Dragon Quest m-i 〜ユカのワンダーランドと愉快な下僕共

〜第八章 Sクラス 孤高の鬼

 数日ぶりにタイジュへと戻ったユークァルを待ち構えていたのは、皆の実に気の毒そうな眼差しだった。さっぱり意味がわからないユークァルがテトやサンチに尋ねたところによると、何でも、今度のSクラス試験官マスターがあまりにも強すぎて、誰も勝てない、元・星降りの夜の優勝者のマスターが何人も返り討ちになっているという専らの評判であるらしい。ユカも勝てないんじゃないかどころか、魔物次第では優勝候補筆頭、とまで言われており、タイジュの優勝は堅いと人々は浮き足立っているのだとか。薄情な奴らだよ、去年までは優勝候補のゆの字にも引っかからなかった癖に、と悪態をつくサンチを宥めながら、そんなに凄いマスターならば是非とも試合を見てみたい、と、ユークァル達はIMCに早速向かうことにした。

 IMCの試合場はユカでもひと目で分かる異様な雰囲気に包まれていた。オーディエンスの半分以上が魔物というだけでもただごとではない。ユカ達は魔物達の間をかき分け、前の席に陣取る。
「すっげーな」オルフェが落ち着かなさ気に辺りを見回していた。完全に、魔物としてのアイデンティティを失っている。
「あのー、ここいいですか。なんかすごいことになってますね」
 数少ない人間の観客に声をかけると、相手はすぐに椅子をずらしてユカに席を譲る。
「ああユカさんじゃないっすか〜、敵情視察なんすっね。いやぁ、今度のマスターはヤバいっすよ、マジヤバ」
「どうヤバイんですか?」
「見たら一発っすよ」ちょっとチャラい感じの若い魔物使いはスタジアムの入口を指差した。「ほら、アレ」
 入り口から魔物たちを引き連れた現れた人物を見て、ユカ達は仰天した。
 金髪縦ロール。
 マントにキラーパンサーの剥製をあしらった奇天烈なファッションセンス。
 魔物をプリントしたオリジナルのカラータイツと、縦ストライプの王子様風(元・王子様なのだが)かぼちゃパンツ。
 彼こそが、元・デルコンダル国王ナリーノその人であった。
「やは! ユッカち〜ん☆」
 口をぽかんと開けたままのユカを、野生の勘というか何というか、モブの中から素早く見つけ出し、ナリーノは手を降って応えた。ユカは手を振り返そうとしたが、オルフェに止められてしまった。

* * *

 その頃。
 ルアクは珍しく、アーロンや魔物達をお供にタイジュを訪れていた。
 ルアクは件の戦いの後、今度は少し真面目にモンスターマスターを目指してみようという気になったらしい。結構な短時間でDクラスまでは行けたのだから、筋が良いのでは、とアーロンにおだてられたのである。ユカの魔物も強化が必要な時期。自分の魔物達の強化も兼ねて、お見合いを申し込むつもりでもいた。
「やっとユカの試合を見に行く気になれたな。誘いにくかったから助かったわ」
 アーロンに小突かれて、ルアクは面映ゆげに角をかいた。
「ユークァルやリカルドに迷惑をかけてしまった故、少しでも手助けになればと思うてな。それに、手慰みとはいえ、それなりの成果は出せたのだし、結構楽しかったから、もう少し上を目指してみようかと思うたのだ。……別に、アレフガルドの代表になろうとか、そういうつもりはない」
「それも面白いかもな。対抗馬がいないから、出場くらいは出来るかもしれんよ」
 軽口で煽られ、ルアクは慌てた。アーロンはカラカラ笑う。
「そ、それより、早くCクラス対策の参考書を買わないと……??」
 IMC本部の壁にでかでかと貼られていたポスターが、二人の眼目を惹きつけた。Sクラス試験の試験官など彼らには関わりのない話だったが、その名はあまりにも因縁深く、彼らにはのろいのことばにも等しかった。
「星降りの夜 代表選考クラスマスター試験挑戦者名発表
Sクラス
 ナリーノ
 以上を認定す。」
 アーロンはほげっ、と声を漏らしたきり、口をあんぐり開けたまま動けなくなった。ルアクも全く同じ顔で並んでいたので、通りすがりのドラキーが、彼らを新手のパフォーマンスと勘違いして1ゴールドを投げていった。ふたりはしばらくそうしてアホ面を晒していたが、やがて、我に返ったルアクが先に、遅れてアーロンと仲魔たちが後を追ってスタジアムへと駈け出した。
 ルアクは顔を真赤にして叫んだ。
「ユカをスパルタで鍛えたいからとて、この仕打はあんまりではないか! 曾祖父様の糞ったれのコンコンチキのばーかばーか! ええい、チクショーめ、大嫌いだ! あんたなんかあのいけ好かないひいひい爺さんと一緒に、奈落の釜に落っこちて、脳みそ茹だるまで煮られてしまえばいい!」

