Dragon Quest m-i 〜ユカのワンダーランドと愉快な下僕共

〜第五章 Cクラス 明日を夢見て

 闇の中。唯一人歩く。
 飢えと寒さにかじかむ手。手に吐き掛ける息は白い。
 何時から食べていないだろう、もう忘れた。
 何時に無い寒波が襲い、餌となる食べ物も、獲物もない。襲おうにも、この寒さで皆住処に籠って姿を現さなかった。
 凍った雪を食べていたが、却って体を冷やす事に気付いてからは止めた。
 足が痛む。感覚はとうに失せていた。
 遠くに、灯りが見えた。
 酷く、懐かしい気がした。
 灯りは急に力を失い、視界が滲む。膝から頽れて、闇が降りた。

 羽根布団を跳ね上げると、いつもの寝室だった。
 初秋の日差しは紗のカーテンで幾分和らげられ、豪奢な寝台を柔らかく包む。隣には愛する妻が気怠げに寝返りを打つ。蜂蜜色の柔らかい毛がシーツの上で波打ち、黄金の (さざなみ) を散らしていた。
 リンネルのシーツにはじっとりと、汗の不快な感触が残っている。
 夢など生涯一度で沢山なのに、よりによってそれが悪夢とは。
 竜王は内心毒突きつつ、眠る妻を起こさぬよう寝台から身を起こした。



 タイジュを初めとする世界樹外周の国々では、モンスターマスターはおろかあらゆる人々の間で、スライムつむりやマリンスライムを初めとする魔物をペットとして連れ歩くのが爆発的な流行となっていた。テリーやユカと並んで優勝候補の最右翼と目される某国マスターがIMC発行のモンスターマスター専門誌でインタビューに答えた際に掲載された、ペットのマリンスライムの殻にラインストーンをデコレートしていた写真が火付け役となり、タイジュ王はスライムを、テリーはドラキーとタホドラキーを、カレキ国国王はペットのおおがらすをと、ありとあらゆる階層の人々が魔物を飾り立て連れ歩いた。この世界ではモンスターマスターがしばしばファッションリーダーとして、流行に影響を及ぼすのだ。
 このマリンスライム、何故人気が出たかというと、可愛らしさもさる事ながら肩に乗る程の、闘いには出せない位の愛玩サイズであったのと、マスターの趣味で貝殻にラインストーンをあちこちにちりばめられ、リボンでデコレートされた可愛らしさに依るところが大であった。一般にマスターは愛玩用の小型魔物には手を出さないものだが、そこを敢えて連れ歩くのが新鮮に映ったのだろう、あっと言う間に彼女の真似をするマスターが続出し、其れを見た人々が更に真似をする騒ぎとあいなったのである。
 お陰で愛玩用魔物を売りさばく業者は嬉しい悲鳴を上げていた。特にスライムつむりやマリンスライムは飛ぶように売れるので、悪徳業者がスライムに貝殻を被せただけのニセスライムつむりを売りさばいて捕まるニュースが連日かわら版の紙面を賑わせた。便乗商法で魔物に着せる衣服やリボンやイミテーションアクセサリが飛ぶように売れ、人々は競ってアクセサリを買い求めた。魔物達は概ね服を着るのを嫌がる為、破られたり外されたりでお蔵入りになるのだったが。
 という説明をユカにしたのは、ぴかぴかに着飾ったドラゴスライムとゴーストに魔物バカをやらかしているサンチとテトである。サンチのドラゴスライムの衣裳は勿論、母親の手縫い。テトはテトでゴーストの帽子に立派な羽根飾りを付けていて、ゴーストが動く度ひらひら、ひらひら。当のゴースト本人は鬱陶しがっているのだが、テトは全く気付かない。
「ユカも何か連れて歩いたらいーのに」
「うーん」
 とは言え、別に何も思い浮かばない。流行りに乗るのには興味が無く、ユカにとっては魔物はみんな可愛いので、小さなスライムやピッキーを特別に愛玩する行為に今一つ魅力を感じない。みんなに聞いてみる、と軽く受け流して、ユカは天空城に戻った。久々に、オルフェが帰ってくるという報せを受けたのだ。

「おおーい!」
 戻って来たオルフェは、ユークァルには別人に映った。髪も伸びていたし、背も体も一回り大きい。何より、あのおどおどしたところがすっかり消え失せていた。オルフェはギャロップ気味に駆けてきて、嬉しそうにユカの手を取った。
「ユカ! ユカただいま! オレだよオレ。オレオレ。……? 何さその顔」
「オルフェ、だよね?」
「ったり前じゃん! オレ、そんなに違う? んふふ」オルフェは嬉しそうに鼻の下を擦った。こういう処はちっとも変わらない。
「ユカは全然変わんないよね」
「そ、そうかな。背は少し伸びたよ」
「背中乗んなよ。山ほど積もる話があんだから」
 オルフェの背中で、ユカはオルフェの旅話に耳を傾けた。思わず笑ってしまう失敗談や息をも付かせぬ冒険譚、そして多くの人々との出会いと別れを、オルフェは冗談を交えつつ面白おかしく語ってくれた。生き生きと声を弾ませ、目を輝かせて。
 あれからオルフェは世界中を旅して回った。もう一度ロザリーヒルとあの温泉にも行ったし、ド田舎のとあるお城で田舎者扱いされて追い払われたり、珍しさ故に捕まってサーカスに売られそうになった事もあったそうだ。アッテムトの鉱山では亡霊に追いかけ回され、どこかの古城では財宝を見付けたりもした。
 オルフェの背中がやけに大きく、眩しい。
「ねえ、オルフェ」
「ん?」
「大人になったね」
 照れ笑いするオルフェの顔は、一人前の男のそれだった。
「あたしね、また、星降る夜の大会に出るんだ」
「それおいちゃんに聞いたよ。ユカなら才能あるから、絶対次も優勝だぜ! テリーなんかに負けんなよぉ」
「うん。それにね、あたし、叶えたい願い事があるんです」
「ユカの願い事? 何だろ」
「それは、叶うまで秘密」ユカが唇に人差し指を置く仕草が、オルフェには特別な物に見えた。オルフェは息を詰めた。
「あ、あのさあ……」
「おーい、ごはんだよー!」
 オルフェを遮ったのは、リカルドの孫達だった。オルフェはまた後でね、と苦笑いしつつ、ユークァルを乗せたままリカルドの孫達の後を追った。

 晩餐の席はオルフェが主役をはっての独演会の様相を呈していた。皆もオルフェの旅の話に相槌を打ち、オルフェはオルフェで料理に舌鼓を打ちつつ、旧知との邂逅を楽しんでいた。
「で、これからどう身を振る?」
 話途切れて、疲れた喉を神酒で潤すオルフェに、世界の支配者は問いを投げかけた。オルフェの顔には精悍ささえ感じられ、頼もしく成長しつつある。
 オルフェが天空城に留まってくれれば、少しは……と思いはするが、口にはしなかった。
「んー、そうだなあ。先の事はまだわかんないや」
 そうだな、と相槌で返す処に、デザートの皿を押しやりつつルビスが割り込む。
「あらオルフェ、直ぐ行くなんて言わないで、折角だから星降りの夜を観てお行きなさいな。ユカがまた出場するのよ」
「モチさ! だってユカが出るんだぜ。観ないハズないじゃん」
 そうよね、と楽しげに笑う妻の顔を、竜王は何故か直視出来ずにいた。



