DQi外伝 〜an alien


 宴席という奴がこんな物ばかりならば、私は生涯こんな物を好きにはならぬだろう。
 丸く刳り抜かれた黒い花崗岩の部屋、其の真ん中に設えられた円形の舞台には、如何にも物々しげな舞台装置。今宵の肴は鉄錆の臭いだ。装置には、奴らが『人間』と呼ぶちっぽけな生き物が縛り付けられており、拷問を生業とする連中がその生き物を痛め付けている。今夜の賓客はどれも高位の魔物、魔王と呼ばれるに相応しい者達だとゾーマの奴がほざいていたから、流石にやんややんやと喝采するような下卑た真似はしでかさない。が、私からすればどちらも大して代わりはない。虫螻の手足を毟って何が面白いのやら、さっぱり解らぬ。奴らの獲物に投げる眼差しと来たら、涎を垂らさんばかりだ。みだりがわしい事この上ない。
 こんな退屈極まりない場所で、出来る事と言えば杯を煽る位だ。こんな温い空気が、たまらなく厭わしかった。
 どうせ必要とはされていないのだから、出ていけるのならば出て行きたかった。が、出てしまった以上は引っ込む訳にもいかぬ。
 この下らぬ宴の建前上の主賓は、何を隠そうこの私だったのだから。

 何故なのか、根本の理由は今でも解らぬ。
 ゾーマの奴、常日頃は自分に従えと執拗に迫って来たというのに、ある日突然、私を後継者に指名する、その為に披露目をせねばならぬ等と言いおった。気紛れかと思いきや、本気と知れたのは、相も変わらず否を叩き付けた時の反応――例によって嬲り者にされ転がされた処へ、わざわざ披露目用に準備させた晴れ着を運ばせて来たからだった。いつの間に設えさせていたかは知れぬが、気が触れたとしか思えぬ。――闇の王の後継者に純白の衣を着せるとは!
 御披露目になど出るつもりはなかった。何故光の御子たる己が闇の王とならねばならぬ? 大体、誰がそんな馬鹿げた行為を認めよう。
 果たして、私は早速、主の気紛れを知った魔物達の恨みを買う羽目になった。主の退出を見計らって現われた魔物達は、未だ闇の影響から逃れられずに横たわる我が身に暴虐の限りを尽くし――流石の連中も、私を殺す勇気はなかったと見える――そして、壁に掛けられた恩寵の証を踏み躙り、縷々と裂いた。汚泥にまみれ、血に汚れた衣は、最早元の名残を、穢れ無き白さを留めてはいなかった。
 足を折られて動けぬ私を見下ろし、奴らは言った。
 これで披露目の席には出られまい、殺されぬだけ良かったと思え、と。
 奴らが去った後、私は引き裂かれた衣を引き寄せた。顔を寄せ、唇を拭った。柔らかかった。さぞかし、上等な代物の筈だった。
 微かな、薫香があった。懐かしい、薫りがした。

 御影石の床は、血に濡れた腕には取っ付きにくい代物だった。
 ほぼ、腕と腿の力だけを頼りに、這い蹲って、進む。時々、息が切れる。躯が重い。目が眩む。
 だが、頭など使わずとも躯は動く筈だ。
 謁見の間がこんなに遠いとは、嘗ては想いも依らなかった。
 這った後の廊下は、蛞蝓の跡の様にぬらぬらと、しかし赤く濡れ光っていた。

