Dragon Quest m-i 〜ユカのワンダーランドと愉快な下僕共

〜第四章 Dクラス 桃園結義


 次の日、ユークァルはEクラスへの昇格報告に王宮を訪れた。タイジュ国王はユカの報告を、道化達に負けず飛び上がらんばかりの喜びようで迎え入れた。
「おお、流石はユカじゃ、目出度い目出度い! この調子で順当に勝ち上がれば、SSSクラスも間近じゃな! わっはっは!」
「わっはっは、バカめが!」
 そんなクラスは無い! と道化達が叫んだのも飛び跳ねたのも、王の目と耳には入っていなかった。
「また来たのか……ヒマじゃの!」
 歓迎されざる訪問者に、タイジュ王はふんと鼻を鳴らした。
 ふんぞり返って登場したのは、誰あろうマルタ王である。後ろには家来達が傅き、お飾りに、決まり悪そうなテリーとピンクのわるぼうも同行している。
「何じゃ、タイジュ国の面子を心配して、わざわざやって来てやったというに。星降りの夜までにSクラスに昇格が間に合わなくて、又泣きつきながら特例を認めろと言ってきても知らぬぞよ」
「だぁ〜れが、言うか! 今のとこユカは通常より厳しい条件の試験を、全部ストレートで昇格しておるわ!」
「あったり前じゃ!」マルタ王は唾を飛ばした。「ストレートで合格しなければ間に合わんでは無いか。ま」
 マルタ王は玩具人形の様に正確に回れ右を決めた。ユカにぐっと顔を突き出し、人差し指を左右に振る。
「名誉Sクラスをタイジュ王におねだりすれば、関係ないのう! わはっはっはっはっ!」
「かんけいないでワル!」
「そうでワル!」
「てめぇ……」
 わっはっは、と笑ったマルタ王の背後で、テリーが怒りを抑えかねて拳を震わせた。デュランが肩を押さえていなければ、すぐにでも飛び出して行ったに違いない。肝腎のユカは相変わらず、顔を近付けられても無頓着で、お陰で顔中にマルタ王の唾を満遍なく振り掛けられる羽目になった。
 マルタ王の笑いが途切れた。顔がみるみる青く、赤くなる。
「?」
「んッ、ギャーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!」
 マルタ王のお尻に、人食い草の白い可憐な蕾が二つ、均等に食い付いている。人食い花は振っても引っ張っても離れそうになく、尻の皮を引っ張られてマルタ王は更なる悲鳴を上げた。「ヒイイッ、引っ張るなぁ!」
「ぷぷっ、傑作だぜ」
「わっはっは! いい気味じゃいい気味じゃ、人を呪わば花二つ、じゃ!」
「大変でわる! えらい事でわる!」
「おっ、王様、其れは穴二つ、です!」
「ペーター! あ、いつの間に猿轡外しちゃってる……」
 走り回るワルぼう二匹、飛び上がる道化。玉座の間は暫し、しっちゃかめっちゃかのちょっとしたお祭り騒ぎの場と相成った。

「ったく、行儀の悪い魔物じゃ。お里が知れるわい」
 苦心の末何とか人食い草の花弁を引き剥がし、歯形を付けたお尻を丸出しにして薬を塗られている、という世にも屈辱的な格好では、何を言われようが腹の立とう筈も無く、寧ろ何か言う度、薬を塗られて跳ね上がる度に忍び笑いが漏れる。この程度の傷ならばホイミの呪文一つで治りそうなものだが、誰もマルタ王にホイミをかけてやろうなどという殊勝な心掛けを持った者はいなかった。マルタ王のお尻に食い付いた当の人食い草は、然したるお咎めも無く再び轡を咬まされて大人しくしている。
「うぷぷ……いい格好だぜ」
「わ、笑うなテリー! 生意気じゃ! ギャー! し、沁みる……こ、この城にはホイミの使える者はおらんのか!」
「さ〜あねぇ〜♪」
 勿論テリーもユカもベホマくらいは使えるのだが、テリーは勿論の事、ユカもタイジュ王に手を出さぬよう申し渡されているので知らんぷりをした。
「なあ、ユカ」テリーは顔に掛かった唾を拭く濡れタオルをユカに渡した。
「はい、何でしょう」
「大分魔物も成長してきたみたいだけど、そろそろもう少し強力な奴を連れた方がいいんじゃね?」
「お見合いのお誘いですね。いいですよ」ユカはマルタ王の苦しみを余所に、キングスライムの冠を摘み上げた。「この間、初めてお見合いしたんです。スラリンとスラッチの子供です。なかなか立派でしょ」
「こ、こら、敵国のマスターと仲良くするなワル!」
「そうじゃ! わしのお尻より敵国マスターの顔の方が大事か! このエロガキがガガガガギャー!」
「そうでワル! フギャッ!」
 ワルぼう二匹を軽く足蹴にし、文字通りマルタ王のお尻を尻目にユカとテリーは早速魔物のお見合いに向かった。

「おお、ユカ、良く来たのう! 何と、そなたはマルタ国のテリーではないか。まま、奥へ奥へ」
 モンスターじいさんは二人を奥へと招き入れ、早速コーヒーとビスケットで二人を持て成した。モンスターじいさんの本名は二人も良く知らないが、とにかくこの世界では指折りの魔物仲人として知られている。魔物の事で知らない事は無く、本人自身も嘗てはモンスターマスターとして、星降りの夜で何度も優勝していると聞く。
「オーケンはどうじゃ、元気にしておるか。懐いておるか?」モンスターじいさんはキングスライムのオーケンをぺちぺち叩いた。オーケンはちょっと嫌そうな顔をしている。
「はい。おかげさまで」
「うむうむ。善き哉善き哉。で、今日は二人のお見合いかの? どの子とどの子をお見合いさせるのじゃ?」じいさんは落ち着かない様子でユカの連れる魔物の周りを回っては、屈んだり爪先立ちで覗き込んだりしていた。余程お見合いが好きでたまらないらしい。
「うーん……。どの子がいいかしら」
「俺はこのギガンテスをお見合いに出すぜ」テリーはギガンテスの脹ら脛をぴしゃぴしゃ叩いた。ギガンテスは頭を天井に引っかけないよう、所載なげに身を丸めて体育座りをしていた。「こんな見た目だけど、メスなんだぜ。結構シャイなんだ。ゲルダ、挨拶しろよ」
 ギガンテスは頭を小さく下げたが、頭を上げた途端一本角が天井を削ってしまった。
「わっひゃっひゃ! 頭が刺さったワル!」
「刺さったわ……ふぎゃっ」
「てめーら好い加減うるせーんだよ!」テリーに蹴飛ばされたワルぼうは、見事に二匹とも壁に叩き付けられていた。「誰とお見合いしようがこっちの勝手だろうが。で、ユカはどうする?」
「あたしはどの子でもいいんですけど……」
「うむむ、そうじゃなあ」じいさんは髭を撫ぜた。「ギガンテスと人食い草ならダークアイとガップリン、悪魔の壺となら悪魔の鏡とヘルビーストが生まれるぞい」
 ダークアイ、と聞いて、僅かにユカの面が曇る。「じゃあ、悪魔の鏡にします」
「ユカ、何かあったのかあああいたたたたたたただだだッ!!」
「きゃー! ペーターまた噛んでっ! ダメでしょっ!」
 テリーの腕にしっかと噛み付くペーターの花弁を引き剥がし、轡をぐるぐるに噛ませながら、ユカはごめんね、とペーターに囁きかけた。

