ぬのです』
 あいつの顔がちらついた。大嫌いなあいつ。嫌な奴。
「幻想郷にいると解らないかもしれんが、ここが特別なだけで、本来なら希美に会えた事自体が奇跡みたいなもんだ」
『生きている者が死者の死を認めるために墓場が必要なのです』
 認めろって言うの? こんなに、悲しいのに。辛いのに。
『小川のせせらぎ、鳥の鳴き声、虫の歌。――自然だって死ぬときは死ぬのです』
 だから。
 死を想え、と。
 チルノは突如として覚った。
 死とは何かを。
 いいや、ずっと前から知っていた。知っていて、怖くて、目を背けていただけだった。ずっと前から死ぬという事の意味を、本当は知っていた。
 だけど、向き合うのが怖かった。
 里のガキ大将が、駄菓子屋のおばあちゃんが、いつも意地悪をするあの妖怪が、ある日突然いなくなったのは。
 でもみんなそうなるんだ。いつかは。
 希美の様に。
「……そう、だよね」
 漸く、小町の顔がいつもの小町に戻った。「だから、な。チルノ。笑って、送ってやれ。魔理沙も、んな顔するな」
 チルノは初めてここで、魔理沙が泣きそうな顔をしているのに気付いた。
「私が、悪いんだ」魔理沙の声は震えていたが、それでも、懸命に嗚咽を堪えている。「帰れなんて言わなければ死ななかった。誰かの養子にでも貰って貰えば良かったんだ。うちの実家で奉公するとか、それから……」
 希美はううんとかぶりを振った。「魔理沙さんは悪くないです。私が……」
「また、あやまる!」チルノは怒った。「何にも悪くないじゃないの。みんな、希美は悪くないって、言ってる」
 悪くないのに、いじめられる。殺されちゃう。こんなの理不尽だ。
 世界は不条理に満ちている。これからも、無限の理不尽に向き合い続けるだろう。
 憤っても、しかし世界を止める事は出来ない。
 チルノにも。
 魔理沙にも。
 そして多分、四季映姫にも。
「ごめんね、ごめんね」
 希美が、初めて泣いた。
 幽々子がそっと、チルノに耳打ちした。
「許して、あげなさい」
 許してあげましょう。
 友達なのだから。
 笑顔で送ってあげたいから。
 チルノは目許を擦り擦り、涙を声ごと絞り出した。「ふ、ふんっ。しょうがないわね。許してあげるわよ。もう二度と、あやまっちゃダメだから。約束だよっ」
「チルノちゃん、ありがと……解った。約束するよ
 二人は指切りげんまんをした。もう前ほど温かさはないけれど、前より仲良くなれた気がする。もうお別れなのに変だな、と思うけれど、お別れだから固く結び付いた小指を惜しみつつ、指を離す。
「遊んでくれて、嬉しかった」
「ずっと友達なんだからね」
 輪郭が、色が姿が薄らいでゆく中、希美は笑った。ちょっと強張った、初めての邂逅のあの微笑みに、似ていた。
 チルノもまた、くしゃくしゃの顔を一生懸命こすって、笑い返した。でもやはり、最後に堪えきれなかった涙が、ほろりと零れた。



 ある晴れた日の午後。チルノが沼で遊んでいると、鴉天狗が羽音を響かせながら降りてきた。
「今日は御機嫌ですね、チルノさん」
「どうでもいいんじゃなかったの?」
 文字に書き下せばそっけないが、口ぶりからは楽しさが溢れて仕方ない様子が伺える。いつものチルノだ。射命丸は安堵した。
「ええ、どうでも良いです。記事になりませんから」射命丸も営業スマイル満面でチルノに応じる。いつもの慇懃無礼な射命丸だ。チルノはふん、といつものリアクションで返す。
 これでいいのだ。射命丸は思った。
 取るに足らない、愚かで愛らしい存在、それが妖精のあるべき姿。彼女は自然の体現者なのだから、そうであってくれなくては困る。
 日々の移り変わりを追いかけ、目を輝かせて日々を最高に楽しむ。
 辛気臭い世界の秘密やら、真理やら業やらに心を砕くのは、賢しらな連中に任せておけば良いのだ。
 射命丸がそんな事を考えていると、チルノは手元のカエル氷を溶かし始めた。カエルは概ね無事に解凍され、鈍いながらものそりと跳ねて、ちゃぷりと水面に身を滑り込ませる。
「おや、珍しいですね全解凍成功ですか」
 チルノはスカートの端で手を拭う。せっかくの綺麗なおべべが台無しだ。「うん。もっと自分の力をうまく操れるようになりたいんだよね」
 射命丸は目を瞠った。これは大事件だぞ、と懐から慌てて手帳を取り出そうとして、はっとする。射命丸は取り出しかけた手帳を再び懐に押し戻し、態とらしく肩を竦めて見せた。
