黄金の林檎


 初めての邂逅が最期の別れになるとは誰が想像し得ただろう。竜の女王と世界を救う勇者との邂逅は、正にその様な物だった。卵に寄り添い、息も絶え絶えに勇者を迎えた女王の誇り高くも傷付いた姿は図らずも周りの涙を誘った。
 竜の女王の城は魔物達の攻撃で壊滅的な打撃を受けたという。女王は子を持つ身で天に一番近い城を任された責務を果たすべく奮戦し、城を守りこそしたものの自身は深く傷付き、致命傷を負って最早虫の息であった。あらゆる呪法が、薬が施されたが、女王の傷を塞ぐ事は出来なかった。天の医師団は魔王の呪いであろうと断じ、呪いを解く手段を持たぬ己の無力を嘆いた。勇者は、自分達が早く来ていれば助かったかもしれないのにと、悔やんでも詮無い事で秘かに己を責めていた。
 女王はそんな思いを察してか、彼らに告げた。
 こうなる運命だったのだ、と。
 己は次代に希望を託す為に死ぬのだから、と。
 女王は言った。
 光の玉は我が命、世界を光へ導く為、己が子の未来を光で照らす為ならば、命は惜しくありませぬ。
 けれども。
 この子の行く末を見届けられぬが、唯一つの心残りです。
 勇者よ。
 貴男に、我が命を、世界と、この子の行く末を託します。
 どうか、世界を闇から救って下さいませ。
 どうか、この子の、次代の王の行く末を、母に代わって、見届けてやって下さいませ。
 勇者の手に、命の玉が託された。静かに脈打ち、暖かく包み込む命の輝き。
 女王の巨体がゆっくりと、崩れ落ちた。祈る様な眼差しが、闇に閉ざされた。
「卵が孵るぞ」
 仲間の一人が、卵の(ひび)を見付けた。罅は滑らかな表面を見る間に侵食し、殻が弾け飛ぶ。裂け目からは爪と、柔らかい鱗が、形を為さない角、濡れてくしゃくしゃに丸まった翼が、小さな躯に遅れてまろび出た。濡れた、貧弱な躯。喉奥でごろごろと鳴る、微かでか細い唸り声。素手で一ひねりすればそのまま息絶えてしまいそうな風情である。
 半開きの目が見張られ、子は母の遺骸を見た。
 琥珀の瞳が、見る間に潤んだ。零れ落ちる、一滴。
 牙も生えそろわぬ口から、嘆きが迸った。母を失った悲しみが、言葉にならぬ侭に。熱を失っていく巨躯に縋り付き、世界中の悲しみを一身に集めたかに、喉よ張り裂けよ、とばかりに子は泣いた。
 勇者達は見守っているしかなかった。どう声を掛けて良いか解らなかったし、親を失ったのは同じだが、己は父の死を間近に見た訳では無い。勇者にとって父は遠い存在、雲の上の人だった。それに、今何を言っても慰めにはなるまい。
 嘆き疲れ、それでも母に縋り付く手を離さぬ侭、子は項垂れていた。勇者は傍らに立ち、子の肩に手を置いた。竜の子は頭を巡らせ、赤く泣き腫らした目を向ける。こんな時、己はどうすべきか?
「……一緒に、行こう」
 目に涙を一杯溜めて、竜の子は頷いた。

 竜の子は見る間に成長し、直ぐにも主戦力となった。
 勇猛果敢にして苛烈、自らの身を顧みずに挑む事もしばしばであったので、時には勇者が身を挺して攻撃を止めねばならぬ事もあった。一旦敵と認めたならば一切の容赦を許さぬ闘いぶりは、母を失った孤独を、戦う事、認められる事で必死に埋めようとしている様に思われた。街に着いた仲間達が休息を採る間にも、必死に自らを鍛えようと爪を振るい、魔術を学び、時には街から抜け出して魔物と戦っていた。勇者達一行は気付いてはいたけれど、彼のひたむきさを押し留める術を、説得力のある言葉を何一つ持っていなかった。
 あの慟哭が、耳から離れない。
 それに、あの熱っぽい、太陽の光を湛えた琥珀の瞳でじっと見据えられ、足手まといではないか、最後の決戦まで同行させてくれるのか、どれだけ強くならねばならぬのか、と訊ねられれば、無碍に止める訳にも行きかねた。余りに己を酷使し過ぎたが為に、竜の子はとうとう闘いの最中倒れてしまった。急いで宿に連れ込まれ、ベッドに寝かせられた竜の子は、朦朧とした意識の中で何度も、譫言の様に、置いていくな、行かないでと苦しげに呟くのだった。
 勇者はベッドの傍らで、竜の子の手を握った。
 置いてなんか行かないよ。仲間だろ。
 竜の子の呟きは途切れ、安堵の寝息が取って代わった。勇者は竜の子の頭を撫ぜながら、何時までも傍らで天の女王の忘れ形見を見守っていた。