* * *

 冷静さを取り戻すと、ユークァルは改めてナリーノを観察する。
 土気色の肌。呼気で動く様子のない喉元。両の手首をしっかと戒める無骨な手枷。よくよく見ると、死者の塔に顔面をぶつけた際のヒビがゴーグルに残っている。
 やっぱり、死んでいた。夢ではなかった。間違いない。
 ロトの勇者の時は精神的にきつかったけども、今回は物理的にきつい。大会出場黄信号の予感がユークァルの脳裏を初めて過ぎった。
「おいクソナリーノ! 何でお前こんなとこにいんだよ!」
「見たらわかるじゃぁン?」ナリーノはドヤ顔で応えた。「ユカの試験官だヨ。お前んとこのダイオウクソトカゲが、『んん〜最近、ユカの奴、楽勝ムードでおる故、気の緩んだあ奴には劇薬が必要と思わぬか? そなたこそ、ユークァルの前に立ちはだかる最後にして最大の壁にふさわしい。どうじゃ? この役目、引き受けてはくれぬか? うまくユカを倒してタイジュの代表になり、星降る夜の大会で優勝すれば願いが叶うとも聞くぞ』ってんで、二つ返事で引き受けたってワ・ケ☆」
 ナリーノの口真似があんまりにもそっくりな上、一字一句が如何にも竜王の言いそうなセリフだったので、ユカは噴き出した。
「いや別に手応えなくないでしょ! あの三人とだって戦って勝ったんだし!」
 が、パノンリスペクターのオルフェにとっては特段面白いものでもなかったらしい。単に余裕がなかっただけかもしれないが、とにかく、憤慨するオルフェを他所にナリーノはカラカラと笑う。
「ロトの勇者様なんて、独りならともかくあいつら三人全員クッソ仲悪いじゃん。あいつらが束でかかって来ても負けるとは思えないけどぉ? じゃ、ボクの試合っぷり、しかと君のハートにトラウマとして刻んでおくといいよン、ヘタレちゃん☆」
 ナリーノは投げキッスを飛ばして挑発する。歯ぎしりするオルフェを他所に、試合開始の旗が翻った。

 ナリーノの魔物は、S級マスターとしては冗談みたいな貧弱なセレクトだった。
 スラッピー。メイジバピラス。あばれうしどり。よく見ると、ナリーノのあばれうしどりのお尻には焼き印が押されており、この間の大脱走組の一員であるのが確定。
 対するマスターの魔物はガップリンとガメゴン、ボーンプリズナーの三体。モンスターのセレクトからして、C〜Dクラスくらいか。あからさますぎるハンデだが、相手マスターは別段侮辱に怒りを露わにするという風もない。
「あれ、いくらなんでも差があり過ぎない?」オルフェはチャラい感じのモンスターマスターに尋ねた。
「いやいやいやいや、ナリーノニキとの対決なら、アレくらい落としてトントンってとこじゃねっすかぁ?」
「マジか」
「マジっす」チャラ男(仮)は真顔で応じた。「あれぐらいじゃねっと誰も刃が立たねっす」
 果たして、チャラ男の予言はかくも成就した。まずはメイジバピラスが距離を取ってののヒット&アウェイで徹底的にボーンプリズナーからのつばめがえしを打たせない。相手マスターのガップリンがラリホーで無力化を図ると、あばれうしどりがスヤスヤ寝入ったが、このあばれうしどり、何といびきをかきながら激しく寝返りを打つ。バピラスを攻撃射程に収められなかったボーンプリズナーが諦めてあばれうしどりに襲いかかると、ちょうどいいタイミングであばれうしどりの寝返りに挟まれたボーンプリズナーの骨せんべいが出来上がるという寸法であった。スラッピーは一番弱い様に見えたが、試合場を縦横無尽に飛び回り、敵の攻撃を自分に向けつつ相手を疲弊させる役割を見事に果たす。メイジバピラスがルカナンでガメゴンの防御を剥がし、スラッピーのすいへいげりやメイジバピラスの炎と氷の息で追い詰められ、結局対戦相手はいいようにナリーノの手のひらの上で踊る羽目になった。
 タオルを投げ込んだ相手マスターが仲間を連れてすごすごと引き下がっていく中、ナリーノは魔物魔物人魔物のスタンディングオベーションで迎えられていた。ナリーノは客席をさんざっぱら煽った後、やはやはサンキューサンキューと大手を振って悠々と去っていった。

 試合が終わって人もまばらになり、ユークァル達もまた帰り支度を始めた頃、入口から転がり出んばかりの勢いでルアクが飛び出してきた。後からアーロンがおおさそりとあくまのきしを連れて追いかけてくる。ルアクは両手を広げてハグの構えを取るオルフェから華麗に身をかわしつつ、ユカ達の下まで駆けよっできた。息も絶え絶えのルアクだったが、ユカが落ち着かせ、テトがお茶を渡して呼気の乱れが収まると、急に我を取り戻したのか失ったのか、とにかくわなわなと震えてあからさまに取り乱し始めた。
「たっ、たっ、大変じゃ! えらいこっちゃえらいこっちゃ」
「知ってます」
「ほえっ?!」
 ルアクはまたも、今度はユカ達の前でお口あんぐり間抜け面を晒す羽目になった。

「左様であったか……全く何を曾祖父様はお考えなのやら……ともあれ、何が何でもナリーノの野望は阻止せねばならぬ」ルアクはテトからもらったお茶をちびちび啜りながらひとりごちていた。
「ルアクの奴、あれから魔物使いの修行をしてみようっていう気になってるらしいぜ」
「ファッ! ばっ、バラすな!」
「何言ってんだよ、いいだろ。今日だって、Cクラス昇格試験の対策本を買いに来たのと、ユカとお見合いをする為に来たようなもんじゃないか」
 納得行かない様子で、ルアクは唸った。「ふぬぬ……アーロンめ、自分から申し出するつもりでおったと言うに、余計なことを……ユカ、ナリーノは手強いぞ。万全を期して望むべきじゃ。若輩者ではあるが、余に出来る事があれば何でも申し付けてくりゃれ」
「そうだよそうだよ! ひーちゃんも協力してくるなら百人力だね! ってアイテテ!」オルフェはルアクにすねを蹴られて飛び上がった。
「まだひーちゃん呼ばわりするか」
「ありがとう、嬉しいです。早速お見合いしましょう!」
 ユカに手を握られて、ルアクが慌てたので皆がどっとわいた。そしてオルフェはまたもすねを蹴られた。