「ま、どうでも良いですけどね」
 チルノは射命丸に一瞥すらくれず、動きの鈍いカエルを摘んで沼に戻した。「でっしょ」
 何も変わらない、いつもの幻想郷の午後であった。



「ふぅん、そんな事があったのね」
 秋の神々が幻想郷を色とりどりに染める、いつもの秋が訪れつつあるいつもの博麗神社。そのいつもの縁側で、いつもの紅白巫女と黒白魔法使いが、いつもの様に茶を飲んでいた。お茶請けは秋神様からむしり取った、もとい御奉納戴いたお芋をふかしたもの。
「うん。でさ、前々から考えてたんだが、私も人間やめようかなと思ってね。そうすれば、周りの連中が私を失って嘆く事もないだろ?」
 冷えたふかし芋に皮ごとかぶりつく魔理沙を横目に、霊夢は茶を啜る。
「って事は、あんたも無限に周りの死を見つめる覚悟が出来たって事ね」
 魔理沙は囓った芋を胸に詰まらせ、どんどん胸を叩く。霊夢は呆れつつ茶を差し出し、魔理沙は一息に飲み干す。
「んぐ、むぐ……きっつい事言うなぁ」
「不死になるって事はそういう事じゃないの」霊夢は茶を注ぎ直す。「あんたが死なないって事は周りが死ぬって事よ」
「そうなんだけどさ」魔理沙は懲りずに芋を囓った。今度はゆっくり、茶と交互に少しずつ。「霊夢が死んだら泣いてやるぜ」
「あら、意外ね。アンタの事だから誰が死んでも涙の一つも流しそうにないと思ってたけど」
 魔理沙の口が芋を飲み下した。魔理沙は芋を傍らに押しやり、顔を上げる。
「じゃあ、霊夢は私が死んだら泣いてくれるのか?」
 魔理沙は霊夢の双眸を見つめた。魔理沙の金色の瞳は、黄昏を受けてやけに眩しい。
 霊夢もまた、瞬き一つ落とさず魔理沙を見つめる。
「泣かないわ」
「何だそりゃ、冷たいな」魔理沙はかくっと肩を落とす。「チルノの方がよっぽど熱いじゃないか。まああいつは頭もホットだけどさ」
「何言ってんのよ。あんたが死んだら私があんたの葬式を出すのよ」霊夢は芋の皮を薄く、丁寧に剥き始めた。剥いた皮を丸めて、皮に着いてしまった身をこそぎ取る様にして食べる。「葬式を取り仕切る神職がわんわん泣いたらみっともないでしょうが。泣き女はそれこそ、チルノ辺りに任せておけばいいのよ」
「そうか、そうだよな」魔理沙は空の湯飲みを見つめていた。「あいつならいっぱい泣いてくれそうだしな」
「そうよ」霊夢は結局、芋を皮ごと口に収めた。「そういうもんだからね」



 暑さ寒さも彼岸まで、というが、顕界では彼岸を過ぎてもなかなか涼しくなる様子を見せないという。季節の変わり目も幻想入りしたのか、賽の河原の逢魔が時は肌に大分優しくなっていた。普段は陰鬱なこの辺りも、世界を朱と金に染める夕日に彩られて明るく、美しく輝いている。
 そんな三途の川のほとりでは、親より早く死に別れた子供達が平たい石の塔を積み上げている。完成させれば自らの供養になり、苦行を免れるというその塔は、鬼の妨害によってしばしば解体の憂き目をみる。しかしめげずに子供達は、存外明るく己の苦行に挑む。
 そんな子供達の様子を眺める、二つの長い影。影の下へと目を転じれば、幻想の境界と冥界の管理者の姿があった。
「一献どう、なんていう割に、随分なところに呼び出すじゃないの?」
「なかなかな風情だと思うけど」幽々子は涼しげな笑みを掃く。「子供って良いわよねぇ、純粋で、ひたむきで、未来に何一つ迷いがない。鬼が壊してしまうって解ってるのに、健気ねぇ。氷精みたい」
「呆れた」紫は態とらしく驚いて見せた。「大体、逆でしょ。妖精が子供っぽいのよ……まあ良いわ、幽々子の事だから」
 何か考えでもあるのでしょうし、とまでは言わず、紫は隙間に手を差し入れる。何やら隙間の奥を探る友を横目に、幽々子は眼を細める。
「ねえ紫」幽々子は口元を隠していたが、口ぶりからしてあの笑みは消えているらしかった。
「何度見ても慣れないわねぇ。……あんな子供、今まで何百何千と見てきたというのに、ね」
 二人は押し黙った。日が落ち、河が金色から橙に染まっていく。
「……幽々子」
「なあに?」
「今更、私を責めるの?」
「そう思う?」幽々子は目を伏せた。「ここにいる子達は皆、病で死んだか、さもなくば口減らしの為に送られてきた子だわ。……でも、あの子は生きる為に、ですらなかった。飢えてすらいないというのに、ね」
 紫は止めていた手を再び動す。今回の一件は博麗の巫女を通じ、世間話の形で紫の耳に入っている。