 テトがモンスターマスター達からの情報を収集・分析したところに拠ると、Cクラスの対戦最有力候補と目されているのはお笑い芸人のパノンであるらしい。
 と聞いた時の、オルフェの第一声、一体皆様ならどう想像されただろう。
「マジ?! やったねパノンチョーサイコー! 奴のお笑いハンパねぇ!! クーッ!」
 と叫んで、飛んで跳ねて全身で喜びを大表現。おかげで背中に捕まっていたユークァルは危うく振り落とされそうになる始末。
 そんなオルフェがぴたりと足を止めたので皆が釣られて足を止め、今のうちにとユカは飛び降りる。オルフェの目が見る間に憧れと尊敬の輝きを帯びたので、皆には視線の先を見なくてもパノンの来訪が知れた。
「ヘ〜イ、レディースエンドジェントルメーン! みんなのアイドル、スーパースターパノーン先生の来場です! 皆様、盛大な拍手を!」
 で、口上を述べているのがパノン本人(の、魔物)だから始末に負えない。オルフェだけが眼をキラキラ輝かせながら満面の笑みで拍手喝采、他の魔物使い達は皆ドッチラケでその場に寒々しいマヒャド空間が出来上がる。体感温度にしておおよそマイナス三度程度だろうか。ネタも寒けりゃ衣裳も寒い。これがパノンでなかったら、オルフェはきっと某国のキチガイ王の名前を口にしていた事だろう。生憎、オルフェは熱狂的にパノンをリスペクトしているので、彼の王の名が頭を過ぎる余地などないのである。ユークァルは余り興味なさそうに、さりとて場の空気を読み取る程度の能力も持たないが故にぼんやりと、オルフェの熱狂するアイドルを魔物達と一緒に眺めていた。否、ライバルと目されているパノンの魔物達を観察しようという気が失せている分、彼女なりに場の空気を読み取っていたのかも知れない。
「……あれ?」
 何処かで見た覚えのある魔物が、オルフェの隣でキラキラその身を乱反射させていた。
「キングオブジョーク! パノソ! パノソ!」
 どう見ても、ユークァルの魔物であった。
「あ、悪魔の鏡……!」
「あ、くまのかがみ!」
 鏡の中に洞穴熊のヴィジュアルが浮かび上がる。余りに二人の息がぴったりあっていたので、周りのモンスターマスター達はユークァルを仕込みと判断したのか、人垣が一斉に引いていく。人食い草のペーターは冷気に打ち萎れ、キングスライムのオーケンは、周りが引くのを察して、おどおどしながら遅れて下がる。
「悪魔の鏡はミラーれた!」鏡の中の洞穴熊はきゃっと顔を伏せた。本人、もとい本悪魔は胸を張り、恥ずかしいどころの騒ぎではない。オルフェが鏡の中を覗き込んで、頻りにスゲースゲーと感心している。
 鏡の中の熊が指の隙間からちらと鏡の外を覗くと、パノンは興味深げに鏡を見て唸っている。
「ミーはユーのセンスにヒッジョウに興味があるね! 鏡だけに今日はキョウミ深い出会いだねなんちって」
 うわ、これはないわ、とばかりに周囲の気温がまたがくっと下がる。オーケンの冠に霜が降りた。
「あのぉ……」
「あくまのかがみは パノンを リフレクトした! もとい、リスペクトした!」
「ミーとユーとでユーミーになって天下を取ろうジャマイカ!」
 ユークァルの呟きにも似た問い掛けは、二人の圧倒的なダジャレバリアに跳ね返されて跡形もなく砕け散った。

「……で、悪魔の鏡を持って行かれたんですか……何やってたんですかオルフェ」
「あの、一応後から、他の魔物で埋め合わせするって言質は取ったんで……えへへ、サイン貰っちゃった」
「バカッ」
「痛っ」
 ハーゴンに拳固でどつかれて、オルフェはぺろっと舌を出した。
「ああ、頭が痛い……」
「でも、元々あんまり懐いてなかったんですよねぇ……」
 ユークァルは溜め息を吐いた。
 悪魔の鏡を目の前で持って行かれたのはショックではあった。が、そうなってしまった以上はその状況に対応した手を打つ必要がある。新しい魔物を譲ってくれるとはいえ、手の内を知り尽くした魔物を譲られても対パノン戦では使いにくい事この上なく、また悪魔の鏡の様に命令を無視して勝手に去って行かれる危険を考えると、どうしても即戦力になる魔物が別に必要であった。
 今の手駒であるところのオーケンはともかく、人食い草のペーターは残暑の熱気かダジャレの冷気か、はたまた成長の限界か、生まれたての頃のやんちゃ振りはすっかり身を潜めている。よりによってこんな時期に戦力の穴が空くとは、正しく弱り目に祟り目。何とかペーターが保ったとしても、次の事を考えれば今から後続を育てておくか、早めに配合に回すかを決めねばなるまい。
 穴埋め候補も難航を極めた。手持ちのあばれうしどりは相変わらず暴れまくっていて、到底ユカの手には負えない。
 困ったもんだ、と頭を抱える一同であった。

「まだ少し、若いですが人面樹を連れて行かせますか……配合しても良いですし」
 口火を切ったのはハーゴンだった。黙っていても埒が明かないのだから、動かざるを得ない。だが……。
「もうそんなに大きくなったの?」
 ううむ、と腕組みするところからして、戦いに出すにはまだ早いに違いなかった。
「即戦力というには厳しいかも知れませんね。これからスパルタで鍛えるしかないかと……」
「他にないですもんねえ……」
「ごめんよ、ユカ。オイラのせいで」オルフェは頻りに頭を下げたが、下げたからと言ってどうなるものでもない。「あの、あのさあ……」
「ううん、いいの気にしないで」
「そ、そう……」
 三人が中庭に出ると、厳重に囲われた庭の一角が嫌でも目に入った。天空の城に相応しからぬ澱んだ空気といい、明らかにうねうね動いている植物の蔓やら枝やらと言い、何処からどう見ても囲いなんか無くたって誰も近づきやしなさそうであった。無論、三人は全く気にした風もなく中庭を横切る。
「わぁ、大きくなったねぇ」
「それでもまだ小さい方ですよ」ハーゴンは気にした風もなくぺしぺし木の幹を叩く。野生の魔物ならここで叩いた主を襲いかねないのだが、根っからの手乗り、もとい人の手で(人ですらないが)育てられた魔物なので実に大人しい。とはいえ、うねうねと手足を蠢かせる木は不気味としか形容しようがなく、魔物に不慣れな者にとってはどのみち近寄りがたい。要するに、叩いている方も叩かれている方もどちらも尋常ならざる者なのである。
「最終的に10フィートくらいにはなりますよ」ハーゴンは眩しそうに幹を見上げた。日はまだ高く、木漏れ日は未だ強い陰影を頭上に描いていたが、木の葉を揺らす風は随分和らいでいた。このまま植えておけば星降りの夜が訪れる頃には城中の皆を憩わせるに十分な程の木陰を作り出してくれているだろうが、生憎そんな時間を楽しむゆとりも必要も、ユカにはなかった。
「連れて行きますか?」
 配合してもいいですし、と、付け加える。とはいえ大会までに配合して一から育て直す時間は流石にない。最悪ではないにせよ、厳しい道ではある。
「他に選択の余地はないですから」
 ハーゴンは義理の娘の肩を軽く叩いた。
 ざわり。
 風もないのに影が深く差した。
 と、影は一斉に払われ、光に目が眩む。
 人面樹が幹を揺らし枝葉をくねらせ、歓喜の踊りを踊っていた。

じんめんじゅは ふしぎなおどりをおどった!

「これ、どっかで見たかも」
「こ、これは、と、止めないと……」
「えっ」
「えっ」

ユカは つられて おどりだした!