 モンスター爺さんによれば、ユカのおおイグアナとルアクのあくまのきしからはなかなか強力な魔物が生まれそうだとの事だった。両者を引き合わせてみると相性が良さそうに見えたので、早速見合いをさせる。二匹の魔物から生まれた大きな卵に、期待は否が応にも高まる。ユカ達は早速卵を孵した。
「わぁ」
「おお〜!」
 卵に走る亀裂、罅から覗く鱗。卵の殻をはじき飛ばす、立派な尾。
 卵からは、巨大な竜・バトルレックスが生まれた。
 早速孵したバトルレックスは、まだ幼いながらに大物の片鱗を垣間見せていた。爛々と艶めく鱗、幼体にしてこの巨体。鋭く好戦的な眼差し。落ち着かなさ気に尻尾をピコピコ動かす様子は、イグっちのすばしっこさを受け継いだ感がある。ユークァルは初めての餌付けに、テトのお母さん秘蔵のレシピによる、魔物が大好きな下味をつけた特製ほねつきにくを差し出した。
 バトルレックスのあぎとが、素早く肉を捕らえた。
 ユークァルは危うく、手首から先を持っていかれるところだった。モンスターじいさんがユカの手を杖で払いのけなかったらそうなっていたに違いなかった。爺さんはバトルレックスの鼻面を杖で小突きながら、こりゃぁ大したじゃじゃ馬になりそうじゃわい、くれぐれも、気をつけなされよと嘆息を漏らした。

 ティアト、と名付けられたメスのバトルレックスは、爺さんの予想通り、早速そのやんちゃぶりでユカを悩ませた。まず、餌の好き嫌いが激しい。霜降り肉は食べないし、内臓ばかり食べたがる。野菜だって、萎びた野菜くずなんて絶対に食べてくれないのでお金がかかって仕方がない。そのくせ野草雑草の類をあちこち噛み散らかし、牧場から逃げ出した時なんかは毒草を齧ったせいで泡を噴きながら倒れ、危うく死にかけるところだった。歯磨きやブラッシングも当然させてくれず、その凶暴な牙で、彼女は牧場の歯ブラシを何本も粉々にしてプリオを戸惑わせた。
 それだけではない。ティアトは触られるのを嫌がる上、餌付け中にマスターを噛もうとする。バトルレックスに噛まれたらただでは済まない。ユークァルも流石に手で肉を与えるのを諦めて、ごつい皮の手袋+大型魔物用のトングで肉をつまんで差し出した。
 ティアトは訓練中もあまり集中した要素がない。すぐにあさっての方向へぴゅっと飛び込むし、命令を無視して草をかじり始めたり砂浴びを始めたりした。人間嫌いというのとも違った。他の魔物に対してもやたらと突っかかる。お陰で、魔物達が怯えて役に立たない。
「わぁん、もう無理だよユカぁ……」
 最初に音を上げたのはオルフェだった。オルフェはティアトに二度も尻を噛まれ、ヨロイムカデの油から作ったプリオ特製の軟膏を塗りたくっているせいで尻からすさまじい悪臭を放っている。よろいムカデ油は昔から魔物の傷に対する特効薬として知られていたが、その悪臭故に魔物たちに見つかりやすくなると旅人に忌避され、今は薬草としては殆ど使われていないという話であった。
「ふつーにホイミで直したらダメなんです?」
「だってさぁ、臭いに負けて『あ、いや、いいです』って言ったらさぁ、プリオがすごい悲しそうな顔するんだぜ」オルフェは肩をすくめた。「断れないじゃん。それに、ホイミの後のちょっとムズムズする感じがあんまりないのはこれ、結構いいよ」
「ボクは我慢しときます……」そういうテトのヘルメットにも、ティアトの歯型がくっきり浮かび上がっている。テトはティアトがユカの仲間入りしてすぐ、兜をてつかぶとに買い換えていた。
 三人はティアトと折り合うよう努力もし、プリオも含めて散々話し合ったが、結果、Sクラスの戦いにはバトルレックスは出さないようにしようという結論に至った。ユークァル苦渋の決断、モンスターマスターとして、三度目の挫折であった。

