氷精とカエルの神様


 幻想郷は今日も平和です。
 妖怪の山の山頂に威光正しくそびえ立つ守矢神社も、勿論平穏そのものです。

 今日もいつもと同じ、特に変わった事もないごく平凡な一日でした。いつもと違う点を挙げるとすれば、神奈子様が外の世界の神々との折衝に赴かれるべく為下山しておられるのと、冥界の閻魔様が訪ねて来られた事位でしょうか。代わりに、留守を守っておられる諏訪子様が閻魔様との折衝に当たられました。
 今日訪ねてこられた閻魔様は四季映姫・ヤマザナドゥ様と仰るお方で、見た目こそ大変可愛らしいお嬢さんですが、大物妖怪さえも一目置いている幻想郷きっての実力者なのだと聞かされ、私などはお茶をお出しする一挙一動にも身が締まる思いでした。あんまり私が緊張しているのを見かねて、閻魔様は変な顔をするわ、諏訪子様は笑い出すわで私は恥ずかしさのあまりに足の爪先まで真っ赤になる思いを致しました。何でも映姫様は職務に熱心なあまり、衆生を放っておけぬたちだそうで、ついつい説教をしては煙たがられがちなのだとか。とうとう初顔相手に、説教もせぬ前から怖がられる程になってしまったか、と零されるのを耳にするにつけ、大変申し訳ない気持ちで一杯になってしまいました。
 さて、そんな私のそそっかしさを余所に諏訪子様と映姫様のお話し合いは順調で、話題はすぐに折衝から世間のよしなし事へと移り、お二人は話に花を咲かせておりました。私も傍らで耳をそばだてておりましたが、お二人とも見た目が見た目ですので、ついついお二人の立場を忘れてしまいそうになるのでした。お二人はすっかり打ち解けておりまして、諏訪子様はお昼も是非御一緒にと頻りに映姫様をお誘いするのでした。
 私が昼餉の準備をすべく席を外しますと、表に誰かが訊ね来ておりました。
 何用かと訪ねますと、この者は霧の湖に住む湖の主の使いと名乗りまして、守矢神社の霊験あらたかなる噂を河童やら天狗やらより聞き及び、是非とも願いを叶えて欲しいと言うのでした。何でも、霧の湖には以前より困った妖精が住み着いており、己の眷属のかえるを凍らせて遊んでいるので大変困っている、やめさせようと妖精を呑み込んだりして脅かすのですが、ちっとも懲りた様子がない。何でも守矢神社の本殿に奉られているのは我等と同じ蛙の神様だとか、是非とも守矢神社の霊験を以て氷精を退治して欲しい。霧の湖の主は湖一帯の生き物を取り仕切っており、氷精を退治した曉には湖のナマズと鯉を各々十匹、シジミ一升その他諸々を奉納し、守矢の神を信仰致します、と言うのでした。
 私はまたとない好機だと思いました。守矢神社の信仰を集めるのにこんな巧い話があるでしょうか? 私は主の使いに暫し待つ様申し渡し、先ずは諏訪子様の判断を仰ぐ事に致しました。なるほど、己が眷属の話であれば聞かぬ訳には行くまいと乗り気な諏訪子様に、映姫様はしかし、無駄だと思いますけれど、と水を差すのでした。何でも映姫様は以前、件の氷精を退治して説教をした事があるのだそうですが、そこはそれ、妖精の事ですので難しい話をしてもすぐに忘れてしまいましてまた蛙をいじめるので、さしもの映姫様も諦めて放っておく事にしたのだそうです。
 取り敢えずは話を聞きに湖へ行ってみましょう、と諏訪子様が仰ったので、私達は出発の準備を致しました。現場百回というしね、と仰ったのを聞き留めたのか、映姫様は頻りに首を捻っておられました。