「は〜よいとこらせっとこ♪ ラララ〜♪ 水面に映る〜ぶ〜たの〜けつ〜♪」
「何時聞いても脱力するな……。ほんとにその踊りで無いと卵が孵らないのかよ…………っつーか、師匠爪先でリズム取ってるし! 何でだよ!」
 じいさんはへっぴり腰で、祭壇の周りをぐるぐる踊りながら回っていた。二人のお見合いは巧く行き、ユカは金属質の輝きを放つ卵を、テリーは岩の様な質感の卵を手に入れ、ユカの方は早速モンスターじいさんに頼んで卵を孵化して貰う事にした。
 のだが、其れがこの始末、である。ユカはじいさんの踊りを何とも思わなかったが、他の皆にとって……というより、テリーにとってはかなりこの踊り、直視するには厳しい物があった。まず、どこから見てもへっぴり腰の安来節の出来損ないにしか見えない。じいさんはすね毛を丸出しに襷掛けで踊るのだから尚更である。歌は歌で鶏を絞め殺した様な声、抑揚もリズムも無いだらだらした唱法とが相まって、目覚めるよりは寧ろ眠くなってそのまま永遠に眠りに就きそうな案配であった。しかしじいさん曰く、この聖歌チャントと踊りとで無いと駄目であるらしい。そう断言されては反論のしようも無く、デュランなど嬉しそうに、怪しげなリズムを取っているところからして魔物としてはこの聖歌が素晴らしく心躍る波長なのであろう。二人とその仲間達が黙って見ていると、やがて何処からともなく一条の光が卵に降り注いだ。
「あ、ひびが入った……」
「生まれるぞ」
 生命の生まれる瞬間。何度見ても、初めての昂奮と悦びを呼び覚す。
 ひび割れた中から現われたのは、骨の枠で象った銀の鏡に映った、ユカとテリーの顔。
 鏡の中の顔が、笑って、アカンベーをした。
「赤ん坊がアカンベぇ」
「れれれ、チクショー、何だコイツ、生意気だ!」テリーが鏡の向こうで笑う自分を睨め付けた。
「本当の鏡じゃないんですね」ユカは鏡の向こうの自分の顔をつつく。
「ミラーを見らーれた!」
 鏡の中のユカがぱっと顔を赤らめる。
「ん、べー」
 今度はユカが、鏡の中の自分に向かってアカンベーをした。鏡の中のユカは、腐った肉を食べさせられた様な顔をした。
「ユカはフユカイ」
 ユカはどうしていいか解らず。鏡の中の自分に首を傾げるばかり。
「わーっひゃっひゃっひゃっ! 悪いお見合いだったでわる!」
「そうだわる!」
「わるぼう、鏡割る棒で」
 うるせーよ、とわるぼうと悪魔の鏡を睨み付けるテリーの眼力も、今回ばかりはダジャレのお陰で力を削がれている様に思われた。

「ルーラで家に帰ルーラ!」
「キメラに決められた!」
「ヒャドが効かないぞ、ヒャーどうしよう」
 悪魔の鏡はユカが聞いていないにもかかわらず、後ろで相変わらずダジャレをかっ飛ばし続けていた。
「バブルスライムのからだばぶるぶる震えとるた……ふぐっ」
 先に見知った姿を認めて、ユカは悪魔の鏡の口を塞いだ。
 こんにちは、と声をかけるが、先方は振り向いてくれなかった。ユカは悪魔の鏡を押さえる手を放さぬ侭近付いていった。
「こんにちは」
「……聞こえておる」
 紫紺の法衣が物憂げに翻る。少し、背が高くなったろうか? 立てた襟から、馴染みの顔が覗いた。
 いらえを返したのは、竜王の曾孫、ルアクである。ユカと知っていて、無視したらしかった。
「お久し振りです。どうしたんですか? こんな所で」
 ルアクは世界中を巻き込んだあの大騒動の後、ハーゴンの従弟・アーロンに連れられて下界に降り、結局ムーンペタには残らずアレフガルドに戻ってリムルダールの預言所で学問に勤しんでいると聞かされていた。星降りの夜までは二月余り、祭りを見に来るには、幾ら何でも早過ぎる時期ではある。
「そなたには関係ない」ルアクはぷいっと余所を向いた。
「そうですか……時間があるなら、案内しますけど」
 ルアクはユークァル達を睨め付けた。「余計な世話など焼いて貰わずとも良い。一人で何処へでも行けるわ!」
「ルアク、見る悪……ふ。ふぐふぐっ」
 ダジャレを封じつつ、ユークァル達は去っていくルアクを見送っていた。ふいと背を向けたルアクの背中は、昔の竜王に似ているとユカは思った。