 ユークァル達がバトルレックスの調教を諦めて、マリアお下がりのホークブリザードを鍛えている間、オルフェは尻の療養も兼ねて、トレーニングもそこそこに毎日ナリーノの試合を見に来ていた。ナリーノはデモンストレーションとして、ランク不問ハンデありの条件で誰の挑戦も受けると宣言し、毎日他のモンスターマスター相手に試合を行っていたのである。
 ナリーノの非凡さに、オルフェは改めて舌を巻いた。彼は魔物使いとして、間違いなく天才の部類であった。ナリーノは毎回、相手のモンスターマスターのクラスに合わせて手持ちの魔物を取っ替え引っ替えするのだが、自分の子飼いのカワイイ魔物達は決して出さず、毎度、見知らぬモンスターマスターからモンスターを借りたり、その辺でたむろっているモンスターを適当に手なづけて即興で試合に出す。魔物の特性も、癖も性格も初めてだらけで把握出来ている筈もないのに、ナリーノは魔物の長所を巧みに引き出し、相手の弱点を見事に突いて勝ち抜けるのである。一見試合運びが劣勢の流れになる事もあるが、それは大抵次の段階の逆転への布石であったり相手を油断させるためのフェイクであったりするので、試合としての面白さからも、ナリーノには次第にファンが付きつつあった。サンチなんかは散々人々の冷たさを腐していたくせに、無邪気にナリーノからサインをもらっている。特性を把握していない魔物を使ってなお、演出を入れる程の余裕にオルフェは危機感を強めていた。
 試合後、空になった会場でぼんやり佇むオルフェの肩を、ぽんと叩く手があった。
「君は実にユカちゃん想いだねぇ。その気持、通じてるのかな?」ナリーノはニヤニヤしている。前からオルフェの存在に気付いていたに違いなかった。
「て、て、てめぇに言われたかないやい」オルフェは毎日偵察に来ていたのがばれた動揺を押し隠すように反論する。
「いやぁ〜、ボクとしてもねェ、ユカのようなカワイイコがタイジュの代表になった方が、色々スポンサー的にもウケが良いと思うんだよねぇ。興行成績だとか今後の売り出し方を考えると、ボクのような完成された魅力よりは」
「ナリーノの魅力とかないものについて考えても無駄だと思います。ハイ」
 ナリーノは一瞬口元を歪めたが、すぐに営業スマイルを取り戻す。
「ユカちゃんに、もっと好かれたいんだろ?」
 オルフェはぐっと言葉に詰まった。
「う、うっせーなナリーノには関係ねーだろ! 大体、ナリーノみたいな不人気に言われても説得力ゼロだから!」
「どうかな」ナリーノはずずいと、オルフェの懐に入りこんだ。息が届かんばかりの至近距離に詰め寄られ、オルフェは後じさる。
「今回のSクラス試験で、オルフェさんがめっっっちゃ強い魔物を一撃でボコして大活躍したら、ユカちゃんだって\キャーオルフェさ〜ん/ってなっちゃったりするかもよ?」
 オルフェは唾を飲み込んだ。
 ユカが戦いの勝敗や肉体・精神の優劣で相手を評価したりしなかったりするような娘でないことくらい、オルフェにだってわかりきっていた。それだけではない。オルフェだって、この一年で一人前と称して差し支えない成長を遂げた。
 が、この提案はオルフェのコンプレックスど真ん中を過たず突き崩した。
 もっと、強く生まれついていたら。
 もっと、美しかったら。
「な、お前に何が出来るってんだよ」
 ナリーノは意味ありげな笑みで応じた。もうこうなったら、事態はナリーノの為すがまま、キャベツがパパであった。ナリーノは懐から、鎖のついた小瓶に入った怪しい色の液体を取り出して、左右に軽く振った。
「ジャジャーン、これぞデルコンダルの科学力……もとい、魔法力を結集した秘密兵器、ちからとかしこさとすばやさのたねと、いのちのきのみとふしぎなきのみのエキスに、世界樹のしずくエッセンスを加えて濃縮してパワーアップさせた秘薬『スーパー 世界樹(ユグドラシル) Zエクストラダンジョン Ω(オメガ) 』! これさえ飲めば、どんな魔物もみるみる力がアップ! 素早さがアップ! 知恵がアップ! 魅力がアップ! 愛がアップ! ついでに人気もアップするというスグレモノなのよ。でさ、通常定価1万8千ゴールドのこいつを」
「こいつを」今のオルフェには、これが半額になっても支払える能力はなかったが、完全に小瓶の中身に釘付けであった。自己啓発セミナーもびっくりである。
「タダで」
「タダで……ってええーっ!? マジで?! ないわ! いや、絶対ウラがあるわ!」
「べぇつぅにぃ〜? ないけどぉ〜?」ナリーノはキラキラした怪しい小瓶をひょいと、オルフェの視界から遠ざける。
「言わなかったっけ? ボカァいわば、この大会の為だけに特別に猶予をもらって一時的な自由を謳歌してるだけで、もしも万一にも、なにか下手をやらかしでもしたら即死者の国へトンボ返り、モンスターマスターの資格も永久剥奪って制約を課されてる身分なのさ。そんなボクが」
「バレたら困るような不正をするワケないってか? あるあ…ねーよ! 怪しすぎだわ! ないわ〜ナリーノの事だから絶対ないわ〜」
「ないならイイじゃん、ユー、飲んじゃいなよ!」
「いやいやそういう意味じゃねーし!」一瞬言いくるめられそうになったのをごまかすようにオルフェは大声を張り上げた。
「何ならボクが最初の一口、飲んでみせようか?」ナリーノは小瓶の蓋をキュッとひねった。何とも言えない薬臭い芳香が、オルフェの鼻を掠める。
「ボクが一口飲めば、毒がないってのはわかってもらえるだろうしネ」
 ナリーノはそこまで言うと、オルフェの返事を聞かずに小瓶を軽く煽った。舌を突き出すと、舌の真ん中が虹色の余韻を残している。ナリーノは舌を引っ込めて、唾をごくんと飲み込んだ。
「おー、クるクる!」ナリーノの虹彩が、文字通り虹色に煌めく。眼前で明々白々な効果を目の当たりにし、オルフェのチキンハートは早くも極爆揺すぶられ度MAXであった。
 そんなオルフェのハートを人外色の虹彩は早くも見透かしていたのか、ナリーノは小瓶をオルフェの前に突きつける。
 これ、あげるヨ。
 蜜より甘い囁きであった。
 オルフェは押しつけられた小瓶を、手に取っていた。
         ▼
 オルフェは あやしいこびんを てにいれた。
 オルフェは貰った小瓶をじっと見つめていた。瓶の中では虹色が絶えず渦を巻いていて、キラキラ光りながら常に色と形とを変え続けていた。小さなカオスの体現とでもいうべきそれは、人の常識からすれば明らかに怪しく忌避すべきものであったが、魔族の本能はしっかと小瓶の中身に惹き付けられ、魅了されていた。
 ナリーノは魔物の本能を知ってか知らずか、オルフェに耳打ちする。
 いっそ、ここでぐいっと飲んじゃいなよ、と。
 言われなくても本能がままに、オルフェは小瓶の中身を煽った。液体が喉を、そして胃の腑を通り抜けていく。と、喉が焼けつくような、そして胸がムカつくような不快感、遅れて丹田が、やがて全身がぽかぽかと暖かくなってくる。こみ上げて、溢れてくる魔力の渦に、オルフェは強か酔った。
「うわ、すっげぇ! もう効果が出てる?!」
 ナリーノはオルフェの手を取って強引に握手を奪った。「おめでとう、オルフェ。どうだい? 新しい力の具合は」
「う、うんうんうん」オルフェは興奮気味に腕を振り返す。「まだ実感はあんまないけどとにかく何か凄いのはわかる! わかるよ! ありありありありありがとー! じゃーね!」
 オルフェはぎくしゃくした動きで地面を蹴ると、不自然なぐらい真っ直ぐに、青空に向けて一目散に飛んでいった。オルフェの姿が見えなくなると、ナリーノは小瓶を拾ってついと懐にしまい、大股で悠々と立ち去っていった。