 謁見の間には百を下らぬ数の魔物が犇めいて、暗黒の王の後継者を待ち構えて苛立っていた。
 始まりの時刻は大幅に過ぎていたが、肝腎の後継者が一向に現われる様子を見せない。さりとて、暗黒の王を前に、面子を潰す様な真似は出来ぬ。唯、漣の様に時折、其処彼処がざわめき揺れるばかり。
 そんな中、未だ来たらず、今も無く、来る筈も無い新たな主を思うて忍び嗤う者達が居た。彼らは周りのさざめきを余所に、さて、何時散会になるかと主の顔色を伺っていた。明らかに、ゾーマは苛立っていた。
(これで奴も終わりだな……ゾーマ様も、面子を潰されて黙ってはおるまいて)
(流石はバラモス様、賢明な御判断と存じます)
 世辞は良い、といらえながらも、弛んだ皮膚は僅かに吊り上がった。
(光の御子を魔物の王に据えるなど、正気の沙汰ではありませんからな。今頃ゾーマ様も、己の気紛れを、さぞかし悔いておりましょう)
(引きずってでも連れて参れ、とお命じに成られたら、どうなさいましょう?)
(その時はその時よ)
 遠くで三度、扉を打ち鳴らす音がした。しかし、あまりにも訴えはか細く弱く、誰の耳にも届かなかった。
 遠くで三度、扉を打ち鳴らす音がした。しかし、直ぐさざめきに掻き消され、バラモスの耳には届かなかった。
 遠くで三度、扉を打ち鳴らす音がした。もはや、誰もが扉の訴えに耳を傾けずにはいられなかった。
「扉を、開けよ」
 厳かに闇の王が命ずるが侭に、近衛兵が両開きの巨大な門を押し開けた。
 扉の奥には、四肢を折られ、翼を裂かれた闇の継嗣となるべき者の、息も絶え絶えに這い蹲る姿があった。

 ゾーマは手を貸してやれ、と顎で近衛兵等に命じたが、私は奴らに指一本触れさせようとはしなかった。兵等は手出しを 躊躇 ためら い、ゾーマも又、勝手にせい、と捨て置いて、玉座に再び腰掛けた。
 玉座までの間には分厚い絨毯が引かれていた。砂埃と黴臭さが鼻を擽ったが、これしきどうとも感じはしなかった。絡み付く眼差しの淫らさも、今や秘やかさを失った天魔波旬の濤声も、己には、遠い。
 今は唯、己が座すべき場への距離を、詰めるのみ。
「良くもまあ、身の程を弁えぬ奴よなぁ?」
 辺り憚らぬざわめきに混じった濁声の主は、雷声に混じったとても聞き逃しようが無かった。
 首を巡らせれば、果たしてその醜い、吹き出物まみれの、毛を毟った七面鳥じみた面が周りから頭一つ突き出ているのが見える。奴はゾーマの子飼の手先、しかも最も信厚く功在る魔物であったから、玉座に最も近しい位置に涼しげな顔で座を占めている。
 己の占める座を奪われるとでも思うたか。
 貴様の脂染みにまみれた座など要らぬ。―――だが、己が座、例え望まぬ物とて、貴様にくれて遣る位なら叩き壊してくれよう。
 暫しその場に留まっていると、人並みを掻き分けて巨体が近付いた。
「随分なお召し物ですなぁ? ……いやいや、其の襤褸、実によう似合っておるわ。おお厭らしい。臭うわ、臭うわ。そなたの様な痴れ者が、どんな手管を用いて 御座 みくら の傍らを占めたものやら」
 周りが笑いで弾けた。私は奴らに構わず、前に進む。
 だが、前に進まない。躯が、後ろに引かれる。
「その御手、おみ足では、なかなか前に進みませぬなあ。お手をお貸し致しましょうかな?」
 バラモスは、衣の裾を踏み付けていた。
 バラモスの顔に、血の混じった唾がへばりついた。
「その汚らわしい足をどけろ。油染みが付く」
 バラモスの顔が見る間に怒りに歪んだ。が、此処は御前、バラモスは悔しげに何やら言い捨てると、再び魔物達の列中に収まった。段を、這い蹲って、上がる。膝が痛む。後3段という処で、力尽きて段をずり落ちる。
 二の腕をつかむ、力があった。
「愚か者が……」
 私は其の侭掴み上げられ、姫抱きに抱き抱えられた。
 躯の大半の血を失い、瘴気に当てられて朦朧とする中、確かに、私は奴の、私を己の後継と為すと宣言したのを聞いた。