 ルアクに会った事を報告しようと天空城に戻ると、リカルドの妻・フリーダとばったりと鉢合わせた。
「ねえ、ユカ嬢ちゃん、うちのバカ亭主見なかったかい?」
 ううん、とかぶりを振ると、リカルドの妻は頻りにエプロンで手を拭いた。困った時の彼女の癖で、特に毛の抜ける春先や秋口になると、エプロンが毛だらけになってしまうので、フリーダの愚痴は更にヒートアップする。
「うちのバカ亭主、この忙しい時に何にも言わずにふいっといなくなっちまうんだよ。どこかに用事があるってんなら、せめて一言孫達にでも伝言してくれればいいってのに……全く、気の利かない年寄りだよ。ユカ嬢ちゃん、うちのバカ亭主を見付けたら、あたしが探してたってお伝え下さいまし。旦那様の書斎の脚立が壊れちまったんだよ。あたしゃ大工仕事はてんでダメだし、孫達の世話もあるし、娘は今夜の夕飯の下ごしらえで忙しいし、娘のダンナは屋根の修理でてんてこまいだし……」
 フリーダの愚痴が際限ないのは先刻承知だったので、ユカは見掛けたら伝えておく、と言い残して、さっさとその場を後にした。
 中庭に続くアーチを潜ると、珍しく父がバケツに溜めた水を柄杓で撒いている処に出くわした。
「おかえり、ユークァル。Eクラスに昇格したそうだね」
「お父さん……目の下、どうけつぐまが住んでる……」
 はは、と義父は力無く笑って、目の下を擦った。寝不足なのが一目で見て取れた。元々痩せているのに、此処暫くの間に更に窶れた様に見える。
 義父が欠伸混じりに話した処に依ると、漸く巧く行きかけていた根の国ニヴルヘイムで、近頃ちょっとした騒ぎが起ったのだという。看守の一人が囚人達からの賄賂の有無で仕事評価を付けていたのが見付かって、囚人達が抗議のストを行った為に、ニヴルヘイムは三日間に亘って全ての仕事が止まってしまった。キューリが何とか囚人達を説得して穏便に済ませようとした矢先に、囚人から賄賂を受け取っていた看守が処分を免れようと逃げ出す所を目撃され、看守は袋叩きに、囚人達は大暴れしてあちこちを滅茶苦茶に壊しまくった。何とか囚人達を魔法で眠らせ、今は謹慎処分にしているが、お陰で暫くの間まともに労働をさせられそうにない状態にある。折角巧く行きつつあった改革も水の泡、また一からやり直さねばならぬ、と根の国の管理責任者キューリは頭を抱えていた。
 これというのも全ては、人手不足の所為であった。
 嘗てのニヴルヘイムは、試験の成績が下位の天空人を受け入れる場所であった。遣り甲斐はない代わりに仕事はラクチンでやる事も大して無く、囚人達の扱いもほぼマニュアル化されている。故に此処に派遣される屈辱を味わった者達は来季の試験に備えて余暇を試験勉強に充て、次の任期には大体別の土地へ派遣される。囚人達との癒着を防ぐ為の効率的な仕組みとして働いていたという訳だ。
 が、昨年から事態は一変した。
 世界の支配者の交代によって、多くの者が任務を放棄して、新王の下を去ってしまった。残った者達には重い負担がのし掛かり、嘗ての様な安穏たる日々は何処かへ消え失せた。其れだけではない。ニヴルヘイムを健全化するキューリの試みによって彼等は囚人達から搾り取るだけ搾り取る事が出来なくなり、仕事の旨みを失ってしまったのだ。成る程、根の国への任務を命ぜられる事は恥辱だが、一度来てしまえば旨みも又、大きい。経理の権限もほぼ現場に握られていて、囚人達の衣食住から看守宿舎の内装に至るまで、現場の権限で好き勝手に決められていた。だが、其処を健全化しようとキューリがメスを入れた為に、元々成績不良でやってきた連中であるから、不満ばかりが鬱積する。八つ当たりも搾取も許されなくなった彼等が唯一失わなかった権限を、何時も通り行使した結果が斯様な結果を産み出したのであった。
 何でも、ハーゴンは世界の支配者自らが力尽くで反乱を鎮めるべく乗り込もうとしたのを必死で止め、反乱の鎮圧から原因究明、不正の処罰、その穴埋めの人員確保、囚人達との間に築き上げて来た信頼関係をどう取り戻すかの協議、不正の再発を食い止める仕組み作り、これら全てをほぼ、キューリと二人だけで何とかこなしているという。挙げ句に唯でさえ山積みの通常業務を滞らせるに至って、ハーゴンは殆ど参りかけていた。
 仕方ないんですがね、とハーゴンは微笑んだ。無理が笑みの端から滲み出ていて、却って痛々しさが増していた。
「そんな事より、ほら御覧なさい。マンイーターがこんなに大きくなりました。人面樹も少し伸びてきましたよ」
 植物系の魔物を育てる時間は、ハーゴンにとって現実から目を背けるほんの僅かの憩いの一時であるらしかった。ハーゴンは骨の浮き出た指で、マンイーターの肉厚の花弁を軽く押してみせる。
 と、マンイーターの口から、甘ったるい、熟し過ぎた南国の果実に似た濃厚な匂いが漂って来た。
「ふん、ふん……ふわぁ……何だか、眠い、ですね……。否、まだ寝てはいけないのですが、仕事が残って……ま…………ふ……」
 如雨露を取り落とし、ハーゴンは船を漕ぎ始めた。キングスライムのオーケンが頽れるハーゴンを支え、ペーターが如雨露を元に戻す序でに青い耳をちょっとだけ囓った。義理の娘の手で眠った侭運ばれる天界の書記官の傍らで、悪魔の鏡は「神を噛み噛み」などと相変わらず聞いてもいないダジャレを飛ばしていた。

 結局それから父は、丸二日目を醒まさなかった。
 無論その間、業務の全てが滞る事になるので、ユカとその魔物達は仕事のフォローに家事にてんてこ舞い。とてもでは無いがタイジュに戻る余裕は無い。訓練に費やす時間が減るのは仕方ないとしても、Dクラス戦の対戦相手が見られないのはユークァルにとって大きな痛手だった。訓練は家事をやりながらでも意志の疎通を深めるやり方は色々あるけれども、実地で試合と魔物の構成を見るのは、人伝に話を聞くのとは大違いだ。試合の癖やマスターの表情、魔物達のやる気、その場の温度、そういう生の息遣いは、現場でなくては伺い知る事が出来ない。Fクラスでの失敗は未だ、ユカの中で根強く位置を占めているようであった。
 大体、父の仕事の中でユカが手伝える部分は決して多くはない。目覚めて再び卒倒せぬ様に、最低限の書類の整理と分類、可能なら要約を付け、付箋を貼り付ける。読みにくい、読めない文字の確認、それから、部屋の掃除に洗濯、簡単な書類への代理サイン。たったそれだけの仕事を片付けるのに一日中走り回った。無論慣れていないのもあるけれども、其れにしても膨大すぎる。父が寝込むのも無理は無い。
 何とかする方法があったらいいのに。
 極力抑えてはいるけれど、ここ数ヶ月の父は明らかに余裕を失っていた。矛先は専ら遊び呆ける世界の支配者に向けられるのだが、机に向かっての事務仕事など生まれてこの方唯の一度も任された事の無い新王にさあやれ今やれすぐにやれ、というのは少しばかり酷な仕打ちではある。大体、竜王がしばしば出奔を繰り返すのも、ハーゴンが些細な間違いを余りに責め立て過ぎるが故でもある。当の本人が其れを一番解っているのだが、何ヶ月にもわたるこの忙しさでは己を抑える術も効かなくなりつつあった。
 此の侭、暫く休ませてあげたいのだけれど、とユカは思う。
 星降りの夜の大会に優勝した者は、願いが叶うと昔から言われている。もしも願いが叶うなら、どうか父の仕事が楽になりますように、とお願いしようかな。いやいや、いっそ、みんなの願いが叶います様に、と願った方がいいだろうか。
 その為に、まずは優勝しなければ。
 戻る度課題が増えるな、と思いながら、ユカは漸く目覚めた義父へ柚子茶を持って行った。
「お父さん」
「ん」
 扉をノックして入ると、着替えた父がベッドに座っていた。「済まないね……一体どれくらい寝てたのだろう………」
「丸二日寝てました」
「本当か! あああ、拙いな……偉い事をやってしまった……」ハーゴンは無毛の頭を掻き毟った。
「あたしでも出来る事はやっておくようにしましたから。疲れてたんだし、しょうがないです。はい、柚子茶」
 頭を抱える義父の手に、ユークァルはマグカップを手渡した。ハーゴンは温かい柚子茶を旨そうに飲み干す。「体に染み渡る様だ……」
「お願いですから、無理はしないで」
「そうしたいんですがね……」父は溜息を付いた。
 激しく叩かれる扉が、親子の会話を中断した。扉を開けると、息を切らせたタイジュ国からの使いが雪崩れ込んでくる。
「どうしたんですか? あの、良かったらお茶でも、どうぞ」
「それどころじゃないですよ! 大変です。プリオの牧場から逃げ出したあばれうしどりの群が、町に戻って来たんですよ!」
「はぁ」ハーゴンは空っぽのマグカップを頻りに弄んでいたが、惜しむ様に溜息を付き乍ら腰を上げた。「やれやれ。ユカの願い通りには行かないようですね……」
「待って。お父さん。これこそあたしでも何とかなります」ユカは父の手を引いて、ベッドに再び腰掛けさせた。「それに、あたしには仲間がいますから」