 大会直前の計量室。
 ユカ達はいつになく待たされていた。
 だいたい計量なんて身長体重をちょちょいと測って、目の検査と舌を見せるのと、特殊な薬品を染み込ませたペラペラの紙を舐めさせられて、チェックして終わり、が通常の流れなのだが、検査後何故かオルフェだけが呼び出され、ちっとも帰ってくる様子がない。時間までに検査が終わらないと、時間超過で失格になってしまう。ユカはいつも通りの冷静さを保っていたが、周りは皆やきもきしながら見守っていた。
 控室にノックの音が響いた。まずはオルフェが、続いて白衣の係員が神妙な顔で現れる。
「公式大会ルールの第二章第一項に違反するため、オルフエさんはSクラスマスター試験のモンスターとして出場できません。すぐに代替のモンスターを連れて来て下さい」
「はぁ?」
「ぬぁにぃー?! なんだそりゃ!?」
「ドーピングの禁止です。何か薬物を摂取したのではないですか?」
「えっ、えっ、そんな話聞いてないよぉ」オルフェはうろたえている。
「落ち着け、何か心当たりはないのか? 変な草を齧ったとか」
「う、うん。実は…」
 オルフェはルアクに揺さぶられ、ナリーノに薬をもらったのを白状した。
「その薬品の中に、禁止薬物が入っていたのでしょうね。お気の毒ですが、あなたの冒険の書は消えてしまいました。登録抹消です」
 係員が去るや否や、ルアクがオルフェに飛びついた。
「おいオルフェ、何でナリーノと接触した」
「ハァ? 罠なのは見え見えだろうが。何故飲んだんだ」
 次々に詰問され、オルフェはしどろもどろに言い訳めいた事をひねり出そうとしていたが、観念して、ぽろりと漏らした。
 あのキラキラの誘惑にはどうしても勝てなかったんだよ。
 所詮、オイラは下級妖魔なんだよ。
 オルフェは声を殺して啜り泣いた。
 鼻水を垂らして悔し泣きするオルフェを宥め、テトがハンカチを差し出すと、オルフェは顔をくちゃくちゃに拭き殴ってから鼻を噛んで返した。テトは腐った肉を食べたような渋い顔をしていた。
「オルフェは悪くないです。オルフェにちゃんとルールを説明しなかった私の責任です」
「そ、そんなことないよ、オイラがいけないんだよ」
「そうじゃ。いくら何でも迂闊すぎるであろう」
 ユカは断言した。「相手は搦め手を使ってくるタイプだってのはわかってたんです。それで対策を打たなかったのはやっぱり、私の落ち度だと思います」
「今日だけ、何とか頼み込んで例外を認めてもらうとか、さぁ」
「ダメですよ。ルールを破ったらゲームじゃなくなっちゃいますから。ね?」ユカはテトの鼻水ハンカチで、オルフェの涙を拭いてやった。「今更泣き言言っても仕方ないし、何とかしましょう」
 試合は目前に迫っていた。試合に出て負けるならともかく、舞台にすら上がれずに負ける可能性があると思い知り、ユカは鼻水ハンカチを握りしめた。
 無論、そんな敗北を許すつもりなどない。
「それより、今すぐティアトを連れて来て下さい、まだ間に合いますから」
 オルフェは涙ぐみながら、こくりと頷いて牧場へと飛んでいった。
 テトが係員とネゴしている間、ユカは努めて冷静さを保とうとしながら鼻水ハンカチを弄くり倒していたが、汚いから、とさっさと横からルアクに持って行かれてしまった。

