白面の者

 ―――白面金毛九尾は追い詰められていた。

 傑作だ。
 大陸の三つの国を平らげし亡国の魔が、極東のちっぽけな島国で果てようとは。
 否、国を滅ぼす程の妖力が過信を産み、奢りが金毛の仇となった。たかが島国と侮り下調べを怠ったが故に、宮中に潜り込んだまでは良かったが、国王が現人神とは名ばかりの何の権力も持たぬ人柱、傀儡と気付いたのは寵を得てからの事であった。しかも、この国の民は妖狐の好物たる血の滴りを穢れと呼んで忌み嫌う。貴族達は宴会三昧、詩を詠んでの言霊遊びを政と称する。無論彼らに権力闘争が無い訳でもない。が、この国の言霊を弄び尽くした果ての権謀数術に血の滴りが入り込む余地は無く、お為ごかしや遠回しな当てこすり、はたまたささやかな嫌がらせや呪詛合戦などのお上品な遣り取りは、血腥い政争を己が糧とする妖狐の好むところではなかった。大陸でのほとぼりが冷めるまでの小休止でしかなかった狐には運の悪い事に、この国は希代の呪術国家でもあった。聖なる人柱を中心に据え、人ならぬ異形までをも組み込んだ精緻な絡繰りに、取り込まれたと知ったのは退屈に飽いたばかりに王に施した呪詛がばれ、這々の体で都落ちする羽目に陥ってからであった。
 なりを潜めていたものの、白面はそろそろ大陸が恋しくなっていた。が、戻るには力を蓄えねばならぬ。妖狐は目立たぬ様身を窶し、旅人や女子供を攫っては食らっていたが、どこぞの妖怪共の縄張りに踏み込んでしまったのが運の尽き。争った挙げ句に妖怪の集落を丸々一つ潰してしまった。易くは言うが、要するに虐殺、である。存分に己の力を見せ付けてやれば逆らうまいと読んだ白面の当ては見事に外れ、妖怪側から朝廷に白面九尾の討伐依頼が出て朝廷がそれを受ける、という異例の事態に追い込まれていた。天津神に依って力を奪われ、恭順を拒んだが故に零落した彼らが、よもや朝廷の味方に付くとは、さしもの妖狐にも想像の埒外であった。
 三つの国を平らげし己が、こんなちっぽけな島国で朽ち果てるのか。
 否、まだ果てると決まった訳ではない。今までだとて三度捕らえられたが、三度とも逃れたではないか。
 まだ己の命運は尽きていない、と妖狐は己に言い聞かせた。
「そうやって、迫り来る己の破滅から身を背けようというのね」
 鈴を転がす少女の笑いが、疾風に混じって金毛九尾の耳朶を擽った。
「?」
 聞こえる筈もない。気の所為だ。幻聴。さもなくば、翼を持たぬ雇われ陰陽師が放った苦し紛れの呪詛。金毛白面があるのは高度千尺余り、それも雲を切る速さで飛んでいるのだから、天狗でもなければ追いつけぬ筈だった。ましてや。ましてや、国に飼われた陰陽師如きに―――。
「可哀想にねぇ。あんなに美しかった毛並みも、すっかり色褪せて」
 妖狐は振り返った。振り返って、己が目を疑った。
 傍らに、少女が微笑んでいた。