 大魔王ゾーマとの闘いでも、竜の子は目覚ましい戦果を上げた。牙が、爪が、灼熱の炎が、魔法が、味方の危機を幾度も救った。身を挺して仲間を庇い、時には援護に回って皆を補佐し、何度も膝を付きかけながらも、勇者を助け、母の仇を討つ為、子は耐えた。
 闇の王は光に、屈した。眩い輝きに包まれ、聖剣に貫かれた魔王の崩壊する肉体。
「よくぞ、儂を倒した……」
 勝利に勝ち誇った勇者達の臓腑を、脳を擦り潰す嗄れ声が凍て付かせた。何もかもを絶望の淵に引きずり込む、本能からの恐怖を掻き立てる、あの声が。耳を塞ごうにも鼓膜を突き抜けて脳髄に直接染み込む、おぞましい響き。
「だが、光ある限り、闇も、又在る……」
「何おぅっ!」抗う様に、勇者は叫んだ。聖剣を突き立てる手に益々力を込める。
 ゾーマは萎びて、殆ど崩れかかった口角を吊り上げて、嗤った。絶望を啜り人心を弄んでは涙で喉を潤して来た恐怖の王は、勇者一人の弱さなどとうに見透かしていた。
「儂には、見えるのだ……再び、何者かが、闇から現れよう…………」
 その時、一同は見た。
 同意を得でもするかに、闇の王が竜の子に一瞥をくれたのを。
 目を瞠る竜の子を。
 闇にあって禍々しく、冷たく輝く暗黒の炎に絡め取られる、陽の輝きを。戦き、膨れ上がる、名も無き 情念(パトス) に突き動かされながら、それを形に出来ずに身を強張らせる様を。
「……だがその時は、お前は年老いて、生きてはいまい…………!」
 長く後を引く哄笑が、断末魔に取って代わられた。光が収まっても尚、空虚な城の大広間に、何時までも、何時までも反響の余韻が響いて、耳から離れなかった。

 黎明が世界を遍く照らした。天蓋の閉じる音が、故郷との別れを告げる。昇り行く旭日が頭上に登るまで、一同は空を見つめていた。
「この光景も、そのうち当たり前に繰り返されて行くんだろうな……」勇者は重い口をようやく開いた。
「何、この日の事を忘れる奴は居ないさ」賢者が返す。「この日を生きた者全てが死んだって、子々孫々に語り継がれていくさ。俺達は、それだけの事をやった。だろ?」
「ああ」勇者は気のない返事で返した。
「……もう、戻れぬからの。我等はこの地で、生き、死に、骨を埋めねばならぬ」
 竜の子が、勇者の顔を覗き込んだ。
「共に苦労を分かち合ったのだ、これよりずっと、共に助け合って行こうぞ」
「う、うん……」
 肩を叩かれ、勇者は曖昧に相づちを打った。竜の子は労る様に手を引き、勇者を置いて他の仲間と共にその場を離れた。

 ラダトーム城では世界を救った英雄を祝賀ムードで出迎えた。彼らには父を失い、母とも今生の別れとなった勇者の胸の内など関係も興味も無かったし、永き時を闇に耐えて来た人々にそれを推し量れなど、言うにも残酷な事ではあったのだが。
 勇者の想いを余所に、王は英雄達を祀った神殿の復興を発表し、人々は口を挟むどころか此を喜び、競って喜捨を申し出た。無論、勇者は一等特別の扱いで祀られると決まっている。
 唯独り反対した者が、志半ばで散った過去の英雄を志を遂げた勇者と共に祀るのは縁起が悪いのでは無いかと注進したが、その声が浮かれた人々の耳に届く事は無かった。

「あれは、母の形見では無いか。返すと約束したのでは無いのか」
 部屋で寛ぐ勇者の部屋に飛び込んで来た竜の子は、息も荒々しく扉を閉めた。勇者がラダトーム王に光の玉を預けたという話を何処かで聞き留めたのに違いなかった。
「まあ、落ち着けよ」勇者は竜の子を宥めつつ、椅子を勧めた。
「これが、落ち着かずに、いられよう、か」竜の子は椅子に腰掛けようとはしなかった。が、勇者の差し出した水入りのグラスは受け取って、一息に飲み干す。「光の玉は、母の形見とはそなたも知っておろう。必ず返すと申したではないか。何故、人の子に託した」
「色々考えたんだ。あれから」勇者は空のグラスを受け取った。「確かに、君は強い。それは僕も認める。だけれど、君はまだ子供だろ。生まれたばかりだ。確かに成長は早い、驚いてるくらいさ。だけど、まだ君には学ばなければならない事が沢山あるし、とても強い意志を持ってはいるけれど、それでも心は子供そのものだ。母君が亡くなったとはいえ、まだ誰かの保護が必要な年なのに。違うか?」
 竜の子は頷いた。
「君はもっと、力の使い方や世界の事を学ばなければいけない。自分を大切にする事だってそうだ。人より成長は確かに早いかもしれない。けれど、竜が大人になるのには、人より遥かに時間が掛かる。ラルス王には君が心身共に大人になった時、真の持ち主である君に光の玉を返すように伝えた。だから、その時まで待つんだ」
 竜の子は少し考えた風を見せたが、やがて小さく頷いた。
「うむ、相解った。大人気なく振る舞った事、許せ」
 竜の子が頭を下げ部屋を去った後も、勇者は手許のグラスを弄びつつ、仲間が去った扉の向こうをずっと見つめているのだった。

