胡蝶の夢
冥界は春爛漫。
桜は冬の間守り抜いてきた命の証を蕾一杯に溜め込み、今がその時とばかりに開き切る。開き切ってなお、散った命の内には新たな命が宿り、芽生え、また花開く。
いつぞやの年は大変だった。次の六〇年後は気が重い、否、その頃には小町も左遷ですね、などと春には余り似つかわしからぬ不穏な思考を巡らせつつの歩みは、しかし存外楽しいものでもある。鬱憤晴らしの空想も程々に、楽園の最高裁判長四季映姫・ヤマザナドゥは白玉楼の石段を、春来る悦びと共に踏み締めていた。
暖かい朝の日差し。清々しく澄んだ冷ややかな空気。全てが朝の活力を掻き立ててくれる。散り行く桜の花は一抹の侘びしさを秘めるが、その先にもっと豊かな実りがある事を映姫は知っている。
頭上にばかり目を奪われていては片手落ちというものだ。足下には可憐な菫やおおいぬのふぐり、はこべにたんぽぽ白詰草が花開く。紋白蝶や紋黄蝶が花々の間を縫って飛び回る姿の愛らしい事といったら! そう言えば、風見幽香の花畑も今の時期なら向日葵ではなく菜の花や蓮華で一杯かもしれない。今度様子見がてら弁当でも持って遊びに行こうか、行ったら嫌な顔をされるだろうか。たまには誉めてやらねばなるまい。
映姫の楽しい空想の一時は、白玉楼の門から現れた妖の影によって静かに幕を閉じ、別の場面に取って代わった。妖の影はぱっと開き、薄紅色の花を付ける。ゆるりゆるり、遅れて現れた優美な姿は幻想郷の妖怪賢者、隙間妖怪こと八雲紫その人であった。
「お早う」
「あら、お早う御座います閻魔様」
「眠いのか、それとも厄介な相手に出会ったと、そんな顔ですね」さっと扇で顔を隠す紫に、映姫はちくりと一刺しを飛ばす。紫はあら、そんな風に見えましたか、欠伸をお見せする訳にも参りませんものね、などと例によってのらりくらり。
「しかし珍しい、こんな朝早くに独り散歩とは。……朝帰りですか」
「お行儀悪いですわよねぇ」紫はぱちりと扇を閉じる。「でも、せっかく気持ちの良い朝ですから。偶にはあの吸血鬼を見習って苦労する悦びとやらを味わってみようかと」
「これが苦労の内に入るんですか?」
それは物臭に過ぎるというものですよ、と苦言を呈しつつも、映姫には紫の気持ちが解らないでもなかった。花曇りという言葉が生まれる程この季節は薄曇りや不意の雨が多いが、今朝は雲一つ空にかからぬ素晴らしい快晴だった。風は気持ちよく、世界は光に満ちていた。篝火に照らされた夜桜がどんなに美しくとも、朝日に輝く桜の美しさには叶うまい。夜を生きる妖怪が気紛れを起こして外を歩きたくなるのも道理といえよう。
折角だし、こんな機会は早々あるまい。映姫は石段の桜をさっと払って、無造作に腰掛けた。一応紫の分も花弁を払ったが、紫は立った侭であろうと踏んでいたので、紫がハンカチを敷いて腰掛けたのが視界に入ったのを見付けて、僅かばかり細めた眼を開いてしまった。映姫は内心、見られていなければいいのだが、とつまらぬ気を回していたが、紫の方は桜を見上げているか、気付いていても気付かぬふりをしている様に見えた。
「幻想郷に来てから何度この光景を見て来たでしょうか。なのに、不思議と全く飽きるという事がありません」
「私もですわ」紫が応じる。
「貴女もですか」
「ええ。この季節が巡る度、来年もこうして、幻想郷で桜が見られます様に、と博麗神社に願かけしておりますの」紫の傘がくるりと半回転し、桜の花弁を振り落とす。花弁は蝶の舞を模した軽やかな軌跡を描いて、辺りに散る。
「幻想郷が安定するまで色々な事がありましたね。あの頃は何時此処が消えて無くなるのかと肝を冷やしたものです」