ユカの MPが 17 すいとられた!
 いらえた頃には時既に遅し。ユークァルはつられて踊りだし、仲間もつられて踊りだした。ハーゴンは最後まで抵抗したが、ユークァルに手を取られ、しまいには諦めて踊りの輪に加わった。

「ハァ、ハァ……だから、言わんこっちゃ、ない」
 抱えられ、ハーゴンは心底疲れきった溜息を途切れ途切れに吐き出した。結局西の地平線に太陽が沈むまで、踊る馬鹿どもは人面樹に踊らされっぱなしだったのだった。
「率先して楽しそうに踊っていたのはどこのどいつだ」
「ユークァルはこの手の呪力に意外な程抵抗力がないのですね」世界の支配者のツッコミに目、否耳もくれず、くたびれ切って寝息を立てている義理の娘の頭を撫ぜる。「恐慌や混乱、不意打ちによるショックには殆ど影響を受けないのですが」
 竜王はふん、と鼻であしらう。ユークァルへのそれというよりは、自分をかまってくれない事をすねているのだが。「大体、釣られて踊る奴があるか。仮にも神々の序列に一座を占めているのだ、下々に示しがつかんだろうが」
 ふむ、とここで初めて、ハーゴンは主に相槌を打つ。
「力ずくで抑えるべきでしたかねぇ」
「お前、本当に少し休んだ方が良くはないか?」主のいらえは、殆ど侮蔑と区別がつかない程の労りの調子を含んでいた。「軽くどついてやるかザメハでも唱えれば済む話だろうに」

 ユカ達が食事を終えてくつろいでいると、ルビス様が子供の様に目を輝かせて近寄ってきた。如何にも何か後ろ手に隠しています、といった格好だ。
「今聞いたのですけれど、タイジュではプチまものをペットにするのが流行ってるんですって?」
 如何にもどうでもいいです、といった風情でユカが頷くと、ルビスは勿体ぶって、後ろ手に隠した何かを差し出した。
「ジャジャーン! ウフフフフ、私の秘蔵っ子ドロルちゃんでぇ〜っす☆」
 でろり。ドロルはよだれを垂らした。
「えっ」
 オルフェは異議を差し挟もうとしたが、ルビスに睨まれて押し黙った。オルフェは生まれて初めて、ルビス様は怖いと思った。
「かわいいですね」
 ユカはそんな事にはちっとも構わず、ドロルをなでなでする。ルビス様は莞爾たる笑みを漏らすと「そう」と、こともなげに、この上なく満足げに呟いた。
「ユークァルが解ってくれて嬉しいわ。ねぇ、この子、どう? きっとユークァルの魔物に相応しいと思うのよ。かわいいし」
 ルビスはかわいいし、のところにやけに力を入れて発音した。オルフェがよだれに濡れている服をしきりに指差してユカの注意を引こうとするが、ユカは気にした風もない。
 ドロルを抱きしめながら様子を伺っているユークァルに、ルビスは両の掌を差し出した。
「そして! ジャジャーン! とっておき!」
 くちびるお化け。
 そう形容するのが最も相応しいように思われた。顔の7割くらいがくちびるで、残りは目玉だ。
 プルルン。
 潤っていた。グロス不要。
「うふふ、私のかわいいリップスちゃんよ」
 ルビス様の歌うような調子から、本気なのだと知れた。オルフェは戦慄した。これは妖魔の君より手強いぞ。
「かわいいですねー」
 ユークァルはリップスを受け取った。
「?!」
 激しい接吻の雨がユークァルを襲った。ユークァルは思わずリップスを手放す。リップスは彼女の手を離れ、辺りに容赦なく激しい接吻の雨を撒き散らした。ルビス様はもとより、ドロルもオルフェも例外ではない。何故ルビス様はリップスの口付けを嬉しそうに待ち構えているのだろう、オルフェはリップスの接吻に押し潰されながら、そんな事をぼんやりと考えていた。
「……実はキス魔?」
 オルフェはルビス様に睨まれて首を竦めた。ユークァルはリップスを追いかけたが、リップスはユークァルの手を逃れて偶さかロトの手を引いて来たマロンに襲い掛かった。マロンはくちびるお化けの急襲に黄色い悲鳴を上げ、ロトは逃げ出したが回り込まれてやっぱりくちびるの洗礼を受けた。
「どーしてルビス様ってば、こんなブサイクちゃんが好きなのかしらぁ」
 マロンは驚いて泣きじゃくるロトの顔を拭いてやりながら、ためいきを零した。
「これってさ、昔からなの?」
 マロンは半泣きで、よだれまみれの顔を拭った。「ルビス様は昔っからブス専なんですぅ……」
「こら、待て誰がブス専だ、誰が!」
「誰がブス専ですか、誰が! こんな可愛いリップスちゃんをブスブス言うんじゃありません!」
「待てルビス、そこか、そこなのぶほっ、ふぐぐっ、ぐぐぐぐ……」
 騒ぎを聞きつけてやって来た竜王すら、リップスの熱い接吻を免れ得なかった。吸盤並みに吸い付く口付けを強引に引き剥がし、リップスを叩き付けようとするがすかさずユークァルとルビスに止められる。止められて、再び唇を押し付けられ、竜王はキレた。
「誰でも良い! こ奴を何とかしろ!」
「嫌です」よだれと苦闘する夫を余所に、ルビス様は殊の外御立腹の様であった。「リップスちゃんを投げ付けようとした罰ですわ☆」