「おや、メンバーチェンジ?」
 相手コーナーからの第一声に、セコンドの一同は腐った肉を噛み潰した。
 ユカはナリーノの魔物を一瞥する。メタルキング、シルバーデビル、メイジバピラス。多分このメイジバピラスは、最初にユカが見た試合で使っていたメイジバピラスと同じだ。生前のナリーノにバッピーと呼ばれて可愛がられていたメイジバピラスと同一個体であるかは、ユカにもわからなかった。
 メタルキングはともかく、ユークァルはナリーノの魔物のセレクトに、敢えて出力を抑えている様な印象を受けた。無論フェイクであるかも知れなかったが、しかしオルフェの言うとおりならば、例え時間が無かっただけだとしても、ナリーノには殆どハンデにならないであろう。間違いなく、強敵だ。
 一方、ユカの魔物もAクラスマスターとしては悪くない揃いではあった。メタルキングのスラおう。ホークブリザードのホーク。そして、バトルレックスのティアト。
「これでティアトさえ言う事聞いてくれるなら、安心して見ていられるんですけどね」
「仕方ないです」ユカはティアトが気を取られている間に、ティアトのしっぽにちょいと触れた。「それにほら、尻尾くらいなら触らせてくれるんです」
「今のはピンポンダッシュみたいなものではないか……」
「しっ、そこは突っ込まない」
 セコンド陣に笑いが起きたので、ユカは安堵した。
「みんな、よろしくね」
 ユカの呼びかけが届くか届かないかのうちに、試合開始の旗が大きくはためいた。

 試合は、メタルキング、という同じ魔物を有する同士としては意外な程対象的な試合運びとなった。
 ユークァルのスラおうはマスターの性格を反映してか、しょっぱなから派手な攻撃魔法をガンガンぶっ放すアグレッシブな立ち回り。かたやナリーノのスラきちはやや受け身気味、パーティサポートに回って回復に専念する。
 一方、ナリーノのメイジバピラスはフットワーク軽く宙を飛び回り、ヒット&アウェイでホークと丁丁発止を繰り広げ、シルバーデビルが地上と空中の分断役としてホークを孤立させる作戦らしかった。
 ティアトはそんな仲間を無視して、やたらとメタルキングに噛み付いたり、地面を掻いたり、相変わらず、試合などないも同然の振る舞いを見せていた。コロシアムから逃げ出さないだけマシだと言えよう。ナリーノ側もわかっているのか、ティアトには極力構わない様振る舞っている。何をお気に召さなかったのか、執拗にターゲットにされているスラきちだけがナリーノ側の不安要素、といったところ。
 しかしその不安要素は、ユークァルにとっても同様だった。派手な魔法の打ち合いに、ティアトは明らかに苛立っていた。眩い閃光を放ちながらバチバチと音を立てる稲妻が、燃え盛る火炎の熱と火の粉が、氷礫の混じった冷気が、慣れない人々の視線そして歓声が、彼女を負の方面に煽り立てる。
 ティアトの咆哮が、聴衆の耳をつんざいた。
 ティアトは、よりにもよって味方の筈のスラおうに噛み付いた!
 スラおうは味方のあぎとから逃れようと身悶えしていたが、怒れるバトルレックスの牙から逃れる術など持ちあわせていなかった。銀色の体はしばらく痙攣していたが、やがてぐったりと力なく崩れて、形を留めなくなった。
 落胆のどよめきが辺り憚らず広がっていった。セコンドは嘆息と暗澹たる空気に押し潰されている。敗北の予感がひしひしと迫り来る。
 が、そんな様子を他所に、ユカは思い悩んでいだ。
 何でこんなに気性が荒いのか。何がいけなかったのだろうか?
 嫌われるような事はしていないつもりだった。もしそうならティアトはユカだけを拒むだろう。
 ティアトの生まれながらの性分のせい?
 ティアトとユカは、そもそも相容れない存在なのではなかろうか?
 そんな風には思いたくなかった。そうなのだとしても、受け入れたくなかった。最後まで、足掻きたかった。
 そんな思いを知らず、ティアトはシルバーデビルに噛み付こうとして逃げられていた。ティアトの噛み付きの仕草は独特だな、とユカは思う。首を引く時に肩をぐっと前に突き出し、噛み付く時に体を伸ばし切らないで、僅かに首を引く。
 ティアトは、何かをかばっているのではないか?
 ユカの頭に電光が走った。
(ティアトはバトルレックスなのに、全然斧を使わない!)
 素早くティアトの背中に視線を走らせる。本来なめらかである筈のバトルレックスの背中、その、肩甲骨の辺りに、ユカは微妙な鱗の歪みを見つけた。よく目を凝らせば、一枚だけ鱗が逆立って、ひび割れている。
 アレが気持ち悪くて、ティアトは落ち着かないのだ。
 ユカはホークブリザードを呼び寄せた。そして、指でその部分を指した。ホークブリザードは僅かに首を傾げたがすぐに頷く。ホークは首を振りながら近づいていくと、素早く鱗のひび割れをつついて、剥がした。
 鱗の下は、赤くただれておできが出来ていた。ホークブリザードは二三歩バックステップを踏み、小さく息を吸い込んで、ひゅっとつめたいいきをティアトのおできに吹きかけた!
 その巨体からは想像もつかない、ピャッ、という可愛らしい声を上げて、ティアトは飛び上がった。ティアトはこれ以上ないというくらい大げさに身悶えする。背中の具合を確かめるティアトの背後に、シルバーデビルが静かに、忍び寄っていた。
 ティアトは斧を振りかぶり、振り返り様豪快に振り下ろして魔神斬りを決めた! ティアトは返す刀ならぬ斧でメタルキングにメタル斬りを振り下ろす。先程から散々噛まれて傷だらけのメタルキングは、ほとんど抵抗も見せずにあっさり崩れてしまった。