 夜。
 竜の子は宴席には出なかった。魔物扱いされ、観衆の見せ物になってはたまらないと自ら辞退したのである。賑々しい宴会場を余所にベッドに潜り込むが、時間が早い所為なのか、それとも宴会場の騒ぎが気になってか、竜の子はなかなか寝付けなかった。眠れずに窓の外の月を眺め、星の数を数えたりしていたが、やがて下の階の灯りが灯ったのが見えたのを見付けてそちらに目を移す。夜も大分更けてはいたが、下の階の灯りがなかなか消えそうに無いのを見て取ると、勇者達を脅かしてやるつもりで竜の子は部屋を後にした。
 跫音を殺して灯りに近付くと、扉の隙間から部屋の様子が伺い知れた。部屋の中では勇者と仲間と酒盛りをしているらしく、酒を注ぐ音や食器のぶつかり合う音が話し声に混じって聞こえて来た。部屋に躍り込んで仲間に加わろうとドアノブに伸ばしかけた手を、竜の子は止めた。
「あの時のラルス一世の顔と来たら、おかしいったらありゃしない。あ、もう一杯」
「……しかし、どうして」
「ん」
 勇者が顔を上げた。
「光の玉をラルス一世に託したのは、間違ってたんじゃないか」賢者は少し酔っているようだった。「お前が約束してたのは、みんな聞いて知ってる。確かにあいつは子供だけれど、今更光の玉が闇の勢力に奪われる可能性は皆無と言っていい。なのに、何故だ? なあ、答えろよ」
 勇者はグラスの中の蒸留酒を一息に煽った。
「あんな約束、嘘に決まってんだろ」
 竜の子は息を飲んだ。賢者の手が勇者の胸座を掴むのが、ドアの隙間からもはっきり見える。
「どういう事だ」
 勇者は仲間の手を振り払った。
「お前も見ただろうが。いいか、ゾーマははっきり言ったじゃないか。『光在る限り闇も又在る』と。再び闇は甦るのだと。そうして、奴は再び闇を世界に甦らせる為、種を蒔いた。―――気付かなかったのか?」
 あの時の事を言っているのだ。
 賢者は黙った。黙って、杯の中身をじっと見つめた。苦しげに、最後の抵抗を吐き出した。
「仲間じゃないか」
「あいつはゾーマに魅入られていた。――――神の子だろうと何だろうと、人間とは違う生き物なんだよ。どう変わるか、解らないじゃないか」
 皆は黙りこくった。
「……もういい、寝る」
 賢者が身を翻して別の扉から出て行ったので、宴席は自然散会となった。勇者の影が近付いてきたので、竜の子は急いでその場を立ち去った。
 それから彼の姿を見た物は、誰も、いない。

 半年後。
 世界を救う英雄を祀る神殿の本殿が、ラダトームの北西に建てられた。
 最終的には本殿の他にも立派な二つの拝殿と幣殿、楼門が建てられる事が決まっていて、完成すれば国一番の壮麗な神殿となる予定である。人々は朝早くから、神殿の開かれる儀式を心待ちにして神殿に詰めかけていた。
「……おかしいな、今日の主役は何処行ったんだろ。アイツがいないと締まらないのにな」
「演説の練習でもしてるんじゃないの?」
 神殿の入口では、仲間達が一足先に国王ラルス一世や神職者と共に勇者の到着を待っていた。神殿の外では人々がざわめいていて、高揚感を掻き立てられている。
「遅いな……」
「もう良い時間です。後から来られるでしょう、最悪、いらっしゃらなくても儀式は出来ますので。中に、先に入ってお待ち戴けますか」
「でも……」促されて、戦士が仲間の顔を見た。
「いいんじゃないか。来ないと決まった訳でもなし。……開けて下さい」
 神官の一人が、本殿の扉を開けた。
 重々しく開いた扉の奥、祭壇の前に、それは在った。
 爪で引き裂かれ、もぎ取られた、勇者の首。血にまみれた、祭壇。
 瞠られた目にはしかし、もう何も映ってはいない。驚愕の面だけが何かを語っていた。
 遅れて悲鳴が、悲嘆の呻きが溢れた。寝食を共にし、誓いを同じくした仲間、世界を救った勇者には、余りにも相応しからぬ姿。
「こ、これは……皆、あれを見ろ」
 賢者が杖で指し示した先には、壁に乾き切らぬ血糊で文字が書き記されていた。
『裏切り者の最期を 見よ。必ず 形見は 取り戻す』と。
 神殿は一度も使われずに閉鎖され、やがて、朽ちた。

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