「何だ、そんな事ですか。もっと早く相談してくれたらよかったのに」
 テトはあっさりと、例の博士に相談してみればいいと断言し、ユカは拍子抜けした。忙しさにかまけていた所為か、すっかり存在を忘れていたのだ。
「なんだったらボク付き合いますけど、一緒に行きますか」
 うん、とユークァルが頷き、オルフェが金魚のふん宜しくついて行く格好で一行は井戸の底の博士宅へと向かった。
「ねえねえ。博士ってそんなにスゴいの?」
「勿論ですよ! ヴァーノン博士はこの国一番の学者先生で、錬金術の研究に関してはこの国で右に出る者はいませんからね。ねっ?」
「う、うん」ユークァルはとりあえず頷いたが、オルフェにとって博士の心象は余り良くないだろうな、と想像する。オルフェには、能ある鷹が爪を隠している様が見抜けるだろうか?
 さて、一行が博士宅の扉を開けて最初に目に飛び込んだのは、部屋一杯の黄色いスライム達であった。博士は決して狭くない部屋の真ん中でスライム達に挟まれて一歩も動けず、困惑気味の笑みを浮かべながら一同を招き入れた。が、勿論足の踏み場も無い。
「旦那様ったらねぇ、これゴールデンスライムですって言われてグロス1200Gで買っちまったんですよ」婆さんが博士の傍らで、スライムを床にホイホイ摘んでは放り投げ摘んでは放り投げて一行の足場を確保すべく奮闘していた。ユカは婆さんを手伝ってスライムを投げたが、手元が狂ってスライムはテトの頭上にストライク。テトはひっくり返って尻餅を付いた。
「ちょ、ボられすぎでしょ博士……」
「ぐ、グロスかよ……」
 オルフェは呆れた。グロスとはつまり12ダースであり1ダースは12個であるからして144匹のスライム。何という光景であろうか。後先考えずとは正しくこの様な事を言い表すのであろうなあ、と無駄に感心する一同であった。単に呆れを通り越して一周しただけ、とも言う。
「わぁ、安物ですね」
 ユークァルは黄色いスライムを掲げて光に透かした。微妙に青の混じった黄色がスライムの体内でゆるゆると濃淡を描いていて、明らかに絵の具の顔料だ。ユークァルは一年前の星降りの夜のバザーで見かけたスライムを思い出した。
「婆さんや、もうスライムはいいから茶を淹れてきとくれ。……で、用件とは何かね」
「ねぇ、ユークァル、この人っていつもこうなの? ホントに大丈夫かよ?」
「……多分」
 オルフェに聞かれてユークァルは困惑気味にいらえた。実際博士を大して知っている訳でもないが、テトの反応からするに、前からこんな感じなのだろう。
 用件を切り出す前に、婆さんがポットとカップを運んできた。
「待たせたねぇ。『ラゴス印の万能特効茶』だよ」
 ポットから溢れるお茶は如何にも毒々しい紫で、三人はしょっぱい顔をした。多分これも偽物だろう。飲めればいいや、と出されたお茶を渋い顔で睨み付けて、ぐっと飲み干すオルフェ。
「ぶっは、まずっ」オルフェは激しく咳き込んだ。
「まずいと体に効くような気がするだろう」博士は眉一つ動かさず茶をグビリと飲んだ。否、眉毛はない。「毎日飲んでもこの通り、元気にもならぬが死なぬから、安心するといい」
「それって効いてないんじゃないですかー! ヤダー!」
 はっはっはっはっは。博士は笑った。
 あんまり楽しそうじゃないな。目が笑ってない。
 ユークァルは茶を啜るフリをしながらヴァーノン博士を観察していた。
 この人は何者なのだろう。ユークァルは思う。部屋をざっと見る限り、魔術だか錬金術だかの研究と称しているが、何を研究しているかさっぱり解らない。テトに聞いてもよく知らないらしい。すごく頭がいい、というのは、本棚の書物をざっと見ればユカでも大体察しがついた。が、そんな頭の良い人が毒にも薬にもならない変なお茶やら漬け物を放り込んでおくくらいにしか役に立たない金ぴかのツボやら、どっから見てもゴールデンじゃなくただの絵の具で着色しただけのスライムを買うだろうか? 大体、博士にしてからにこれが偽物だと解り切った上で買っているのに間違いなかった。
 片眼鏡から覗く、あの狡猾そのものの眼差し。
 博士の本性は、あちらに違いないとユークァルはいみじくも目星を付けていた。人の本性たるやそう簡単に隠蔽できるものではない。
 あの人は、ばかのふりをしているのだ。
 何故だろう。
 相談そっちのけでぼんやりとまずい茶を口に含んでいると、オルフェが博士の方にスライムを足で転がしているところだった。
「おっさんさー、マジで博士なの? ほんとに? オイラだって知ってるぜ? こいつがゴールデンスライムじゃなくてタンポポだか絵の具だかで色つけてるの」
 それを教えたのはユークァルなのだが、オルフェはまるで生まれた時から知っていたかのような言い草である。
「あのさ、オイラたち……いやいや、ユークァルは本気で困ってるわけ。だからあんたを頼ってきたんでさ」オルフェはわざとらしく首を傾げて博士の顔を覗き込む。「でもさ、こんなんだと、正直心配だよ?」
「おい、博士に失礼だろ」
 テトが軽くオルフェの脇を小突くが、オルフェはテトの手を振り払う。
「オイラは学もないしムズカシイことはよくわかんないけどさ、頭のいいヒトがこんなとこで引きこもって、下らないものを買いあさってさ、何かさぁそれ、意味あるワケ?」
「ン、ない」
 博士はあっさり言ってのけた。
「えーっ、ないの?! マジで!?」
「ないんすか!」今度はテトも声を揃えた。流石にもう少し何か考えているに違いないと信じていたのだろうか。
「別になくたって良かろ」博士は紫茶を啜った。「こんな物だって、それを売って糊口を凌いでいる輩がおるのだ、買ってやれば世間に金が回る。どうせ金は有り余っているのだし、ここで溜め込んで腐らせておくより役に立とう」
「いやいやいや」オルフェは金ぴかのツボを取り上げた。「別に普通のツボでいいじゃん。そうじゃない、お金が有り余ってるならこんなモノ買わないでさ、もっと世のため人のために使ったらいいんじゃね? オイラには使いどころは思い付かないけどさ、ヴァ、ヴァーノンさんだっけ、あんた博士ってくらいだからホントはメチャメチャ頭がいいんだろ? だったら、きっとスゴイ事ができるんじゃないかと思うんだよ。博士だし」
「おいおい、そいつは買いかぶりすぎだぞ?」博士は肩を竦めた。「確かに色んな研究をしちゃあいるが、世の役に立てようなんてそんな、おこがましい」
「何でさ」
 博士は悲しそうに目を瞬いて、二人を見た。
「私には、そんな資格はないんだよ」
 力ない、やるせない笑みだった。
 ユークァルはこの微笑みを、見た事があるような気がした。ユークァルの胸の奥で、何かがちりちりと痛みを発していた。
「なーんだそりゃ」
 しかしオルフェは引き下がらなかった。「オイラはばかだから難しいことはわかんないね! わかんないけどコレだけはわかるぜ! あんたはずるい! ヒキョーだ。みんな一生懸命、必死にがんばってるのにさ、あんたは頭がよくて色んな事を知ってて、わかってて何にもしない。本当はデキるのに最初から諦めてさ! 傷付きたくないだけじゃないのかよ!」
 拳が机を激しく揺らした。
 ヴァーノンは立ち上がった。口元は強張って、怒りに、久しく忘れていた感情に、歪んでいた。
「貴様に何が解る! 傷付きたくないだけだと? 解っていて何もしないだと?」
 しかし、その続きは終ぞ吐き出される事はなかった。ヴァーノンは叩き付けた拳をそのままに、やがて、怒りと共に続きを呑み込み、腰を下ろした。
「……この世には、どう望んでも取り戻せぬものもあるのだ」
 苦悶にも似た呟きを最後に、ヴァーノンは机に突っ伏した。「帰ってくれ」
 結局解決策を得られぬまま、一行は井戸の家から追い出された。