 魔物達はしかし、表向き敬意を表しつつ誰一人として主の気紛れを認めていなかった。下らぬ宣言は、更に敵を作る結果しかもたらさなかった。一体、あんな物に何の意味があったのやら。
 鼻腔を、朱の臭いが擽った。己と同じ、鉄錆の臭い。
 『人間』は己と同じ光の生き物なのだと聞く。魔物達は『人間』を蔑み、憎む。理由は解らぬが、兎に角そうらしい。
 だから、私も魔界では疎まれる存在なのだ。
 なのに、何故私を継嗣と決めたのか。
 ゾーマは言った。己が子が闇の尖兵として己に刃向うて来たら、天の王はさぞかし心を痛めるであろうと。
 痛めるものか。
 己が子が己に手向かうを悲しむならば、何故今己は此処にいる? そんな自明の理も解らぬとは、恐怖王も耄碌したものだ。
 そも、奴が言っていた人質とやらにさえ、なってはおらぬというに。
 頭を捻るのは止めにした。道理が合わぬには たが い無けれど、性に合わぬ。
 燃える様な火酒を啜り、口中にゆるり転がす。味わう旨みは無い。ただ、昔からの癖だ。
 舌が、酷くひりつく。
 唾を吐き捨てると、黒ずんだ血が混じっていた。

 私が立ち上がったので、魔物達の面に怪訝な色が射した。眼だけが場を一巡して、舞台の中央に座った。見つめられて魔物は、責め苦を加える手を暫し、止めた。
「そう、そなただ。手を休め、我が下へ来るが良い」
 魔物は暫し逡巡したが、私が顎をしゃくり上げると周りの色を伺いつつ、舞台を降りた。火酒を満面に注ぎ、杯を掲げる。舞い上がる火の粉が時折、水面に浮いては消えて行く。魔物は身を硬くして、此方の出方を伺っていた。ちらと再び、眼が黒々とした花崗岩の中を巡る。
「汝、暗黒の僕よ。汝の業こそは、此の愚かしくも退屈極まりない宴の興に、此処にいる誰より相応しい。汝の空しき業に杯を授けよう。さあ、我が手より受け取るが良い。……どうした、大魔王ゾーマの面前で、宴の主たる我に恥を掻かせる気か? それとも、『 人間 こやつ 』らの同類からは杯を受け取れぬか?」
 空気が刹那に乾いた。
 奴は躊躇いがちに周りを見回した。誰しもが黙っていた。杯を取らずとも良いと、誰も命じてはくれなかった。魔物は鞭を置き、汚れた手を拭った上で、恭しく杯を受け取った。中身が、震えて少し零れた。
 魔物は杯を呷った。呷って、杯を己が手に返した。
「……恐悦至極に存じます」
 奴は震えていた。出さぬよう堪えてはいたが、恭しい一礼の後に松明が照らした面には、あからさまな蒼白が汗と共に滲んでいた。震える手が、再び鞭を取る。
 魔物は再び檀上に上がろうとして、鞭を取り落とした。蹲って躯を丸め、頻りに痙攣させる。口角を泡で汚し、身悶えし、拷問を受けた人間達の上げるどんな苦鳴よりもおぞましい咆吼を続けざまに放った。
 魔物は、やがて動かなくなって段を崩れ落ちた。
 骸となったのを見届け、私は杯を床に叩き付けた。軽く、乾いた金属音が響いた。段をひょいと飛び越えて降り立った舞台は、足裏に冷ややかな石の感触を伝える。
 ふと、鳩尾の痛みが喚起された。
 痛みを堪えつつ、装置に拘われた『人間』を、改めて見た。「『人間』」は私を見上げた。形は甚だ精妙、しかし、床に冷たく屍を晒している連中に比べれば、あまりにも華奢に過ぎる。
 これが、同じ光の生き物か。
 似ている、だろうか?
 否。これが、同じ生き物なのだろうか。
 何故この様に『人間』は、弱く作られているのだろうか?
 弱いから、守られていたのだろうか。
 強いから、己は捨てられたのだろうか。否、強くなどあろう筈も無い。己の力など、闇にあっては余りに無力。
 今此処にあっては、どちらも同じ。
 『人間』の おとがい に、指を這わせた。『人間』は何かを訴えようと唇を動かしたが、何も伝わらなかった。私は、柔らな肉に覆われた首筋へと、己の爪を埋めた。蒼い衣が、血を受けて赤く染まった。『人間』は目を瞠り、やがて、力尽きて動かなくなった。
「か弱き者よ…………せめて、楽に、死ね」
 そうして、私は終宴を告げるべく身を翻した。