 ユカがタイジュに戻った時にはあばれうしどりの群は何処かに去っていった後だったが、町中に残された蹄の痕が彼等の存在を遺憾なく示していた。薙ぎ倒された灌木、破られた柵、泥濘に穿たれた幾つもの蹄痕、道端に落ちたふん。プリオ曰く、逃げ出した時点で116頭、その内何匹かはお腹が膨らんでいたから今はもっと増えているに違いない、との事である。
「で、どう捕まえる?」
 IMC本部には、あばれうしどり捕獲作戦への参加を表明した魔物使い達が集まっていた。人数は総勢にして11名、クラスも年齢性別連れている魔物もバラバラの一同は、プリオが広げた牧場周辺地図を睨んで唸っていた。
「みんなでラリホーを唱えて、眠らせちまったらどうだ」
「バカじゃねえの。寝た奴を運んでる間に起きちまったらどうするんだ。それに、何匹いると……」
「ラリホーで眠らせるっていうのは悪くないと思います」ユカは地図の端っこに、木の枝で頻りに円を描いていた。「眠らせる場所が問題ですよね。牧場に入れてから眠らせればいいんじゃないでしょうか。牧場に集めても、中で暴れて柵を壊したらそこから逃げてしまいます」
「どう連れて行こうか……」別のマスターが唸った。
「道路を封鎖して、牧場に入る様に道筋を作るか……」
「そんなものどうやって作るのさ。見たでしょ、アレを」別のマスターが破壊された町の光景を指した。
「魔物達が行き易い流れが欲しいですよね……一定のルートを作れば、それに沿って移動しそうな気はするんです。沢山走らせて疲れさせた方が捕まえやすいから、最短ルートで追い詰める必要はないと思うんです」
「連中が通ってから道を塞いで、後戻りしないようにした方がいいかも知れないな。その方が安全だ」
「大きな魔物が後から退路を塞ぐ様にして、身軽な魔物を使って牧場の方へ誘導するか」
 一同は議論を重ねて大体の道筋と、役割を決める。ユカの仕事は道の分岐点で赤い旗を振って、魔物を横道に誘導する係に決まった。真か嘘かは解らぬが、あばれうしどりは赤い色に強く反応するので、大きな旗を振ればそちらに向かって走り出すとの俗説があるからだったが、肝腎の赤い布が直ぐには集まらず、即席の旗は物によってはTシャツだったり赤フンドシだったりした。暴走する魔物の前で旗を振らなければならないのだから、かなり危険な役割である。
「どうぞ、よろしく。こちらはマイパートナーのベベ。さ、ベベ、御挨拶しなさい。ハウドゥーユードゥー、ハイ!」ユカと組む事になった魔物使いが自分の魔物を紹介した。ユカはこんな巨大な魔物を見るのは初めてだったが、全身石造りの巨大な石像は、存外繊細な仕草でユカに一礼した。
「フンガー、フンガー」
「よろしくね、ベベ」
「ベベ、ちゃんと挨拶しなければダメだろう! この方は昨年度のスターフォールナイツの大会チャンピョンのユカさんだぞ。アイムソーリー、せーの!」
「フンガー、フンガー」
「いいんですよ、気にしないで下さい。ベベちゃん、よろしくね」差し出されたベベの指に、ユカは手を触れさせて握手の代わりにした。
 ぶつぶつ文句を言いながら持ち場を離れる主人を見守っていたベベは、ユカの方に身を伏せて手招きをした。ユカが顔を近付けると、ベベは口元を覆って囁いた。
「あいつはほっといていいから。大体、スターフォールナイツって何だよ!」

 ユカが持ち場に移動すると間もなく、群が戻って来たのを知らせるべく下の方からドラキーが飛んで来た。遠くから鳴り響く微かな地鳴りが既に、群の帰還を告げていたのではあるが。
「あらら、わたぼう。どうしたの?」
「わたぼうは多忙」
 わたぼうは繁みから顔を出していたが、ユカに見られて直ぐ顔を引っ込めた。わたぼうの羊に似た肌触りの見事な毛は埃にまみれ、見事な蹄の痕の形に凹んでいる。そうでない部分には木の葉や木の枝のカスが毛に巻き付いて、折角の毛皮は台無しになっていた。わたぼうは間違いなく、あばれうしどりの群に轢かれたに違いない。
「な、何やってるわた……?」
「みんなであばれうしどりを捕獲する作戦なんです。それで、此処であばれうしどりの群が来るのを待ってるんですけど……わたぼうも、来る?」
 わたぼうは耳が千切れそうな勢いで首を左右に振った。
「あ……もう、来ますね……」
 わたぼうは慌てて繁みに引っ込んだ。ユークァルは赤い旗を握り締め、高々と振り翳す。
「こっちよぉー!」
「旗ではたいた!」
 ユカは旗を振りながら、あばれうしどり達を先導する。果たして、赤い色の故か、はたまた旗の動きにつられてか、あばれうしどりの群はユカを目指して突進する。ユカは素速く繁みに飛び込んで難を逃れたが、悪魔の鏡は逃れ損ねて体中にひびと偶蹄目特有の蹄痕を残す羽目になった。あばれうしどりの群が疎らになるとユカは繁みから顔を出し、ベベ達に旗を振って合図する。
 が、ユカの判断は時期尚早だった。あばれうしどりの群がユカの赤い旗を見て引き返して来たのだ。地鳴りが再び近付き、ユカは繁みに飛び込んだが、ベベ達は通りのど真ん中であばれうしどり達を真っ正面に迎える羽目になった。
「あーっ! 逃げてっ!」
「わ、拙い。ベベ、ターンレフト! ターンレフト! ガード、ミー!」
「フンガフンガ」
 ベベは辺りを鷹揚に見回すと、尻を掻きながら回れ右をして体を逃がした。お陰でベベ自身はあばれうしどりの蹄の洗礼を逃れたが、ベベに庇って貰えなかったベベの主人は、哀れあばれうしどりの群れに巻き込まれて跳ね上げられ、十数メートルも引きずられた挙げ句、散々踏み付けにされて襤褸雑巾と見紛う姿に変わり果てた。主人はぶつぶつ文句を言ったが、ベベの悪態の方は生憎彼の耳には届かなかった。
「ターンレフトって何だよ! だいたい、お前なんか庇わねえっての!」