 帰り道、オルフェはユカに言った。
「ごめんねユカ。でもさ、どうしても、どうしても言いたかったんだよ。あの人さ、妖魔の国にいた頃のオイラみたいなんだもん」



「ブッサイクだなーユカの魔物」
 ユークァルがドロルとリップスを連れてタイジュ国をぶらついていた時の、サンチの第一声である。
 博士と今後のことをぼんやりと考えながら結論を出せる訳もなく、さりとて真面目に鍛錬を積む気分にもなれず、ユークァルはただ無闇に辺りを彷徨っていた。
 このままでは負ける。
 解りきったことだが、その事実はユークァルを焦燥に掻き立てる程の力を、今は持たない。
「そうかな? かわいいよ?」
「かわいくねぇよ……」
 といういつものやりとりの後、土手で二人と二匹が並んで日向ぼっこと相成った。怪訝そうに二匹を覗き込むと、早速サンチはリップスのちっす攻撃を受けてひっくり返った。即ち、口撃である。
 何とか唇から逃れたサンチはぶはっと息を吐き出した。
「ばくだんいわといい、リップスといい、ドロルといい、ほんっと変な魔物好きだなぁ。……ユカ、ブス専だろ」
「ルビス様も同じ事言われてました」
「……ま、いいけど。人の趣味だし……」ユークァルは『ブスせん』の四文字を、サンチは『ルビスさま』の五文字を華麗にスルーした。無表情でドロルをぎゅむぎゅむ抱き締めるユカのワンピースはドロルのおよだでドロドロだ。
「お、またペットが来た」
 サンチの声で振り返ると、丁度竜王が自分そっくりの小さいのをおんぶして小走りに駆け寄ってきた。誰がペットだ、の一声を挨拶に、竜王はサンチに拳固を軽くくれてやった。
「またサボってきたの?」
「う、うむ……」
 詰問の調子を嗅ぎ取ったのか、竜王は視線を逸らした。
「後ろめたさ満載だな! はよ帰ったれ」サンチは竜王のかかとを蹴った。
「おとたん……」
「と、とにかく! ハーゴンの奴が来ても、私は来ていないと言うのだぞ、いいな!」腕に抱いた我が子にまで咎められ、竜王は声を荒げた。
「ほんっとしょうがねーカミサマだなー」
「煩い」竜王はケタケタ笑うサンチの頭を足で押しやった。「あ奴め、とうとうぶち切れおった。こちらだとて、毎日毎日毎日毎日書類を押し付けられて顔を合わせる度嫌味とお小言を浴びせられてみよ。気が変になるわ!」
 あー、とうとうそうなっちゃったんだなぁ。
 そろそろ世界の運営が破綻を来すであろう事態は予測の範囲内ではあった。人手が足りない、経験がない、ないない尽くしの中何とかやりくりしてきたのだ。我慢の限界が来たのだって、正直遅いくらいだとユークァルは思っていた。責任どころか指を動かす自由すら満足に与えられていなかった竜王が、ある日突然降って湧いた『責任』の重荷に根を上げたのも無理はない。
 無理はないんだけど、もう少し頑張って欲しかったなぁ、と思うのはワーカホリックの義父を横で見続けていた娘の身贔屓か。義父は義父で、あれこれ背負い込んでいるのは罪滅ぼしのつもりなのだろうが、端から見れば好き好んで自分を虐めているようなものだ。
 ユークァルの思いを余所に、二人はそそくさと土手の窪みに身を隠した。体が大きいのが小さいのを抱えて強引に小さな窪みへと収めている姿はヤドカリそっくり、しかも必死に人差し指を立ててしーっだの、騒ぐなだのやっているところはまるっきり大きな子供だ。
「とうたま、どうして隠れるの?」
「しっ!」
 遠くから声が聞こえてきたので、竜王は息子の口を塞いで身を丸めた。
「おお、ユカ、ここにいたのですか」
「ああ、お父さん」
 うわぁ、と隣でサンチが呟いた。
 不意に現れたのもさることながら、元・神官のたたずまいからは、頬のやつれ具合といい目の下の隈といい、肌の蒼白さの増している事といい明らかに苛立った様子といい、あのハードな旅路の頃と比べても明らかに精気が失われていた。おまけに腹から声が出ていないものだから、元々こういう種であると知らなければ幽霊と間違えられてもおかしくないかもしれない。おまけに着替えの面倒まで怠っているものだから、着ているものもよれよれで、極僅かながら茶を零した染みが薄らに残っているのも幽霊感を後押ししている。
「あの馬鹿、見かけませんでしたか」
「またいなくなったんですか」
「ええ」ハーゴンは無理矢理に笑みを作ったが、それがまた何とも言えない凄絶さを備えていて、サンチは勿論の事、リップスまでも恐れをなしてそそくさとユークァルの背中に隠れた。抱き締められて隠れられないドロルはハーゴンを凝視したままじたばた藻掻いている。
「ううむ……そうですか。わかりました……もし見かけたら、戻るように伝えて下さい。頼みますよ……」
 ハーゴンは如何にも二人と二匹を怪しむかに何度も視線を投げる。それでも諦めきれないのか、暫くうろうろと、辺りを無為に彷徨っていたが、やがて諦めて去って行った。
「本当によかったのかなぁ……」
「ほれ、これ」竜王は懐から紙袋を取り出して、如何にも無愛想な素振りでユカに押し付けた。ユークァルが紙袋を開けると、紙袋の中から芳ばしい焼き栗の薫りが一杯に広がる。ユカはまずひとつかみをサンチへ、残りを取り出し爪を立てて身を綺麗に剥く。二つ剥いて、リップスとドロルに一個ずつあげた。
「これってワイロだよな……共犯って扱いかな俺ら?」
「さあ」ユークァルは無表情に、サンチは気まずそうに栗を貪った。リップスとドロルも、さして気にした様子無く仲良く栗を食む。
「ほいえばさ、こいつらの名前、なんての?」
 サンチに聞かれて初めて、ユカは魔物の名前を付けていないのに気付いた。「そうだ、すっかり忘れてた。名前考えなくちゃ。ん、何て名前にしよう?」
「リップスはマリリンで決定だな! マ〜リリ〜ンちゃ〜ん♪」
「何処でお前はそう言う事を憶えて来た……ん、ぐ、ぶぶぶ……」
 寝転がって無防備なところにリップスからの熱い接吻を受け、竜王は悶絶し皆は笑った。

 サンチが呼ばれて帰ったので、日向ぼっこは三人?と二匹になった。
「……こういうの、いいね。……おとーさんには悪いけど」
「何だ、唐突に」
 竜王がごろんと寝返る。リップスも寝返りを打って背中を向ける。ロトは父の背中にもたれ、ドロル(イクラ、という実に投げやりな名前を貰った)は栗を皮ごと貪っていた。
「こういう風に過ごせるのって、いいな、って。この場におとーさんがいないのが残念だけど……」
「私のせいだというのか?」
 ユカは黙った。
 答えあぐねているユカの頭に、大きな蒼い、温かい手が乗った。
「すまんな、甲斐性無しで」
 何にも変わってないのになぁ。何で、色んな事がうまく行かないんだろう。温かい手で撫ぜられて、ユークァルは目を伏せた。日の光はこんなに明るく、風はこんなに優しいのに。何にも出来ないあたしが、こんなに良くして貰えるいわれはないのに。
 あたしは悪い子なんだよ?
「ん?」
 ユークァルの頭に乗る手がわしゃわしゃ、大きく動く。乱暴だけど、悪い気はしなかった。
「今、お前、自分のせいだなんて思っておったのではなかろうな?」
 とっくに見透かされていた。
「お前が今の事態を作り出したのでもなければ、何とか出来る訳でもない。お前が申し訳なく思う必要などないのだぞ」
 だから、気にするな。
 素直に喜べないな、と思いつつ、撫でられるが侭にまかせる。何だかんだ言って心地好いし、この温もりがユカは好きだ。
 撫でられている手がふと、止まった。
「おとーたん……」
 見ると、ロトがそでを引っ張っていた。
「何だ、焼き餅か。いっちょ前だなお前も? ん?」竜王は我が子を抱き上げ頬ずりする。「いいか? ユカとお前は血の繋がりはない。だがな、我々は同志だ。ユカはお前の姉さんみたいなもんなんだぞ」
「う、ん」ロトは若干の間をおいて頷く。生まれる前の話を理解しろ、というのは酷なのではないか、と思ったが、ユカは口を挟まないことにした。
 蒼白い柔らかい肌を、指関節が擽っている。「だから、どっちも私には、大切なかけがえのない存在だ。解ってくれ」
 今度は小さく、すぐに頷いた。ちょっと甘えるように、頬を撫ぜる手をもちゃもちゃ、触りながら。

 しかしそんな緩い幸せの時は、オルフェの耳つんざくような大声と、豪快な羽音のお陰で敢え無くぶち壊されるのであった。
「大変だ、大変だぁ!」
「何だ何だ、大騒ぎするとは何事だ?」竜王は如何にも面倒臭そうに上半身を起こした。ユカ達も遅れて身体を起こす。オルフェは蹄の音も高らかに、埃を巻き上げ土手までかけてきた。
「ハーゴンさんが、とうとう血反吐を吐いて倒れちゃったんだよ! 早く、早く戻って来て!」
「はぁっ?!」
「なんかさ、ルビス様もリカルドさんも右往左往しててさ、大変なんだよぅ……とにかく、早く!」
 オルフェに急かされて、竜王は詮無い、とか何とかぶつくさ呟く口ぶりとは裏腹に素早く身を翻し、我が子を小脇に抱えてオルフェの後に続いた。ユークァルは後ろ姿が小さくなり、見えなくなるまでぼんやり土手の上で皆を見送っていた。
「これって、あたし達も、戻らないといけないですよねぇ」
 ユークァルはどことなく他人事のように、ペット達に話しかけた。
 ハーゴンが倒れたという話が、竜王を連れ戻すための方便と知れたのは、その日の夕べの事だった。