「初めまして、玉藻前さん。……それとも、若藻さんとお呼びした方が宜しいかしら? 褒さん? 華陽夫人? 妲己? 嗚呼、あれは貴女に喰われた人の名前だったわね」
 食えない奴だ。妖狐は一人ごちた。恐らくは、そう易々とはあしらえまい。
 東方には珍しい、長く豊かに波打った金の髪。狂気と高貴、熱と怜悧とを併せ持つ精神の色を宿した瞳は人の姿を取りつつも、少女が人ならざるモノ――即ち、己と同じ物の怪の類である事を示している。否、例え少女が妖狐と共に虚空を往かずとも、金糸を靡かせずとも、無垢と艶麗さとを兼ね備えたこの世ならざる美貌を一目見た者ならば、彼女が彼岸の存在である事を直感するであろう。白の袿袴に沢地萃の卦と太極図をあしらった前垂れがはためく。
「ねぇ、ものは相談なんだけど」
 少女は甘える様な呼びかけを投げた。白面はとことん無視するつもりだった。が、少女の唇から放たれた一言が、白面の足を初めて止めた。
「貴女、私の式にならなくて?」
 白面は初めてまじまじと、少女の面を穴が空くほどに見つめた。
 ――――食えないにも程がある。
 此程臆面もなく侮辱されたのは生まれて初めてであった。雲を切り、風を薙ぐ尾がふるりと、宙で震えた。白面の紅潮し強張った面が、唇が漸く形を為して、漸く漏らしたいらえは、誇り高き野生の矜持を踏みにじられた怒りと呆れの果てに絞り出された、やや尻上がりのはぁ、というそれの他に続かなかった。
「やぁだ、眉間に皺を寄せちゃ傾国の美女が台無しよ」
「お前がそうさせた」
「やっぱり、怒った?」少女は扇越し、屈託無い――様に見える笑みを零す。妖狐は飽く程の年月を宮廷の政争の中で過ごしたが故に、人の顔の奥にある欲望を、真意を読み取る術には長けているという自負があった筈なのだが、少女の裏には何の悪意も、企みも読み取れなかった。
「これは取引ではないわ。命令よ。もう一度言うわ――――私の、式になりなさい」
「―――否、と言えば?」
「貴女は今、破滅か否かの人生最大の岐路に立っているのよ。判って? 選択の余地は無いわ。私は貴女に助けの手を差し伸べてるの」
 判らぬ、と言いたげに金毛はかぶりを振った。少女は可愛らしく小首を傾げ、困ったわねぇ、などと鷹揚に呟いたかと思いきや、扇を閉じて金毛の眼前に突き付けた。
「天の恵みに感謝なさい、この分からず屋。この私がお前の妖力を買ってわざわざ出向いたのよ」
 何が、この私が、だ。
 餓鬼の飯事に付き合う義理なぞない。
 唇を尖らせ、むくれる様子など、頑是無い少女そのもの。この世は何もかも、己の思い通りにならねば気が済まぬと言わんばかり。この上なく自分勝手且つ理不尽極まりない言い草に、白面は少女を侮辱したい衝動に駆られた。白面は身を翻すと、度重なる朝廷の攻撃に疲弊して若干擦り切れてはいるが、この上なく豊かな柔毛に包まれた九本の尾で少女の面をふわりと撫ぜた。少女は面食らって、そして一つ大きなくしゃみをした。
「尻の青い小娘が、城の一つも食らってから出直して来るんだな」
 身を翻し、勝ち誇った妖狐の面から余裕が消えた。
 何時しか周りを幾重にも張り巡らされた結界に、取り囲まれていたのだ。ふさふさと豊かに揺れる自慢の九尾が描く軌跡が、結界の最後の総仕上げを御丁寧にも締め括っている。
 ――――――罠、だったのか。
「はい、どっとはらい。お前の負けよ、白面の者」
 妖狐の口から感嘆と観念と、それから茫然自失の溜め息が一つ、漏れた。何とまあ、見事な罠だろう。同類の癖に己より一枚も二枚も上手なのだから、悔しがるどころか感嘆此久しゅうするより他無い。恐るべき知恵、恐るべき妖力。城一つどころか、国の二つや三つは平らげて然るべき力。
「だのに、何故……」
「私程の妖力の持ち主がどうして朝廷に与しているかって?」
 風が少女の髪を頬を撫ぜていた。空の藍よりも深い色が、黄昏を受けて金色に輝いた。あの胡散臭い裏の見えぬ微笑みは何時しか、宙に霧散していた。
「永遠の夜が無い様に、百鬼夜行の夜もいずれは明けるわ――――あやかしが力を振るう世の、終わりの始まり。あやかしの夜は終わり、人の黎明が始まるわ。貴女にはまだ聞こえない? 人は弱い。確かに弱い。けれど、自然は常に強き者が勝利を収めるとは限らない。否、弱い者こそが生き残るのが世の理。貴女が雌伏を余儀なくされたのも、己の力に酔って人を侮ったからじゃなくて? 強大にして狡猾、世を生き抜く術には長けているのかもしれないけれど、己の過ちから学ばない貴女は本質的に愚かなのよ。―――それに、人の力を借りてでも、守らなきゃならない物が私達にはあるの」
 太陽を一身に負った少女の神々しさ。
 菩薩というものがこの世にあるなら、それに似ているのだと妖狐は思った。慈愛と厳しさを兼ね備え、亡国の魔をして圧倒せしめる程に。
「貴女はそれを壊した。本来なら八つ裂きにしても足らないわ。でも、お前は並の妖狐ではない。それだけの力を得るのにどれだけ多くの血を啜って来たのやら。唯運命に従ってこのまま露と消してしまったら、民草が浮かばれないでしょう? だから、止めたの」
 訝しむ妖狐を前に、少女は言った。
「そうよ。お前は国中の人妖を敵に回したのよ。この国の御柱である帝を害し、妖を滅ぼしたお前を守ってくれる者は、この国には一人もいない―――私の他には」
 少女は妖狐の双眸を覗き込んだ。口角の吊り上がる形が、月を思わせた。
「お前の潰した集落は、結界を守護する役割を負っていた。彼らを殺し、集落を破壊した事で結界は少なからぬ損害を受けた。結界の修復に掛かった労力は思い出したくもない位よ。妖怪の重鎮達は皆貴女を殺すべきだと結論付けたけれど、お前を滅ぼすのは惜しい。だから、もう一度言う。お前は私の式となり、結界を護り、維持する役を担いなさい。そうして、罪を償いなさい。そうしないなら―――私が、お前を無間地獄、虚無へと送り込んであげる」
 少女の背後に、仄暗い空間が口を開く。
 嗚呼。
 金毛九尾が華陽夫人と呼ばれていた頃、嘗て風の噂に聞いた。
 倭と呼ばれる東の島国に、境界を操る妖が住むと。
 言霊と共に産まれ、論理を弄び、意味を操ると。
 強大な力と、力以上の知恵とを備え、人の心を読み操ると。
 その名は―――――――。
「知ってたの。そう、私の名は八雲紫」
 少女は艶然と微笑んだ。
「今日までのお前は、今此処で死ぬの」
 紫の手にある扇が、金毛九尾の身を打った。金毛九尾は身を竦めたが、しかし何も起こらなかった。紫が扇を払うと結界は崩れ、金毛九尾は躯がすっと軽くなるのを感じた。妖気が薄れ、塊となって地上へと投げ出される。
「朝廷にはあれで十分言い訳になるでしょ」地上で土煙を上げる塊を一瞥すると、紫はぬかずく妖狐の手を取った。
「お前は生まれ変わって私の式になった。お前はこれから、八雲藍と名乗りなさい」
 は、と金毛九尾は短くいらえて、偉大な主人を仰ぎ見た。
 三つの国を平らげし亡国の魔、白面金毛九尾は死んだ。死して、八雲藍としてこの世に生まれ変わった、瞬間であった。


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