 そんな失敗はあったものの、あばれうしどりの群は巧く誘導されて何とかプリオの魔物牧場へと雪崩れ込んだ。あばれうしどり達は或る者はラリホーの呪文で眠らされ、或る者は空腹と疲労とで暴走を止め、やがて皆大人しくなった。
「これで王様に顔が立ちますだ。皆様方には感謝の気持ちでいっぱいですだ」プリオは皆に頭を下げて、どれでも一匹ずつ、好きなあばれうしどりを差し上げます、と言った。ただ、プリオによるとこのあばれうしどりは野生種なので、飼い慣らされて食肉用にされる魔物と違って、慣らして大会に出すには余り向いていないとの事である。
「あばれうしどりって旨いのか」
「そりゃあ美味しゅうございますだよ。牛に似てますが、牛ほど癖がなくて脂身も少のうございますだ。野生種は肉が引き締まって固うございますだが、こちらの方が野趣があって美味しいとおっしゃる方もおりますだ」
 ユカはそんな遣り取りを余所に、ユカ専用の魔物となったあばれうしどりのお尻に焼き印を入れて貰っていた。これで、このあばれうしどりは腹ぺこマスターのお鍋の中身にはならないで済む。ユカはあばれうしどりの背中にブラシを当て乍ら、名前を何にしようか考える。
「ユカさんならあばれうしどりを乗りこなせそうだなあ。ねえ、背中に乗ってみて下さいよ」テトがあばれうしどりのお尻を叩くと、あばれうしどりは尻尾を跳ね上げてモウと鳴いた。
「乗れるんですか?」
「星降りの大会の前に、あばれうしどりを乗りこなすロデオ大会があるんですよ。以外と優勝できちゃったりして?」
「ふうん……」ユカはブラシを空の桶に落とした。「乗ってみようかな。面白そうですね」
「手伝ってあげますよ……とと、パンツ、パンツ見えますユカさん」
 テトに手伝われ、ユカは早速あばれうしどりの背中に乗っかったが、跨る方向が前と後ろで逆しまになってしまった。もぞもぞと背上で方向転換を図る間に、ムモモーと鳴き乍らあばれうしどりが後ろ足で立ち上がったので、ユカはお尻の上から転がり落ちてしまう。
「うわちゃぁ……やっちゃったよ……」
「洗わないとダメですね……あたし、ロデオの才能は無いみたいです」
 ユカの真っ白なワンピースは生まれたてほかほかのうしのふんにまみれて、何とも言えない豊穣の香りを漂わせていた。

 何とかあばれうしどりを全部捕まえ、泥まみれになった一同は牧場の汲み井戸で身体を洗った。涼しくなったとはいえまだ日差しは充分に強かったので、中には乾くのを見越して上着を全部洗濯する男達もいた。ベベの主人は全身泥まみれになりながら、ソープでウォッシュ、などと言ってはベベに復唱を強い、あしらわれて憤慨していた。
 うしのふんまみれの体を洗い、プリオから貰ったタオルで髪を拭いていると、リカルドの孫達が走って来る。
「ユカねえちゃ〜ん!」
「どうしたの? 珍しいね、こんな所に」
 リカルドの孫達は息を弾ませ乍ら牧場を駆けて来た。二人は早速泥で汚れた足を桶に入れて巫山戯合っていたが、桶の水が泥で濁ると直ぐ、巫山戯るのを止めて言った。
「ねえ、ユカ姉ちゃん、リカルドじいちゃんどこ行ったか知らね?」
「ううん」
「じいちゃん、用事があるから暫く帰らないって書き置き残して、どっかに行っちまったんだよ。ばあちゃん怒っちゃって怒っちゃって、直ぐにでも探して来いって言うんだけど……ユカが見てなきゃタイジュここにはいないよな」
「だね、兄ちゃん」
 二人は頷き合った。
「あたしも明後日には大会を控えてるから、一緒に探してあげられなくてごめんね。見掛けたら、連絡する。だから二人とも一旦帰ったら? もう日が落ちるのも早いし、そろそろ戻らないとおかあさんが心配するよ」
「うん。そうする。じいちゃん見付かったら教えてね」
「バハハーイ」
 リカルドの孫達は、ユカに手を降りながら去っていった。ユカは二人の後ろ姿を見ながら、以前見掛けたリカルドの嫌にコソコソしている姿を思い出していた。

 結局リカルドは、当日になるまでどこにも現われなかった。
 天界からの連絡も特に無く、ユカはてっきりリカルドが見付かったものと思っていた。ので、試合当日、IMC本部前に白髪交じりのリカントが落ち着かない様子で彷徨いているのを見掛けた時、ユカは自分が間違えてアレフガルドに来てしまったのかと思った位だ。アレフガルドの固有種であるが故、リカントはなかなか他の世界では見られない希少種なのである。
「あの……もしもし? あ、リカルド! リカルドさんでしょ!」
 リカントは頬被りをして行き交う人波の合間を彷徨っていたが、頬被りをしていようがいまいが、独特のがに股歩きと言い、白髪の交じり具合と言い、リカントはどこから見ても馴染みの老リカントに間違い無い。しかしリカルドと思しきリカントはユカを一顧だにせず、ユカが計量チェックでその場を離れられないでいる間にさっさと何処かに行ってしまった。
 リカルドの姿を探そうと爪先立ちで辺りを見回していると、今度は別の人影が人波を掻き掻き近付いてくる。義父と同じ蒼い肌に、赤い耳。青の帽子とお揃いの長衣には見覚えがある。
「ユークァル、久し振りだな」
「アーロン……さん?」
 竜人の幻術師は珍しい連れ合いを従えていた。死霊の騎士とおおさそりは、アーロンに促されてユカに一礼する。
「魔物使いに転向したんですか?」
 アーロンは軽く肩を竦める。「いいや、連れてくるように頼まれただけだ。誰かに命令したりされたりは性に合わないんでね。ところで、北門はどっちだ? 迷ってしまったらしい」
 ユカが北門の方角を指差すと、アーロンは一礼し、魔物達を連れて立ち去った。此処暫く、珍しい人に遇うものだなあと、ユカは不思議に思っていた。