「おや、珍しいですね。貴男がこんな所に来られるなんて」
 IMCタイジュ本部にふらりと現れた姿に、カウンター内の二人組の内、年配の方が声をかけた。若い方はぽかんと口を開けて男の顔を見つめている。
 男は懐から三つ折りに折り畳まれた羊皮紙を取り出した。「気が変わってね」
 羊皮紙を受け取った二人は書類を見て仰天した。「こ、これは……」
「ど、どうしますかね?」若い方がメガネを押し上げつつ訊ねる。
「馬鹿だね、受ける以外の選択肢なんて最初からないよ」年配の方が、書類を丁寧に広げてから袋の中に大切そうにしまった。「この方のたっての頼みと解れば、王様だってお断りしやしない。さ、早く準備を」



「パノンから連絡、来た?」
 ううん、とテトは首を振った。ユカは首を傾げ、オルフェは腕組みしてうーんと唸った。
 ユカが天空城に戻ってから5日が経った。責務に耐えかねて逃げ出した世界の支配者は、あっさり騙されて仕事の軛に繋がれている。そちらの手伝いやら何やらをしているうちに、モンスターマスターの方はすっかり御無沙汰になっていた。で、戻って来たらこれである。IMCタイジュ本部にも顔を出してみたが、今日は来ていない、との事。
 このままでは、ユークァルはパノンが来ないことを前提にパーティを組まねばならない。パノンのパーティ構成も全く解らない上に仲間のモンスターも充分育てられているとは言えない状況、時間はあまり残されていない。
 どうなるか解らぬなら解らぬままでやるしかない。ユークァルは腹をくくった。ないなりの時間で戦略のパターンを考え、あらゆる状況に対応出来るよう魔物達を徹底的に鍛え上げる。それが彼女の選択肢だった。こんな事態にはもう慣れっこだから今更弱音を吐く気にはならない。
 で、結局試合直前まで、パノンは手紙の一通すらも寄越さなかった。
 もっともユークァルはほぼパノンを宛てにする考えを捨てていた。顔を合わせたその日からウマが合えばともかく、いざ使ってみたらパノンの方に懐いてました、なんてシャレにならない。
「苦労させたね、なめたけ」
 木の幹を優しく撫ぜるユークァル。わさわさ、と幹を揺らす人面樹。ペーターとお見合いさせ、孵ったその日の内から猛特訓を詰みまくり、反抗されては取っ組み合い、どつきあいながら何とか試合に出せるレベルまでコンディションを作り上げた。幹にはしっかり傷の盛り上がった痕がある。
 まあ、何とかなるでしょ。
 ならなかった時の事は考えなかった。ユークァルはそういう保険を打つところに思考が及ばない娘だった。
 ユークァルと奇妙な仲間達が時間を気にしてそわそわしていると、ドアをノックする音が三度鳴った。
「はぁい? もうすぐ試合なんですけど〜?」
 間延びした声でオルフェが返した。もちろん一歩も動かない。
「パノンです……開けて……欲しいとです……」
 ユカとオルフェは顔を見合わせた。
 動こうとするユークァルを制して、オルフェが扉を開けた。
 扉の向こうで、パノンがこちらを伺っていた。しかしオルフェはパノンに二の句を継がせなかった。
「何故連絡を寄越さなかったんだよ! こっちはあんたのおかげで……ひゃっ!」
 オルフェの足下から何かが飛び出した! 何かは飛び跳ねて、ユカの手の上に乗った。
「試合には間に合わないけど。すみませんだみつお、フォ〜!」
 見ると、パノンは扉の向こうでナゾのポーズを決めていた。オルフェは黙って扉を閉めた。
 改めてユークァルの手の上に意識を戻すと、そこには踊る宝石が乗っていた。二人は見つめ合い、そして、何もなかったかのように踊る宝石をテーブルの上に乗せて、座った。



 試合が始まるまで時間があるので、世界の支配者は何とはなしに会場近くをぶらついていた。
 嫌な夢を見たものだ。
 無かった事にしてしまえば良い事なのに、嫌にこびり付いて離れない。前日、あの丘で見た人影の所為であるように思えてならない。終わった筈の、二度と戻らぬ筈の過去がフラッシュバックするのは、良い思い出でなければ余計に、そうでなくても決して気持ちの良い物では無い。過去を懐かしんで 現在(いま) を厭う程、過去に恵まれていた訳でも現在が充たされていない訳でも無かったから、余計に気色の悪い物に思われる。
 忌々しい。
 あの人影。とにかく、アレだ。
 見間違い、という可能性は、欠片も脳裏を掠めなかった。
 間違いない。
 その確信こそが過去を再び夢の中で再現したのだ。
 もう一度、此処に来れば逢えるやも知れぬ。
 己の思考を反芻して、荒唐無稽さに自嘲しつつも、竜王は足を止められなかった。
 逢って、どうしろと?
 否、そうである筈がない。あれは死んだ筈、リカルドも、ルアクもそう言っていたではないか。
 最早理屈ではなかった。自分が自分でない焦燥感に急き立てられ、何やら目に見えぬ糸で導かれている様に思われてならない、そんな己に苛立ちつつ丘へと足を向ける。まだ日は高く、じりじりと日差しが眼を灼く。
 立ちん坊のまま待ち惚けを食らわされて半時程経っただろうか。来る宛て来る筈も無い待ち人を待ち侘びた挙げ句に待ちくたびれて、夜闇の幻など忘れようあれは一時の気の迷いだと言い聞かせて身を翻したその時。
 女は其処にいた。
 気の所為などではなかった。どうして違える事があろう。
 女は身を翻して走り去った。
 今度こそ逃すまいと、後を追った。

 タイジュの外れまで追って、追って追い付いて、もう逃すまいと追い詰める。女は狼狽も露わに、逃げようか逃げまいか迷う素振りを見せていた。が、行く手を阻まれ、遂に観念したようであった。
 須臾の迷いを振り払い、女に近付く。
 消えてしまうのではないか。
 幻ではないのか。
 しかし女は雲散霧消したりはしなかった。困惑を憶えつつも手を延ばし、つかむ。
 確かな熱。長い、透き通った髪に長い睫。黒目がちな、潤んだ瞳。肉感的な唇。
 ひんやりした、しかし柔らかく滑らかな、肌。
 目に見え、肌に触れる全ての特徴が、女が嘗ての己の妻であった事を雄弁に語っていた。

 一端その場を離れ、人目に付きにくそうな水辺を探して二人腰掛ける。
 傍目に初々しい、思春期の少年少女じみた微妙な距離を保ちつつ、水面に指を浸す。
 波紋と共に、言い知れぬもどかしさが指先を伝って来た。手まで触れているのに、互いに切り出す機をうまく捉えられずにいる。
 沈黙に堪えかねて、波紋が広がった。
(ええ、焦れったい!)
 水面の揺らぎをまともに受けて、女の肩が跳ね上がった。
(…御免なさい)
 感情が指先から伝う、100年ぶりの感覚。
 嗚呼、違い無い。確かに、今こうして触れているこの女は己の妻だ。
 解り切ってはいるが、こうして感情を交わらせ合って漸く、幻ではないという確証を得られる。
(……済まぬ)
 竜王は小さく詫びた。
 それから二人の間を伝う感情は、またもやとした曖昧な、不安と甘苦い郷愁の中に紛れてしまった。100年の隔たりは想像以上に大きく、素直に再開を喜ぶ気にはなれない。懐に抱えた苦みが沸き上がってくるのを感じて、視線を逸らす。
 心の乱れを読んだかの様に、秋風が水面を揺らした。漣が幾重にも重なって微妙なぶれを掻き消し合う。漣の一つ一つが、木々のざわめきが、二人を囲む空間の全てが己を見透かしている様に思われる。しかしこの空間は、居心地が悪いながらも、曖昧さ故にそのぬるさから逃れ難いところがあった。
 風に乗った三度の、銅鑼の音。
 身を任せきれぬ微睡みから追い出され、竜王は顔を上げた。
(兎に角、余り目立たぬように、誰かの目に付かぬ様身を隠していてくれ、また会いに来る故)
 竜王はおざなりに妻の髪を撫ぜたが、その面には既に世界の支配者の顔を取り戻していた。
 細い指がするりと離れていく間際、水から微かに伝わる、何時? という問いを雫と共に振り払い、必ず来る、とだけ言い残して竜王はその場を去った。