 試合後、ユカはすぐにティアトを牧場に連れて行った。プリオにティアトの傷を見せると、プリオはすぐあの悪臭紛々の軟膏を取り出して、そそくさと傷口に塗りつけた。ひどい匂いだったが、魔物達にとってはそうでもないらしい。
「こんなのはよくあることですだ」プリオいわく、ティアトは生まれつき、鱗が割れて生える一種の奇形であるらしい。定期的に鱗の割れた部分を削って、キズには薬を塗ってやるといいという。治らないけれど、原因がわかれば試合に出るのに支障は何もない、とプリオは太鼓判を押した。この罅が気になって痛みで暴れていただけで、大人しくなれば、少しずつ躾もできるようになるだろう、との事であった。
「しかしユカ様、よくぞお気づきなさったなぁ。全然気付かなかっただよ」
「私も試合じゃなかったら多分気付けませんでした」
 ユカがティアトをなでてやっていると、サンチと子供達がピンクの柔らかい塊を抱えて牧場にやってきた。
「おう、ユカ、Sクラス合格おめでとう!」
「もう、入ってもいいんだよな?」
「こいつ、もう大丈夫なの?」
「ありがと。うん、もう大丈夫だよ?」言った側からティアトが砂場に飛び込んで、あたりに砂をまき散らかしたので、みんなは砂だらけになった。みんなは口から髪の毛から砂を払い、そして大笑いした。
 ひとしきり笑い終えてから、サンチはピンクの塊から砂を払い落とし、頼まれものが見つかったから連れてきたよ、とユカに渡して帰っていった。

 闘いの後。
 ナリーノはプリオ牧場の土手に腰掛け、縦ロールに顔を埋めむせび泣いていた。傍らに、いつも侍っている魔物達も今はいない。秋風は冷たく、広がる夜空渺茫として寒々しく、ちかと瞬く天井の星々も、ただナリーノの孤独をいや増させるだけだった。
 ナリーノは悲嘆に暮れていた。
 魔物使いとしての己の至らなさ故に、ではない。
 この幸福な時間が終わりを告げるのを、嘆いているのだった。
 ナリーノの生まれ育った国では、魔物と心を通じ合わせるナリーノの才能は、闇に属する邪悪の技であった。子供の頃から魔物に慕われ、魔物の気持ちを汲み取る術に長けていたナリーノは、実の両親どころか国中から厭われ、嫌われ異物として無視され続けてきた。そんな奴らが自分なしにはいられない位の存在感を示さんが為に、ナリーノは奇矯な振る舞いや横紙破りを繰り広げ、顔を背ける民の上っ面を引っ叩いてきたのだ。そんなナリーノを疎んじて、デルコンダル王は、ナリーノの大切な友を、ロトの勇者たちの生け贄に捧げた。ナリーノはますます人間を深く恨み、やがて人の世を滅ぼす日々を願うようになった。
 だが、ここタイジュでは、好きなことを好きなだけするだけで、ナリーノは皆に受け入れられ、喜ばれ、あまつさえ尊敬と讃仰すらも勝ち得た。ここは天国か、とナリーノは感動した。許されるならば、永遠にここに住み着きたい。永遠が叶わなくとも、この地に骨を埋めたい。
 だが、その願いは今日、断たれた。
 こんな甘い夢を見させておきながら、地獄に落とすか。
 ならば、最初から夢など見せてくれねばよかったのに。
 ナリーノは己に機会を与えてくれた筈の竜王を、早くも恨み始めていた。
 理不尽な思考を、肩のぬくもりが遮った。
 ナリーノがふと顔を上げると、ピンク色の柔らかい生き物――キラータイガーの赤ちゃんが肩に乗っていた。ジョンの剥製の上にキラータイガーの赤ちゃんが乗っかっている様は、シュールな光景ではある。
「ジョンの代わりじゃ、ダメですか」
 キラータイガーの赤ちゃんを抱えているのは、ユカだった。
 ナリーノは赤ちゃんを抱き上げ、抱きしめて、赤ん坊の様な大声を上げて泣き出した。