「無くしてなるものかと必死でしたわ」傘越しに天を仰ぐ紫の横顔は、過去を懐かしむ様にも、厭う様にも映った。眼を細めたは果たして、陽光の眩しさ故か、苦難の日々を反芻するが故なのか、しかしそれは映姫には解らぬ。こういう顔を他には滅多に見せない事だけは、長い付き合い故に映姫も良く知っていた。こんな素顔を見せるのは、他に西行寺の当主か式位だろう。あの式も今でこそ結界の維持に勤しんでいるものの、当初は幻想郷に降りかかった数限りない災厄の、もっとも厄介な一つであったのだ。
「白面は良くやっているようですね」
「お褒めに預かり恐悦至極」八雲紫はいつものアルカイック・スマイルを取り戻していた。「集落を一つ潰された日には、幾度縊り殺してやろうかと胃の腑が煮えくり返ったものですわ」
「貴女がその顔でその台詞を言うと、なかなか凄味がありますね」映姫は映姫で不敵な笑みで応じてみせる。これくらいでビビる様なタマでは幻想郷の閻魔は到底勤まらない。「しかし貴女はそうしなかった。罪を許し、また償う機会を与え力を役立て、復讐に猛る者達を抑えて無益な殺生と憎しみの連鎖を断ち切った。流石は妖怪の賢者、知恵だけでなく徳も高い」
「お褒め下さっても何もお出し出来ませんわよ?」
「偶には誉めたって良いでしょう? それではまるで私が二六時中説教している様な物言いではありませんか」映姫は紫に疎ましげな一瞥をくれる。「大体ですね、貴女は少し自己韜晦癖が過ぎる。貴女は貴女の徳を余りにも隠し過ぎている。徳をひけらかすは小人の振る舞いですが、偽悪ぶるのは程々にしないと、三途の川の渡り賃が足りなくなりますよ。春雪異変の件だってそうです。貴女が嗾けて…………くどくど…………」
半時後。
白玉楼の階段には、閻魔の膝の上で寝息を立てる隙間妖怪の姿があった。
紫は説教が二十分を過ぎた頃から船を漕いでいたが、その様子に気付いた映姫が紫に喝を入れると突然跳ね起き、もう勘弁して下さいとむにゃむにゃ呟きながら、その侭映姫の膝に突っ伏して眠ってしまったのだった。
膝の上に流れる金糸は映姫に川のせせらぎを思い起こさせた。春風に靡く金糸、絡まるひとひらは一幅の絵画の様。無防備な、限りなく無防備で安らかな寝顔。さしもの映姫も説教をする気などとうに失せていた。映姫がそっと髪を撫ぜると、指に絡まった黄金は捕らえ所もなくするりと、指先から逃げる。手の内には唯一枚の、桜の花弁。
「こんな所まで捕らえ所がなくたっていいのに。ねぇ?」
指先で髪を梳り、弄びつつ、一向に起きる様子のない紫に話しかける。幻想郷(ここ)では厳格で通っている映姫のこんな顔を知っている者は、白玉楼の桜の他にはない。
お疲れ様。今は眠りなさい。
「っと、今日は休日じゃなかった」
映姫は紫の頭をゆっくり起こし、傘を畳む。紫は起こされてもすぐしなだれかかり、自力で帰るのは無理そうだった。映姫は一念発起して、えいやっと紫を背中におぶる。
「どうせ小町もサボってるでしょうし、偶には少し寄り道していきますか」
最初の二、三歩はよろけたが、背負う位置を調整すれば存外その後は安定した。傘をどうしようか迷ったが、ここに置いておけばその内庭師あたりが見付けるだろう。人一人(妖だが)を背負って階段を下りるのはちょっとした苦行だったが、それでも映姫にとってはさほど困難でも無かった。
「それに、折角こんな日ですから」
偶には、報いてあげなければね。
日も高くなりつつあった。映姫は背中に歴史の重みを感じていた。
-了-
「まーた寝ちゃったんですか紫様! わざわざ運んで戴いて申し訳御座いません……しかし説教最中に寝ちゃうってどんだけ!」
「彼女も色々忙しいのでしょう、偶にはこんな日もあっても良いんですよ」
「……ここだけの話ですけど、紫様は毎月この日に幽々子様と徹夜で碁を打つ約束をしておりまして……」
「遊びで寝ちゃったのかよヲイ!」