「おお、遅かったではないか」世界の支配者を迎えたタイジュ王はVIP席でふんぞり返っていた。いつものことなので誰も気に留めない。
「ちと野暮用があってな……どうなってる?」
「もう準備は出来ておるぞい」
「さよか」無論タイジュ王に対して気なんぞ使わない。竜王は遠慮無く隣にどっかり座り込む。道化達がおっかなびっくり、二人に飲み物やら何やらを給仕するのを余所に、二人は殻付きのピーナッツを貪りつつ舞台を注視していたが、竜王は不意に身を屈めて囁いた。「ハーゴンの奴は来てはおらぬよな?」
 タイジュ王がぷっと吹き出したので、竜王は顔を顰めてぷっと殻を吐きだした。
「しかし、アレはアリなのかのう?」
「アヒだ」覗き込むタイジュ王を一顧だにせず、竜王はピーナッツをほっぺたに死ぬほどねじ込んでボリボリ囓った。囓る度、口からピーナツの粉がぼふっ、ぼふっと飛び散る。「前も言ったろ、ユークァルは追い詰められると逆にやる気を出す娘だ。ハードルは高ければ高いほど良い。それに、こういう事は融通を利かせた方が良いんだ」
「わしはかまわんのじゃがのー……」タイジュ王はもう少しお上品に、ピーナッツを一粒ずつわしわし噛み砕く。「ただ、今度の相手は強敵じゃぞ?」
「む、ん……それならそれで良いではないか。お前だとて、ユークァルでなくとも優秀なモンスターマスターが大会に出るならそれで良いのであろう? ええと、何か飲み物くれ」
 差し出された飲み物を啜っていると、客席がやにわにざわめく。舞台袖に視線を流すと、ユークァルのチームが入場するところであった。オルフェがセコンドについて、何かとユカに世話を焼いている。
「あ、来た相手チーム……!」
 オルフェは言葉の続きを呑み込んだ。
「えっ…? あっ……」
「どうしたのかね? 君達。挨拶は無しかね?」
 蒼い手を指しだし、井戸の博士ヴァーノンは片眼鏡の奥にこの上ない微笑を覗かせた。
 ユークァルは戸惑いながらも、差し出された蒼い大きな手を握り締めた。

「ね、博士ってモンスターマスターなの? やっぱすごいの?」
「さ、さあ……」オルフェの問いにテトはとまどっている。
 戸惑う二人を余所に、ユークァルは博士の正体について漠然とした想像図を描いていた。もしその想像が当たっているなら、博士は百戦錬磨の手練れであるに違いない。
 強敵だからとてユカの中で何が変わる訳ではないのだが。
 ユークァルはオーケンとなめたけ、マリリンの頭を順番に軽く叩いた。何が過去にあろうか、何を抱えていようが、勝負の世界には関係ない。
「おっしゃ、いったんさい!」
 博士の布陣はミミックにぶちスライム、そしてビーンファイター。如何にも急ごしらえな、博士の家で埃を被っていた臭い面子である。ぶちスライムがその中で、いち早く飛び出してなめたけの前に立ちはだかる。ぶちスライムの口から、大きな舌が覗いた。
「! 下がって!」
 ユークァルの指示は間に合わなかった。ぶちスライムの舌で舐め回されて、なめたけは完全に気圧されている。初参戦と知っていてターゲットにされているな、とユカはいみじくも覚る。ビーンファイターがなめたけに向け、やりを振り回して近付いてくる。
 ユークァルはミミックを指差した。
 べろり。ブッチュー。ぱふっ。ぱふっ。
「キマッタァー!」
 客席から黄色い歓声が上がる。アナウンスを無視してミミックに激しくぱふぱふを浴びせ続けるマリリン。うへぇ、と竜王がつぶやき、横で王様が腹を抱えて笑い転げる。ミミックは口をパクパク目を白黒。しかしその間になめたけはビーンファイターの串刺しを作っていた。オーケンのベギラマで、博士チームは炎の柱を上げた。
「さっすがだぜユカぁ! ……れれっ」
 ビーンファイターはバイキルトをとなえた! 攻撃力が上がったのはしかしビーンファイター本人ではなく、ぶちスライム。ぶちスライムは更に人面樹の幹に特攻し、なめたけは大きく幹をしならせた。このままでは何もさせて貰えない内にダウンしてしまう。オーケンがたまりかねてベホマを放つと、先程まで斜めに傾いていた人面樹の幹がしゃっきりと立ち上がった。ミミックは相変わらずマリリンに捕まってぶちゅぶちゅされている。博士は舌打ちすると、指を二度パチンと鳴らした。
 ビーンファイターとぶちスライムが、人面樹に背を向けてマリリンに突撃した! マリリンは無防備なところに不意打ちを受けて、よろよろとよだれまみれのミミックから離れる。
 実戦に出すには早過ぎただろうか、とユカは人面樹の動きを目で追っていた。鍛えていたつもりではあったが、つもりは所詮つもりだ。見る者が見れば解る。博士には事前に相談もしていたし、手の内は割れているだろう。
 全体的な攻撃力でいうと博士パーティの方が若干上だがユークァルの方が回復力は高い事もあって、闘いは互いに相手の攻撃を崩して、互いの余力を削っていく、と言う見ている側からするとあまり面白みのない展開になっていた。博士の攻撃力が最も高いビーンファイターは崩しが効きにくいし、こちらの主要回復係のキングスライムも崩しには強い。とは言え無限の回復が可能な訳でもない。
 早く動かないと。
 ユークァルの視線がビーンファイターを捉えた。視線はビーンファイターの鞘を上から下へと素早く辿り、一点で留まる。
(あ……あの子、えだまめだわ)
 まさか博士が配合もせずにユカの元仲間をそのまま使い続けているとは。
 プリオの牧場で、あんまりにも命令を聞かないので鞘を引き裂こうと力を込めた指痕がじんわり、未だ茶色く残っている。ユークァルの口が苦笑いの形に歪む。今の彼女からすればかなり恥ずかしい、忘れたい過去である。
「あっ」
 えだまめに気を取られている間に、ミミックのメラミでなめたけが激しく燃え上がった。
 弱った人面樹に魔法を唱え始めたオーケンを、ユカは片手で制した。
「あっち!」
 魔物達が一斉に、えだまめの方を向いた。ユカは慌ててミミックを指差す。「マリリンはあっち!」
 ほぼノーマークだったえだまめを、一斉に仲間達が袋叩きにし始める。その間にこちらのノーマークになってしまった人面樹が燃え上がってしまったのは御愛嬌。がしかし、文字通り舐められっぱなしだったなめたけは、のたのたと傷付いた重いボディを持ち上げ、牙を剥き出しにして、呪いの言葉を吐き出した!
「なめたけがんばれっ!」
「人面樹を、早く!」
 セコンドのオルフェと殆ど指示を言葉に出さなかった博士が思わず叫んだのがほぼ同時だったが、既にぶちスライムは呪いにのたうち回って使い物にならなくなっていた。えだまめは辛うじて最後の一撃を敵に喰らわせたが、そのまま抱き合って人面樹と相打ちとなる。マリリンはミミックに相当噛み付かれて傷だらけだったが、遅れてオーケンのベホマが、とどめを喰らう直前の彼女を助けた。
 なおも食い付こうとするミミックを、オーケンのベギラマが、マリリンのぱふぱふが襲う。ぶちスライムがマリリンを舐め回したが、オーケンのギラ連発と呪いのダブルパンチで、マリリンに止めを刺す前に力尽きた。マリリンもまた、ぱふぱふの手から逃れたミミックに頭を噛まれてひっくり返る。
 オーケンの体が空気を吸ってぷうと膨れた。
「ザオラル!」
 効くなっ、と博士の口が微かに、動いたようにユカには見えた。
「やったぁ!」オルフェが飛び上がった。どっと沸く客席。
「やったぞ!」VIP席に殻付きのピーナッツを撒き散らしながら、世界の支配者は立ち上がった。
「何が、やった、なのですか?」
 割れんばかりの拍手と喝采に包まれた観客席の中、竜王はそのまま、骨張った手を何時になく重く肩に感じながら、座席に座らされた。