 泣き疲れて、お腹にキラータイガーを乗せて寝転がり、ナリーノは星空を見上げてぽそりと、漏らした。
 有難う、ユカ。
 キミはきっといいマスターになれるよ。ハンデありとはいえボクを負かしたんだから、絶対に優勝しなきゃ許さないからな。
 ユークァルはこっくり頷いた。「あの、やっぱり、ハンデ付けろって言われてたんですか?」
「当たり前じゃないか」ナリーノはお腹のキラータイガーを撫ぜながら上半身をひねったが、お腹のピンクが落ちそうになって、慌てて抱え直す。
「『貴様が本気の全力を出したなら、ユカの試験どころか、星降りの夜の大会が成り立たなくなるであろう。そんな事をしたらタイジュが他国の恨みを買って、こちらが世界中からますます恨まれ憎まれる羽目になる。そういうのは流石にもう、沢山だからな。それに、こちらとて、ユカを大会に出させたくない訳ではない』だとさ。だけどさ」
 ナリーノはにやりと笑った。
「だけど、別に搦め手を使っちゃいけないとは言われてなかったんでネ」
「そうでしょうね」ユークァルはナリーノのキラータイガーに手を伸ばしてそっと撫でた。「ハンデはあるけど手抜きはしない。それで良かったと思ってます」
「だいたいランクをわざと落としてなんてのも、逆に強力な魔物を揃えてガッツリ、も経験ゼロだからネェ。早く慣れなきゃいけなかったし、こっちの世界の魔物は見た事ない奴らばっかりだから、特性を憶えようとあんなパフォーマンスもしてみたけどサ、本音はヒヤヒヤだったヨ。しかも後から、オルフェがユカの魔物として試合に出るだの聞かされたから参ったよ。アイツさァ、ヘタレとか言ってるけど、あれで結構しっかりしてんじゃん? …………いい仲間、持ったネ」
 ユカはこっくり頷いた。「オルフェの為にも、優勝しなくちゃ」
 ナリーノは不意に、お腹のキラーパンサーをユカに押しつけて跳ね起きた。
「じゃあ、優勝できるような魔物を連れて行かないとネ」
 ナリーノはユカの手を引いてモンスターじいさんのところに連れて行った。二人のメタルキングは、玉のようなゴールデンスライムを産んだ。

「おお、ナリーノ殿、こんなところに! 探しましたぞ」
 ユカたちが生まれたてのゴールデンスライムを可愛がっていると、身なりからしてそれなりに高い身分と知れる一行が現れた。代表らしき人物の肩には、ふわふわの、わたぼうをひと回り小さくてやや残念にした感じの、気の弱そうな生き物が乗っている。ユークァルにはすぐに、それが世界樹の精霊だと知れた。
 一行の長は恭しい一礼をすると、ナリーノに書状を手渡した。ナリーノはすぐ封を切る。ナリーノはしばらく無言で書状の文面を追っていたが、やがて、書状を丸めて使者に突き返した。
「フタバ王からの申し出、ボクとしてはタイヘン有難いのだけれどもね。生憎、ボクの一存でお受けする訳には行きかねる。何せ、ボクは死人だし、しかも罪人として死者の国(ニブルヘイム)で贖罪の日々を送る身分なので」ナリーノは言葉を切って、使者を一瞥する。使者の貌には明らかな落胆の色がある。
「でも、嬉しかったよ」ナリーノは含みのない笑みを漏らした。「まさか、自分にスカウトが来るなんて。ボカァ、存外幸せ者なのかもしれないネ」

「キューリさんに相談してみたらどうですか?」牧場への帰り道、ユークァルはナリーノに尋ねてみた。「あの人ああ見えて意外と柔軟ですし」
「やだよあのネエちゃん、気に入らないことがあるとすぐブチ切れて殴るし」
 ユカはプッと噴いた。釣られてナリーノも笑った。
「だとしたって、そんな事一介の看守が決められる訳ないだろ。それに、ボクの過去を知ったら、あいつらだっていつ掌返すかわからんよ」
「それ、本音じゃないでしょ?」
「……まあ、考えてみるヨ」ナリーノは嘯いた。
 そんな事を話していると、牧場の明かりが遠くに見えてきた。入口ではランタン片手にキューリが迎えに来ていた。ナリーノは特段の抵抗も見せず、大人しく鎖に繋がれた。
「そうそう、キミに伝えておかなきゃって思ってた事があったんだ」 ナリーノは鎖を引こうとしたキューリを制し、身をかがめた。「あのバトルレックス、名前は?」
 なんです? と首を傾げるユカに、ナリーノは囁いた。
「ふん、ふん。ティアトちゃんね、センダンでも煎じて飲ませてやりな。彼女多分、お腹に虫が湧いてるヨ」
 じゃあまたね、と鎖を引かれ連れて行かれるナリーノを、ユカは最後まで見送っていた。

* * *

 夜。秋深まる大気は澄み渡り、天蓋の星々は静かに瞬いている。かかる月は下弦、半分ほど欠けて、星々に比べれば慎ましく辺りを照らしている。
 天の星々と月のみがその存在を知るかに、人気のない、寂れた広間の泉。
 そこに、今宵も2つの影があった。
 水面に触れ、広がる波紋。
(そなたの願い、かなえてやれそうだ)
 女の顔がぱっと華やいだ。悦びが、漣と共に広がる。水に映る半月が揺れて、形を歪めた。女は男の手を取リ、立ち上がる。
 が、異形の男はかぶりを振って、座るよう促す。
(……あの月が欠けて、再び満ち行きあの形になる頃に)
 女は男の顔を見た。
 昔の様に荒んではいない、とても優しい。
 なのに、今の方が遠い。
 薄紙が一枚挟まっている様に、何かが己と男を隔てているのには前々から、気付いてはいた。女はそれを半ば時の所為、半ば己の後ろめたさの故と目を瞑って来た。
 が、刹那の 幻視(ヴィジョン) が、 (くら) きを (ひら) いた。
 月に透けて見えた、見知らぬ人々。
 子を抱えた母の姿。
 女は知った。
 己以外の誰かが、己の場所を占めている、と。
 女は目を伏せた。水面は風もないのに、さざめいて映る月が形を留めぬまでに、揺れた。
 女の細手がおずおずと、遠慮がちに腰に手を伸ばし、やがて、強く抱きしめる。肩を抱き返され、力強い腕の温もりに身を任せ、女は想う。
 私には、貴男しかいない。貴男には、誰かがいる。
 其れでも今、共に在るのは幸せだ、と。


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