 計量を終え、控え室で出番を待っていると、竜王が愛息を連れてひょっこり姿を現わした。
「忙しいんじゃないんですか?」
「忙しいさ。おまけに息子の守までさせられておるわ。今日もちょいとばかり抜け出て来たが、直ぐ戻らねばあれが煩い。なぁ?」竜王は我が子に同意を求めると、勧められもしないのに椅子を引いてユカの前にどっかと腰掛け身を乗り出した。「リカルドを知らぬか」
「その事だったんですね。いいえ、知りません。……と、言いたいんですが……」
「ん、どうした」
「実は、それらしき後ろ姿を見たんです。だけど確かめられない内にどこかに消えちゃったんです……」
 竜王は背もたれに体を預けて、唸った。「あ奴、書き置きを残して姿を消してしまった。此処二三日ずっと探しているのだが……此処の所、時々姿を眩ます故、細君がぷりぷりしておってな。ハーゴンといい、あれといい、煩いのが増えて敵わぬ」
「何だか、変ですねぇ。思い当たるところはありませんか?」
「今までも、特に最初の頃はルアクの様子が気になるとリムルダールに戻る事はあったが、いきなり居なくなる事は一度も無かった。それに、今はアーロンにリムルダール預言所での世話を任せてあるから、天空城の仕事に専念出来る様にはなっている筈。……ここだけの話だが」
「なぁに?」
「フリーダは、リカルドの浮気を疑ってるらしい」
 二人は目を合わせ、噴き出した。
「なあ。幾ら何でも有り得んだろう! 其れは女房の色目というものだ、白髪交じりの年寄りリカントに入れ上げる若い娘などいやしない、と何度言い聞かせてもフリーダの奴は聞かんのだ。面白いだろ」
「色目かどうかは解りませんけど、リカルドさんが浮気だなんて」ユカは旧知の姿を思い出して、言った。「あの慌てぶりは、そんなんじゃ絶対ありません。でも、何か隠し事をしてるのは間違いないです。……そろそろ、試合です。席に戻っては? リカルドさん、案外客席にいるかもしれません」

 敵を知らずして闘うというのは、百戦錬磨の戦士と雖も実に遣り難い。どう相手を待ち構えていいか解らず、赤コーナーでユークァルは魔物達を宥め励ましつつ、未知の対戦相手が姿を現わす瞬間を見逃すまいと待ち構えていた。この時会場で、ユカより強く挑戦者の登場を待ち望んでいた者は誰一人いなかった。
 青コーナー控え室の扉が開いた。
「青コーナーの挑戦者、ルアク選手の登場です!」
 アナウンスはユークァルの耳を擦り抜けていた。音より早く眼が、紫紺の法衣を、蒼い肌、隆起する二本の角を捕らえていた。
 セコンドに控えていたアーロンが、小さく手を振ったのにもユカは気付かなかった。
 だが、更にユークァルを驚かせたのは、腕まくりに襷掛けのリカルドが、死霊の騎士やおおさそりと共にルアクの脇に控えている事だった。リカルドは申し訳なさそうに耳を伏せたが、直ぐに耳を立てて、拳を握り締めた。
「このリカルド、坊ちゃんの為ならユカ嬢ちゃんにも容赦は致しません! 覚悟召されよ! いざ、いざいざ!」

 その頃、天覧席では世界の支配者が、己が子を膝に乗せてその小さな掌をつつく遊びに興じていた。人差し指で柔らかい掌をつつくと、ロトがその指を掴もうとする。時々、態と指を握らせてやると、ロトは目を輝かせて喜んだ。
「おとたまのては、かたくておっきい」
 そうだろう、とだけ父は言って、人差し指に捕まる我が子の指を振り解いた。
「いやはや。ロト殿は実に御仁にそっくりじゃのう。ばぶばぶばー」
「キャッキャッ! おおたま、おもちろい」
「よせやい、お前みたいな面白顔を…………っておい! な、何故リカルドがあんな所に!」
 と、世界の支配者に問われたところで訳を知る筈も無く、襟首を掴まれながら王は肩を竦めた。「あの年寄り魔物はそなたの知り合いか? そういえば、あの魔物使いはそなたにそっくりじゃのう。親戚同士か何かなのか?」
「親戚も何も」竜王は胸座を掴む手を放さぬ侭、顎で舞台を指した。「ありゃ、うちの曾孫だ。ちょいと前まで地上で学問に勤しんでいた筈なのだが……一体全体、なんで魔物使いなんぞに」
「星降りの夜で、叶えたい願いでもあるのではないかのう。……そ、そろそろ、苦しい故、放してくれんかの……」
 竜王が急に手を放したので、タイジュ王は椅子に倒れ込んだ勢いでそのまま後ろにひっくり返った。
「おとーたん、どしたの?」
「い、いや……」世界の支配者は己が子に袖を引かれ、椅子に腰掛け直した。「願い、か……」

 ユカは思案していた。リカルドが相手ではどうにも本気を出せそうに無い。
 リカルドが冷たく横たわる姿を、土に埋められる姿をユカは忘れていなかった。それに、リカルドが無理をして、腰でも傷めた日には天空城の管理が立ち行かなくなってしまうし、何より、リカルドの細君や子供孫達もきっと悲しむ。
 態と負ける訳には行かないのだけれど。
 もしも、ユカの動揺を狙ってのリカルドの起用だとしたら。
 敢えて姑息な手段を採ってまで、ルアクは何を欲したのか。
 望むなら、余程の無茶な願いで無ければ十二分に叶えられる立場にあった。が、其れを敢えてせずにこの場に臨んだ理由は?
 自尊心の高さ故にか?
 未だ心を許し合えぬが故にか?
 其れとも……?
「貴男の、願いは何ですか」
「余の願いは……」ルアクは言い淀んだ。
「チビスケ、申してみよ」
 特別席からの声に、ルアクは顔を上げ、決然と言い放った。
「余の願いは、我が父上、母上を甦らせる事じゃ」
 竜王は何と、と呟いた侭、ぐうの音も出なかった。

 ショックだった。
 ルアクはユークァル達一行と別れて後も、ずっと、ずっと胸の内で孤独を温めて来たのだ。
 偽りの慰みも、世話をしてくれる家族同然の僕も失い、独り、学問に打ち込む事で孤独を忘れようとし、却って独りぼっちである事を思い知らされたのに違いない。幼い頃に両親を失い、呪われし一族の血の最後の継承者として不名誉な名を背負うを強いられて来たが故に、困難に打ち勝ち、否、耐える為に、心を閉ざして来た。放って置かれて、心を開ける数少ない味方も今は遠い。失われた過去の温もりで己が孤独を慰めるのも、致し方無く思われた。
「星降りの夜の大会に優勝した者は願いを叶えられると聞く。そなたはもう、叶えるべき願いなど何一つ無い筈」
 ユークァルは目を瞠った。そして、ルアクの眼をもう一度、見つめた
 羨望の眼差し。サンチやテト達から向けられた、憧れの混じった其れとは全く別物の、暗い、光。
 ユークァルにとって、星降りの夜の大会は、嘗ても、今も、何物でも無かった。嘗ては食費を稼ぐ為のお飾り、今は、退屈の手慰み。タイジュ王に望まれなければ、きっと今も父の下で学問と、仕事の手伝いに勤しんでいたろう。
 願いの強さに、ユカは戦いていた。
 過去は兎も角、今、自分は、世界で一番幸せなんだ。
 自分の願い、なんてこれ以上望むべくも、無い。
 願い。
 ユークァルは考えた。考え抜いて、一つの望みを、見付けた。
「なら」ユークァルも又、ルアクを見返す。「あたしも、負けられません。あたしにも、願いがあります」
 両者の睨み合いに、歓声が湧き起こる。どよめきが会場の大気を揺らす。
 赤い旗が振られて、試合の始まりを告げた。