 霧の湖周辺に来たのはこれが初めてでした。
 件の湖については博麗の巫女やら魔法の森の魔法使いから話に聞いてはおりましたが、聞くと見るとでは大違い。その名に違う事なき濃い霧が辺り一面を覆っておりまして、湖の向こう岸が殆ど見渡せない程でした。ひんやりとした冷気を含んだ霧は肌寒く、寒さを苦手とする諏訪子様にはかなり厳しい御様子。湿って滑り易くなった足元に気を付ける様私を何かと気遣って下さるのですが、映姫様に背中をさすって戴いている様では、まずは御自分の身を案じて戴くのが先決の様に思われます。かくいう私もジャケット一枚羽織っていなければ、くしゃみの一つ二つは飛び出たに違いありません。出がけに熱いほうじ茶をポットを用意しておいて良かった、と内心自分の思い付きを誉めてやりたくなる心地でした。
 湖の畔を半時ほど歩いておりましたでしょうか、諏訪子様が急に蹲ってしまわれました。
「うう、これ以上ムリー。やっぱ蛙、もとい帰る」
 そう仰るのも無理もない事でした。辺りの冷気が一層濃くなったのです。
 私は羽織っていたジャケットを諏訪子様の方に掛けて差し上げました。ジャケット越しにも逆立つ肌が一層粟立って、私は両の袖に手を引っ込めて腕を擦りました。
「今更無茶言わないで下さいよ。後で温かいほうじ茶でも飲みましょ」
「あーうー……」
 諏訪子様はジャケットを引き寄せ、冷気の元へと恐る恐る近付いて行きました。私達も後から続きます。
「おおっとーッ!」
「きゃーっ!」
「!」
 諏訪子様は濡れた草に足を取られて土手を滑り降りて行きました。私達も後を追いましたが、濡れた草に足を取られて降りるのもままなりません。諏訪子様を追ってようやく土手を降りると、ぱっと目の前の霧が晴れました。
 目の前で、妖精が蛙の氷漬けを絶賛生産中だったのです。氷に閉じ込められた蛙が山を為す姿はなかなか壮観でしたが、そうも言っていられません。
 間違いない、あれが氷の妖精だ。
「ちょっと貴女……!」
 氷精の前で、土手を滑り降りて尻餅を付いた諏訪子様が起き上がろうとしている最中でした。
「わぁ! おっきいカエル!」
 氷精の青い目が、宝石の様に煌めきました。妖精はいきなり諏訪子様に飛び付いたのです!
「キャー! 諏訪子様ぁっ!」
 叫びも空しく、諏訪子様は氷精に抱き付かれ、氷の柱と化しておりました。

 氷精はすぐに映姫の手で柱から引き剥がされました。私は持って来たほうじ茶を諏訪子様の御柱、もとい氷柱に掛けて氷を溶かす助けにしました。何てとんでもない妖精なんでしょう! 諏訪子様は氷から助け出されてもあーうーあーうーと譫言を仰るばかりでしたが、私が頬を叩いて必死に呼びかけるとすぐにさぶい、お茶、等とまともな言葉らしい言葉を発せられました。
 映姫様は映姫様でカンカンに怒っておられまして、氷精の頭を掴んで諏訪子様の前まで引きずると、土下座しなさい、お前は何という大馬鹿者だと氷精の頭を抑え付けるのでした。氷精は頻りにぶつくさ申しておりましたが、映姫様が杓で頭を叩くとすぐに押し黙りました。映姫様は氷精に頭を下げさせると、その場に直れと氷精を正座させ、長々と訓戒を垂れ始めるのでした。なるほど、これがウワサの誰もが怖れる映姫様のお説教なのですね。
「以前ここに様子を見に来た時にも言ったでしょう。貴女は他の妖精よりずっと強い力を持っているのだから、もっと自覚を……」
「まま、良いではないか映姫殿」
「んぁ……?」
 映姫様を止めたのは、諏訪子様でした。
「良いのですかこのバ……うぉっふぉん……妖精を叱らなくても」
「え、あの、諏訪子様、良いのですか?」
 諏訪子様は呵々大笑致しました。
「百聞は一見に如かずとはこの事だわね。例えこの子を退治するなり追い払うなりして眷属の信仰を得られるにしたって、そうするわけにはいかないもの」
「……へ?」
「気付かなかった? 辺り一面の霧」
「はあ」私は気の抜けた返事を致しました。
「霧の湖周辺に怪異が多いとは聞き及んでいたけど当然ね、この子の所為じゃないわ。霧の湖の主ってのはなかなかの傑物だわね。早苗、このカエルの山を見て御覧?」
 確かに、凄い数です。
「早苗、生き物っていうのは、特定の種が増えすぎると生態系のバランスを崩すものよ。解るでしょ? この氷精が湖に住み着いてカエルを凍らせているのも、天地の神々のお導きなのよ。なるほど氷精を退治すればガマからの信仰心は得られるだろうけれども、霧の湖の生態系を著しく損ねてしまうわ。それにね……」
 諏訪子様は霧の向こうに赤い屋根を覗かせる洋館を一瞥しました。
 映姫様はなるほど、と頷かれました。守矢の力を霧の湖周辺にまで及ぼせば、幻想郷のパワーバランスに影響を与えるのは火を見るより明らかな事でした。八百万の神とはいえ新参の私達が、これ以上要らぬ波風を立てるのは望ましいとは申せません。私は改めて、諏訪子様の深い洞察に感服するのでした。
「じゃあ、今日はこれで戻る……って、事で良いんですか?」
 私は困った氷精の処遇をどうしたものかと考えあぐねておりました。氷精は先程から話に付いていけない様子で私達をしげしげ眺めておりましたが、これ以上叱られる様子がないのに気付くや「じゃあ、あたいはこのままでいいんだね!」と嬉しそうにあたりを跳ね回りました。
「うーむ、しかし幾ら貴女が良いと言っても、これでは他に示しが付かないのでは……」
 困り顔の映姫様に、諏訪子様は悪戯っぽい笑みを返しました。
「……でもさ、神仏に悪戯をした罰くらいは与えてもいいわよね☆」

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