「衣食足りて礼節を知る、と言うけれどね」
 外の世界を知る紫とて、嘘だとは知っていた。顕界の人の心は貧しくなる一方だ。
「勝手なものね」
 紫は自分に言い聞かせる様呟いて、銚子と徳利を摘み出す。「美味しいお酒にはなりそうにないわね」
「あら、でも紫のそういうところ、好きよ」
 紫は徳利を持ち上げる手を止めて、頻りに瞬いた。
「……まさか、慰めてるの?」
 幽々子はやはり答えなかった。紫から徳利を取り上げ、手酌を煽る。「はい、紫も」
「いいのよ、私は罪深い女」紫は呟いた。「幻想郷を、いいえ幻想を守る為という大義の下に、多くのものを犠牲にすてきた。人を箱庭の中に飼い、均衡――脆く儚いそれを守る為に、手を下した。いいえ、自ら手を下し己が身に背負おうともしなかった」
「ねえ、紫」
 夕闇の影は深まり、空の色は茜から紫に彩られつつあった。紫は空を仰ぎ、杯を握り締めていた。幽々子は紫の目の前に、杯と徳利を差し出した
「注いで頂戴」
「はいはい」
 あんたがこんな所で飲もうって言い出したんでしょう、と喉まで出かかったが、言うは野暮と酒を注ぎ、自らも杯を煽る。幽々子のマイペースぶりには時に紫でさえも振り回されがちだ。
 でも、そんな幽々子に振り回される今の関係は、紫には心地良い。
 何より、幽々子の心からの笑顔がある。
「でね」
 幽霊嬢は如何にも楽しげに、口元を覆った。
「書架にアレ放り込んでおいたの、紫なんでしょう」
 紫は盛大に酒を噴き出した。
 あんまり派手に噴き出したので、幽々子は笑いながら、咽せる紫に手拭いを差し出しつつ背中をさする。
 嗚呼、もう、本当狡いわこの子。何もかもお見通しって訳ね。
 西行妖にまつわる書物が、幽々子の目の届くところにあったのは偶然だろうか? 否。迂闊に当主の目に触れぬ様、件の書物は奥深く仕舞い込まれていたのだ。
 誰かが幽々子に春を集めさせ、幻想郷の生と死の境界を緩め、そして―――。
 目尻の涙をそっと拭いつつ、紫は幽々子に降参を告げた。
 幽々子は友の背中をさする手を不意に止める。「ねえ、紫」
「なあに?」
「あれの事、申し訳ないと思っているのなら、止してね」
 ありがと、と呟きながら、紫は酒で咽せたにしては随分長く目許を押さえていた。
「で、今日はどうしてここに呼んだの?」
 手拭いを幽々子に返し、紫は訊ねた。日は水平線の向こうに消え行き、虫の声が風に乗って、夜の帳を引き寄せつつある。
 それはね、と言いながら荷物に手をかける幽々子の後ろに深い影、一つ。
「私が教えて差し上げましょう」
 聞き覚えのある声に、二人は恐る恐る顔を上げる。幻想郷の大立者である二人が狼狽える相手など他にいようはずもなく、果たしてそこには、風呂敷包みを両手に抱えた楽園の最高裁判長、四季映姫・ヤマザナドゥの姿があった。
「おや? 二人ともどうしたのですか? 私がここに来るのがそんなに珍しい……なんて事はないですよね。大体ここは彼岸ですし」
 狼狽を慌てて隠そうとする二人を余所に、映姫は満面の笑顔で応えつつ、有無を言わさず隣に腰掛ける。
「し、四季様こそこんな所で」幽々子はいそいそと、仕舞い込んだ筈の手拭いで口元を押さえた。
「貴女と同じですよ、幽霊嬢。――つまり、死を想え、って事です」
 映姫は荷物を傍らに置く。置いた時の音からして、中身がぎっしり詰まっているのは間違いなかった。なるほどね、と幽々子は頷き、ねえ、そうなの? と紫が囁く。
 しっかりして頂戴、忘れっぽいにも程があるわよ、と幽々子はいらえた。今日は何の日?
 紫は暫し考え込んでいたが、突然、ぽんと手を打った。「そういう事ね」
「そういう事です。……混ぜて戴いても宜しいですね?」
「ええ、是非とも」二人は声を揃えて答えた。
 鬼達は映姫達に気付くと仕事を止めて近付いて来た。映姫が帰る様申し付けると、鬼達は恭しく恐れ畏まった一礼を残して帰って行った。
 鬼達が去ると、映姫は子供達を呼び寄せる。鬼が去っていったお陰で、子供達はいい笑顔で三人を囲んだ。
 頑張りましたね、と皆に話しかけ、映姫は傍らに置いた風呂敷包みを開く。結わえを解くと中からは大きな折り詰めが現れ、子供達の視線は折り詰めへと釘付けになる。
 映姫が蓋を開けると、中には色とりどりのおはぎが並んでいた。


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