 リカルドはいの一番に飛び出して、爪を剥き出しに人食い草に襲い掛かった。が、何を思ったか襲い掛かる手前で正確に90度右回転し、地を蹴ってキングスライムに飛び付く。リカルドの爪はキングスライムのゲル質を引き裂いたものの、弾力に押し負けて簡単に弾き返された。
「あー……爺さん、やはり年だからな……」セコンドでアーロンが溜息を付いた。
 ルアクの袖が振られると、おおさそりが毒針を振り上げ、死霊の騎士が続いてキングスライムに襲い掛かる。
 ユークァルはこの期に及んで、未だ戦略を決めかねていた。人食い草がおおさそりの毒針と打々発止を繰り広げ、悪魔の鏡が死霊の騎士にザキを浴びせる様子を、他人事の様に見つめていた。
 リカルドが起き上がって、必死にキングスライムに組み付いている。
 リカルドはルアクの為に、老体をおして闘っている。
 ユークァルの指がすっと伸びて、リカルドを指した。
 ルアクは目を瞠った。
 ペーターは、リカルドのお尻に噛み付いた。リカルドはひゃあ、と悲鳴を上げて、オーケンから転がり落ちた。
 オーケンがリカルドの上に飛び乗る。リカルドは必死に藻掻いてオーケンの下から這い出したが、リカルドの真正面には悪魔の鏡が立ちふさがった。
「そうは、いかんザキ!」
 リカルドは瞳孔を開いたまま、床に倒れ込んだ。
「り、リカルド……」ルアクは狼狽えて、杖を取り落とした。「有り得ぬ、何という、そんな、馬鹿な……」
「ルアク、ユカを侮ったな」竜王はリカルドの姿を見せぬよう我が子を抱え込みながら呟いた。「……あれの本性を知らぬ故、詮無いか」

 試合を終え、リカルドをオーケンのザオラルで生き返らせていると、ルアクが傍らに立っていた。リカルドが瞼を擡げると、ルアクは突然、ユークァルやオーケンを押し退けて、リカルドに飛び付いた。「済まぬ、余の所為で、余の所為で……」
 リカルドは蘇生を果たしたばかりの朦朧とした頭を擡げ、半身を起こして、ルアクの頭を撫ぜた。
「ぼっちゃま、勝負は勝負、致し方ない事で御座います。よう頑張り遊ばしました。ささ、男子たるもの、人前で泣いてはなりませぬぞ。笑われますよ」
 其れでも、ルアクはなかなか泣き止まなかった。嗚咽の激しさを鑑みるに、余程悔しかったのであろう。アーロンや死霊の騎士が宥め賺し、ルアクは漸くリカルドのチョッキを掴む手を離した。
「父上は、母上は、戻らぬのか……」
 真っ赤に目を泣き腫らしたルアクの前に、白いハンカチを差し出す手があった。
「……要らぬ」
 ユークァルはルアクの手に、ハンカチを押し付けた。「意地っ張り。使いなさい」
 ルアクはハンカチを引ったくって、目を拭いて鼻を噛んだ。決まり悪くなったのか、ルアクは「洗って返す」と小さく呟いて懐にハンカチを仕舞った。
「リーカールードーッ!」
 ぐへっ、とリカルドの、ポイズントードを踏み潰した様な声が飛び出した。竜王に後ろから首を極められ、リカルドは必死に膝をタップする。
「ぐ、ぐるしいでございます旦那様ぁ……」
「突然行方不明になって皆を騒がせおって!」竜王は強く首を締め上げると、あっさり極めた手を放した。解放されたリカルドが前屈みにぜいぜい言っている所に、今度は尻への一撃をくれてやる。「どんなに心配した事か! しかも、ユークァルが星降りの夜の大会に出るのを知っていながら邪魔だてするとは、全く呆れた忠義者だな!」
「だ、旦那様、これには訳があるのでございます」リカルドは尻をさすり乍ら立ち上がった。「ルアク様は御両親を亡くされてよりずっとお一人で、私共が世話をして暮らしておったのでございます。だのに、魔物狩りで一族郎党皆殺しの憂き目に遭いまして、それからというものぼっちゃんはずっと独りぼっちだったのでございます。旦那様が生き返らせて下さったお陰で、私はこうして今無事にいられるのでございますが、天空城の管理を任されてより、おぼっちゃまのお世話が出来ぬ事が不肖このリカルド、ずっと心残りで御座いました」
「ふぅむ……」竜王は唸った。
「リムルダールの預言所でも、ぼっちゃまは後見人のアーロン様の他にはお友達らしいお友達を作らず、独り学問に打ち込んでおられました。とはいえアーロン様とは年が離れておりますし、アーロン様とて二六時中付きっきりという訳にも参りますまい。或る日、私が偶さか、リムルダールの預言所を訪れた際に星降りの夜の大会のお話を致しまして、それで……私はお止めしたので御座います。亡くなった父君、母君を生き返らせるなど、余りに無茶で御座います。私共の場合は偶さかの偶さか故に何とかなったので御座いまして、父君母君とも、ぼっちゃまが幼い頃に亡くなられております故……」
「そうか」竜王はリカルドの手を取った。「苦労を掛けておったのだな…………だが、この度の事、許される事では無いぞ。解っておろうな?」
「は、はい……あの、旦那様……?」
「ユークァル」
「はい」
「いいか、お前もリカルドの左手を取れ。そして、今からやる事をそっくり真似するんだ」
 言うや、竜王はリカルドの手首を返して、徐ろに肉球をつつき始めた。
「ワヒャヒャヒャ! ひゃ、や。ヒャーハハハハ、やめ、やめて下され!!!!! ヒャハハハハ、死ぬ、死にます!」
「今度黙って同じ事をやってみろ、手足を縛って皆で同時に肉球を擽って遣るからな! 覚悟するが良い!」
 肉球くすぐりの刑は、それからぴったり5分間続いた。ルアクは呆れて、曾祖父の愚行を遠巻きに眺めていた。