 ユークァルに負けて、博士はモノクルの縁を軽く擦った。
「……詮無いな。とにかく、ユークァル、おめでとう。君は素晴らしいモンスターマスターだ」
「運が良かっただけです」
「いいや、運を引き寄せるのも実力の内だよ。……では、失礼するよ」
 博士はユークァルとの握手を交わすと、そのまま裾を返した。
「待って下さいヴァーノンさん!」
 ヴァーノンの動きが僅かに止まった。が、それはほんの一瞬の事で、未練を振り切るかに再び、歩き出す。「敗者に情をかけるいとまがあったら、Bクラスのテストに向けて鍛錬しなさい」
「行かないで!」ユークァルは叫んだ。「だって、ヴァーノンさんがここに今こうしているのって、何かを変えられるんじゃないかって思ったからじゃないんですか? 私、何か出来る気がするんです。……あの、その……もしかしたら、私の思い込みかも知れませんけど」
 ユークァルは語尾を濁した。己の思い込みが博士を傷付けるかも知れない。もし見当違いだったら。もし……予想が当たっていたとして、望まない結果になったとしたら。
  須臾(しゅゆ) の時が無限に感じられる。無意識にユークァルは拳を握り締めていた。
「……ダメもとで参加した大会だからな、解った。付き合おうじゃないか」
 振り返った博士は笑顔だった。何もかも諦めたが故なのか、わだかまりを解いたが故なのかはユークァルには解らなかった。



「ままま、その、ハーゴン殿。ユークァルがCクラスに合格した訳であるし」
「煩い黙れ」
 ぞろぞろと観客が帰り始める中、VIP席ではダメ世界の支配者とその仲間達が仲睦まじく戯れていた。タイジュ王はダメ世界の支配者を必死にかばっていたが、一言凄まれると気圧されて首をするする引っ込めた。竜王はハーゴンに首を極められ拳を顔に押し付けられ、済まん、悪かった、許せ、のルーティンを二秒おきに繰り返している。力では負けそうにないのに完全に立場が逆転している様はまさしくお遊戯。
「いやあ、あのザオラルが効くなんてねえ。良かったねぇ……あれっ、ハーゴンさん何してんの」
「関係のない事です」ハーゴンは態とらしいくらいの無表情でオルフェにいらえた。「さあ、帰りましょうねぇこの糞野郎。仕事は待っちゃあくれませんから」
「ハーゴン殿がこんなに怖ろしい御仁であるとはわしゃ知らんかったぞい」タイジュ王はVIP席の椅子からおっかなびっくり顔を出したり引っ込めたりしていたが、一同の姿に気付いて立ち上がった。「おお、博士ではないか! ヴァーノン博士、大健闘でしたな! 実にいい試合じゃった! あっぱれ、あっぱれ!」
「ヴァー……ノン?!」ハーゴンが攻撃の手を緩めたので、竜王は急いで首を振り払った。
「これは……幻を見ているのか?」
「幻じゃないですよ」ユークァルは博士のつぶやきを拾い上げたが、もはやヴァーノンの大きな筈の耳には届いていなかった。ヴァーノンはわなわなと手を震わせ、喉仏を何度も上下させていたがやがて、金色の眼は見る間に潤み、やがて留処なく、涙が溢れて一筋、二筋と頬を伝い落ちていった。
「生きていた……なんて、否、貴男はあの時、確かに……」
 ハーゴンは嘗ての友、嘗ての仲間の手を握ってはにかんだ。「まあ……色々ありましてね」
 ヴァーノンは何か言いかけたが結局言葉にならず、ただひたすら、差し出された手を握り締めてぽたぽたと、手の甲に雫を落とすのだった。

「確かに言われてみりゃ似てるけど……何で?」
 オルフェに聞かれてユークァルはさあ、何ででしょうねえ、と適当に言葉を濁した。それに今となってはどうでも良い事でもあった。信仰の事はユカには良く解らなかったけれども、どんなに大きな位置を博士の中に占めていたかは今の二人を見れば一目瞭然だった。
「あ奴ら、どうやら邪神の信徒同士というだけではないらしいぞ」
 竜王が邂逅の場より這いつくばって、ユークァル達の元へ逃げてきた。「何でも元悪魔神官で、ハーゴンに仕えていただけでなく兄弟弟子だったとか、何とか」
「おいちゃん、その格好、博士に見られたらハーゴンさんの立場がないよ……あだっ」
「だあれ煩…あだっ」
 ハーゴンに尻を蹴られて、世界の支配者は哀れにも尻を突き出したまま再び這いつくばる。ハーゴンは尻を踏み付けた侭、嘗ての部下兼兄弟子に向けて顎をしゃくった。「紹介しましょう。これが、私の、今仕えている主です。無能で、怠け者で、愚かで傲慢ですが、一応! 世界の支配者です。……いやはや、こんなうつけが世界の支配者とは世も末です」
「おやおや、何ともまあ、苛烈な事で」ヴァーノンは殺しきれぬ笑い声を漏らした。「したが、ええとその、なんと呼ぼうかな……何でも良い、昔に比べて随分と楽しそうで、何より」
「楽しそう?」
「嗚呼、楽しそうだ」訝るハーゴンに、片眼鏡の奥の眼が (まぶ) しげに、細められる。「それだけで、この御仁が糞馬鹿の脳足りん野郎であろうと何であろうとも、今の貴男こそが一番幸福であるのだと私には、確信が持てる。ロンダルキアで蛍雪の功を重ねていた日々よりも、滅びの神に祈りを捧げていた日々よりもな」



 空はもう地平線が微かに朱を留めているだけで、夜と言って良かった。ユークァルは博士の井戸への帰り道にくっついて、一緒に旅を始めてから今に至るまでの四方山話を話していた。時々ヴァーノンがあれこれ話を遮って質問攻めにしたお陰で、話があらかた終わって井戸に着いた頃には夜になっていた。
「ユークァル」
「はい」
「今の私にとってはここは用済みだ。研究所は畳もうと思うのだが、どうかね?」暗くて見えなかったが、ヴァーノンの声は何時になく張りがあった。
「博士は卒業ですか、それもいいですね」
「婆さんには長く働いてもらったからちょっとばかり礼をはずんでやらんとな。さあ、これから一仕事だ」
「ツボの片付けが大変ですね」
「餞別代わりに婆さんにくれてやろうかね」
「お婆ちゃん腰抜かしますよ」
 二人は笑った。
 博士は井戸の中に降りかけたが、梯子を下りる手を止めて片眼鏡の位置を直した。
「それから、やはりユークァルの魔物は戦力不足だ。今のままではBクラスも覚束ないぞ。今回は偶さか、私がモンスターを鍛え込んでいなかったせいで勝てたようなもので、こんな幸運が何時までも続くと思っていたら大間違いだ。幸運というのはな、不断の努力と知略とを尽くした後でなければ何の役にも立たないのだ。全てを出し尽くした者のみが、天の采配の残酷さと優しさとを知るのだ」  ユークァルは頷いた。
「……家にユカの魔物達と配合させるのに丁度いい子がいる、明日にでもお見合いさせないかね?」
「はい、是非!」


DQi目次へバシルーラ!