名残雪

 時は皐月ももう半ば、春を過ぎて初夏に入らんとする時期。
 が、幻想郷は今漸く長い冬を終え、春を迎えんとしていた。
 冬の忘れ物は些か長すぎた冬を惜しみつつ、最後の挨拶残し、望まれた春と入れ違いに幻想郷を去った。

 冬に忘れ去られた白玉楼の門は一足早く満開の桜で彩られていた。花は既に命の盛りを過ぎ、生き急がんばかりに短い命を散らし行く。
 生きとし生けるものが最も生を謳歌する季節。それは本来レティ・ホワイトロックにとって疎ましい季節の筈であった。
 不思議ねえ。
 長い白玉楼の石段を一歩一歩踏み締める。空を飛べば一々歩かなくても良いのに、敢えて過程を楽しむ。長き冬を思い出す様に、レティは桜の絨毯に彩られた花道を歩いた。常なら桜が綻ぶより早く幻想郷を去らねばならぬ身には許されるが稀な贅沢を、噛み締めるべく。
 春の訪れって、こんなにも恋しいものなのね。
 肩に乗った桜の花を摘み上げ、レティは暫くその花を指で弄んでいたが、やがて胸のブローチに花を挟み込み、白玉楼の門を潜った。

 レティは毎年春の訪れの最後に白玉楼を訪れ、当主に挨拶をしてから幻想郷から姿を消す。雪女と冥界、一見繋がりのない様に思える組み合わせは、聞けばもっともの深い縁で結ばれている。古今東西冬は常に死と結び付けられて来たが故に、謂われが存在を縛る幻想郷に置いてはレティもまた、冥界と深い縁を持つ存在なのである。
「おや、レティさん、お久し振りです」
 門を潜るといつもの庭師が箒片手に桜の花弁と格闘していた。会釈を交わすと、庭師はあちらです、と二百由旬の庭を指した。庭師が箒に目を向けたほんの刹那に、雪女は風に溶け入る雪の様に、姿を消していた。

 レティが庭師の指した方向に従って白玉楼の周りを漂っていると、縁側でお茶を飲む当主の姿が上空から垣間見えた。レティが舞い降りると、舞い起こった風で桜の花弁が宙を漂って、やがて元の位置に納まった。当主は何事もなかったかの様にお茶を啜り終え、盆の上に湯飲みを置く。
「お久し振りね」
 ええ、とレティはスカートを摘んで一礼した。冬が長引いて、来るのが遅くなりましたとも付け加える。いえいえ、どうぞうちの桜をゆっくり見ていってやって下さいな、と当主は返した。
 いつもの冬なら、まず見る事はないでしょうから。
 扇の狭間から覗いた含みのある笑みは、レティの目には届かなかった。レティは勧められるが侭に花曇りの空を見上げる。
 頬を舐める、温い風。
 大気に運ばれる、命の残り香。
 雪の様だわ、とレティは思った。だが、あの冷徹な迄に透き通った大気の清々しさは此処には無い。此処が冥界だからだけではない様に、レティには思われた。冬は死の季節でもあるが、浄めの期でもあるのだ。春には何処か、退廃的な、そう、腐敗の匂いがする。
 腐敗―――?
 冥界に毒されているのだろうか。
 纏い付く幻想を振り払う様に頭を振るレティに、当主は何を思いだしたかぽんと手を打った。
「そう言えば、今年はうちの自慢の桜がもう少しで花開くところだったの。見ていきません事?」
 断りたかったが、勧められて座を退く無礼を働ける程子供でもなかった。当主は幽霊を呼んで茶を煎れさせる様言付けると、ささ、どうぞと年に一度の客人を招いた。レティも後を追う。
 主人に連れられ丁度四つめの角を曲がった先で、レティは足を止めた。
 雪……?
 まさか。
 頬を掠める一片の、あまりの冷ややかさに、レティは空を仰いだ。
  (そび) え立つ圧倒的な威容。
 巨怪な、としか言い様のない、黒々とねじ曲がった侭天を指す幹。
 張り巡らされた枝は儚い命を絡め取っては食らう蜘蛛の巣の巧緻にも、触れた者の熱を奪い行く可憐な結晶にも似て。
 空を (ひび) 割る禍々しい枝を可憐な蕾で覆い隠し、桜は嗤う。春風のさざめきに、死の囁きをこき混ぜて。
 ああ、まるで、雪だわ。雪の様だわ。
 この樹は、死臭がする。
 花弁は雪の結晶の如く冷気を、死を纏い付かせて降り注ぐ。
 見る者全てを死に誘う、美しくも残酷な。
「拙宅自慢の桜は、如何かしら?」
 レティが我に返ると、幽々子が涼しい顔で茶を啜っていた。
 ―――まるで、死体でも埋まっていそうね。
 死を近しくする冬の妖怪さえも魅惑し、呑み込まんとする、そんな花がこの世にそうあって良い筈は無い。冥界に花咲かぬ侭封印されているという伝説の桜を、レティは大分前に耳にした事があった。
「ええ、実に結構でしたわ」
 レティは皮膚の下一枚の恐れを笑みに包み隠す。
 永過ぎる冬も。
 遅過ぎる春も。
「全ては貴女の所為なのね」
 白いマントが翻った。花弁が煽られて舞い上がる様は、さながら名残雪。
 ええ、と幽々子は、儚げに笑む。死の乱舞に彩られた華胥の亡霊の、何たる美しさよ!
 しかしレティは死に魅入られはしなかった。亡霊嬢が死を操るのなら、雪女はは死を引き寄せる寒気を操る妖。
 なれば、春の微睡みに忘れ去られし冬の恐怖を今、此処に。
「貴女の御陰で散々だったわ」花吹雪に、花曇りの空に白い物が混じり始めた。「春がちっとも来ないお陰で、流石の私だってくたくたよ。おまけに、紅白巫女の春請いの見立てに使われたわ」
「だって、封印を解いてみたかったんですもの」幽霊嬢はころころ笑う。鈴の音の様に愛らしく、涼やかに。
「呆れちゃうわ、 西行妖(これ) が何だか解ってる癖に」
「ええ、解っていてよ」
「春を奪った報いは、例い亡霊嬢とて逃しはしない。受けて貰うわよ、冬の裁きを!」
 二人の眼差しがぶつかり合って、爆ぜた。爆ぜて散った雪花は、大気に融けた。
「天花の一片に震えるが良いわ、花の亡霊!」
「死花の嵐に魅入られるが良いわ、雪の妖!」

 空に月が掛かる頃。
 自称・二百由旬の庭を掃き終えて戻った庭師を待っていたのは、ボロボロの二人が酒を酌み交わす、実に実に楽しげな姿であった。
 膳の上には杯が二つ。朱塗りに金箔で、桜と蝶の文様があしらわれている。宛ては桜の塩漬けのみ。それを摘みに、ちびりちびりとやりながらの夜桜である。生憎空に掛かる月は満月とは行かないが、それでも無いよりはずっといい、という程度には月明かりを楽しめる。膳の脇には、空になった銚子が二つ、三つ。幽々子は幽霊より受け取った漆塗りの銚子を手に取り、此又朱塗りの杯に並々、酒を注ぐ。
 レティが口を付けようと杯を引き寄せると、はらり、胸から零れた花弁がひとひら、杯の上。
 冥界の春は一足早く、終わりを告げようとしていた。
 -了-



Back