 夕刻、プリオの牧場の土手で竜王とリカルドは赤金色の空を眺めていた。空は黄金の雲のヴェイルを纏い、世界を自らの色に染め上げている。
「……なあ、リカルド」
「何ですか、旦那様。……あの、尻尾、放して下さいまし」リカルドは尻尾の先を指で弄くられ、擽ったさ故に先程からやたらもじもじと座り方を変えている。尻尾を触られるのは嫌でしょうがないのだが、相手が相手だけに、リカルドは己が尻尾を相手の為すが侭にさせていた。
「お前、何処にも行くなよ。寂しいでは無いか」
 尻尾の先が鼻先に押し付けられ、リカルドはくしゃみをした。
「そう思うならおやめ下さいまし。……では、リカルドの方からもお願いが御座います」
「何だ、申してみよ」
「もうちょっと、ぼっちゃまの事を気に掛けてやって下さいまし」
 竜王は話の間中ずっと、白髪交じりの尻尾を撫ぜていた。なかなか返事をしないので話を聞いて居ないのでは無いかとリカルドが訝っていると、ふと、手の動きが止まる。
「そうだな。そっけないから、嫌われているかと思うてな。会いに行けば嫌な顔をされるし……」
 恥ずかしいんですよ、とリカルドは微笑んだ。「ぼっちゃんは甘えるのに慣れておりませんから」
 解った、と、竜王は漸く尻尾を放した。リカルドの尻尾は二三度大きくくねって、繁みの中に紛れ込んだ。
「兎に角、何処にも行くなよ。お前の妻の料理は世界一なんだからな」
「いえいえ、滅相もない! あんな物は貧しい庶民の口にするもの。旦那様に相応しい、もっと素晴らしい御馳走はこの世に幾らでも御座います」
「……そなたは、知らぬのだったな」
 竜王は膝を抱え込んで座り直した。風も日の落ちる早さも、秋らしくなりつつある。
「例えお前が貧しくとも、泥水を啜ったりはすまい。食べさしの虫が湧いた肉を喰らったりはすまい。木の皮を剥いで囓ったりはすまい。晩餐の杯に毒が盛られていた事は? お前が喰わせてくれたのは、生まれて初めての温かい、安全な……持て成しの気持ちに溢れた料理だった」
 リカルドは面映ゆげに鼻頭を掻いた。沈み行く地平線の合間を、強風が吹き抜けて行った。
 竜王は出し抜けに立ち上がった。「腹減った。メシ喰ってくるわ」
「行ってらっしゃいまし旦那様。私は、そろそろ戻る事と致しましょう。……ああ、フリーダの雷が怖い……」
 リカルドの戯けた呟きは主人にも聞こえていたらしく、風に乗っての呵々大笑がリカルドの耳を擽った。

 二人が去った後、入れ替わりに現われたルアクは独り、山桃の樹の下で日没が描く血の色にも似た輪郭線を見つめていた。紫紺の長衣は風に煽られ、闇に溶け込みつつある。
 不意に、肩を叩かれてルアクは飛び上がった。
「お父さんと、お母さんの事ですか?」
「か、関係ないっ」
 ルアクはユークァルの手を振り払ったが、袖に引っかかりを感じて強く引く。
「おにーたん!」
「む……」幼子相手に意地を張るほど大人気無いと思われたく無かったのか、ルアクはしぶしぶ二人に向き直った。ユカは土手に腰を落ち着けると、ルアクとロトにも腰掛ける様にと手招きした。二人は座り込んだ。
「別に、話す事など何も無いが」ルアクは片膝で腰掛け、二人の方を見ない侭に呟いた。
「あたしも、お父さんとお母さん、居ないんです」
「おねーたんも?」
「うん」ユークァルはロトの頭を撫ぜた。「お父さんも、お母さんも、お兄ちゃんも、大切な人を次々亡くしました。……もう、帰っては来ません」
「おねーたん、かわいそう……」
「ううん、かわいそうじゃないよ。だって、あたしは今、とっても幸せだから。新しいお父さんも出来たし、みんなあたしを大切に想ってくれるから。今は、独りじゃないから」
「……そなたは、良いな。恵まれて」ルアクは小さく呟いた。
「おにーたん、ひとりぼっち?」
「……別に……」
 ユークァルは立ち上がった。
「もう一度言います。意地っ張り。ほんとは寂しい癖に。甘えたい癖に」ユークァルは語気を強めた。「本当は、守らなきゃいけない物なんて何も無い筈です。貴男をおびやかす者なんて、魔物狩りも呪われた血筋の意味も無くなった今、どこにも居ない筈。自分が不幸で、孤独だなんて唯の僻みです。リカルドだっているじゃない。アーロンだって一緒に来てくれたでしょ? 貴男のお父さんは、貴男に同じ苦労をさせたくなくて、日の当たる道を堂々と歩けるようにと頑張ったのでしょう? 今の貴男を見たら、お父さんに叱られると思います」
「おもうです」
「ロトはいいの」窘められて、ロトは再び座り込んだ。
「……父上が……か」ルアクは牧草を弄ぶ手許を見つめていた。「嘆かれるであろうな……だが、余はどうしたら良い?」
 三人は黙りこくった。夜が、沈黙と共に空を支配した。
「一番星だわ!」
 ユカが空を指差した。三人は天蓋を仰ぎ見た。
 空には、日が沈む前には見られなかった満天の星が静かに、強く弱く瞬いて三人を見守っていた。
「今まで、見えておらなんだだけやもしれぬの」
「そうよ。そうだわ」ユークァルはルアクの手を取った。「あたしがいる」
「おにーたま」もう片方の手を、ロトが取っていた。「ユカねーたまはおねーたまだから、ルアクにーたまが、おにーたまになって」
「兄弟、か」ルアクは二人を交互に見遣った。「面映ゆいな」
「わーい! おにーたまができた! おにーたま、おにーたま」
「あの、いつも通りで、いいんです。いつも通りで」ユークァルは慌てて手を振り解いた。「……でも、兄弟みたいな気持ちで、助け合って行けたらいいですね」
 ルアクが死んだ兄の代わりにはなるまい。ユークァルとて、ルアクが失った父や母の代わりにはなれぬ。
 が、それでいい。
 人は、掛け替えの無い存在だから。
 だから、ルアクには自分自身で居て欲しい。ユークァルも、そうするつもりだった。
「では、義兄弟の杯を交わさねばならぬな。だが、生憎ここには杯が無い」
「にーたま、杯なら、あそこにあゆよ」
 ロトが指差した先には、聖杯の形を模した星座が燦然と輝いていた。



 夜も更け、星々がその彩りを変え行く中、独り酒瓶を片手に歩く人影。頭部から伸びる拗くれた角を勘定に入れずとも、六尺四寸は優に越える威丈夫は、時々手酌で喉に燃える液体を流し込んでいる。
 昔ならば決してこんな無防備な姿を晒しはしなかった。が、今はもう、己が存在をおびやかされる怖れは、無いに等しい。否、無くは無いが、すっかり影を潜め、闇の中の闇にさえ、身を置いてはおけぬらしかった。闇に馴染む滅紫が、時折風に煽られて、はためく。
 闇がかほどに穏やかに己を包み得ると、一体全体、何時想像し得たであろう?
 名実共に光と闇との王として君臨し、一年が経とうとしている。
 面倒は数あれど、悪くないな、と思う。
 星一つだに無き全き闇を見上げ、己の不遇を秘かに嘆いていた頃。
 眩い光の下、ありもせぬ己の居場所を探して日陰に身を潜めていた頃。
 飢えも、憎悪も、今は遠い。
 酔える喜びを噛み締めつつ、世界の支配者は杯を煽った。酒の味など解らぬ。が、体中の血が奔り、頬が逆上せる感覚は、今の己には好ましく思われる。
 酒で満たされた杯が、強風に煽られて指の隙間から転がり落ちた。
「……なっ……!」
 其処には、嘗ての闇が具現化されていた。己が捨てて来た、過去の痛みが。そして、慰みが。
 女は闇の中、微笑んだ様に見えた。竜王は杯を拾い上げるのも忘れて、樹下に佇む女の影を食い入る様に見つめた。が、女の影は直ぐ木の輪郭に重なって溶けてしまう。竜王は杯を拾い直し慌てて駆け寄ったが、人影の余韻は何処にも残っていなかった。

DQi目次へバシルーラ!