 空は相変わらず、一面の全き闇。今宵は月さえ身を潜めている。
 生暖かい湿った大気が、総身に纏い付く。少し吐いて、鳩尾をさすりながら城の尖塔に佇んでいた。
 見えぬ空を見つめ乍ら。
 此処だけが城の中で唯一、一時の解放を与えてくれる場所だった。城から出られれば良いのだが、少量とは云え毒を呷った躯では其れも侭ならぬ。
 漫然と意識を散らしていると、不意に風が止んだ。魔物の羽音も、草木の囁きも口を噤んだ。瘴気だけが雄弁に、主の来訪を物語る。
 来た、か。
 肉を叩き付ける鈍い音が、足下に落ちた。物憂げに頭を巡らせれば、宴席の一座を占めていた連中の首級が一つ。
「そなたに毒を盛った馬鹿者共だ。……余に逆らおうとは片腹痛いわ」
「……貴様の存在の方が、余程己には毒だ」
 ぐっと胸に突き上げる吐気に圧されて、又吐いた。立っていられなかった。
「強がるな。……命に別状なくて幸いであったな」
 ゾーマの掌が、せなから熱を奪った。吐気を和らげる代りに、力が抜けて行く。
「力を望むなら、我に従えと言っておるだろうに。力無くしては敵を討つどころか、生き残る事すら叶うまいに」
「今更、何を。だとしても、貴様の手など借りぬ」
 冷気が、風を孕んだショールの様に首筋へとまとわりついた。
 冷気は凝固され、しっかと首に食い込んで解けない。締め付けるというより、重みを感じる、痺れて強張る、といった方が近かろうか。呼気が蟠る。喉をかきむしる。意識が飛ぶ刹那、躯はショールごと後ろに強く引かれて、床に叩き付けられた。荒い息を零していると、ゾーマの足が胸をしかと捉えた。
「振り解く事すら出来ぬ癖に、何をか況や。そなたがどんな力を秘めていようが、今の侭では無力なのだ。この手にある限りはな――」
 ゾーマは腹で血に濡れた靴を拭い、足を引いた。瘴気が、薄らいで行く。酷くえづく。
 漸く呼気の乱れを整えた頃には、ゾーマの姿は消えていた。身を起こそうとするが、未だ躯は己の物では無いと言わんばかりに命令を聞こうとしなかった。
 温い風が、頬を撫ぜた。
 確かに、己は無力だ。
 奴に力を借りないで、奴を倒す手段があるとでもいうのか?
 それでも、どうしても、何度此の問いを反芻しても、己から全てを奪った敵の温情を乞おうとは思えなかった。愚かと嘲笑われようとも。何度敗北の辛酸を舐めようとも。私は、愚かだろうか?
 毒は未だ躯に在る。が、この程度なれば命取りにはならぬ。
 それよりも、注がれた闇の方が遥かに危険だ。今、寝首を掻こうと企てた何者かが己が姿を認めたならば、其れこそ赤子の手を捻るより易く首尾を果たすに違いない。
 風は相も変わらず、絶望的に温い。否、温さこそが絶望の証なのだ。 この世界 アレフガルド では、時が凍り付き、溶ける事もなく闇の中にたゆとうている。
 時を溶かす熱を、しかし己は持たぬ。氷の放つ冷気に、身を震わせているだけが精々。
 『人間』と、似ているやも知れぬな。
 草木のざわめきに、羽音、そして秘やかな嘲笑が混じった。
 何とか身を捩ると、宴席の一角に座を占めていた魔物の一匹が、尖塔の屋根から己を見下ろしていた。
 見ていたのだな、ずっと。
 洩れたのは、しかしか細い、温い大気にも紛れかねない掠れた呟きに過ぎなかった。己の存在の、何と惨めで卑小な事か!
 魔物は小さく、頭を下げた。生暖かい風に混じって、羽毛の一片が、双眸の遥か上をのろのろと通り過ぎていった。
 影が、全身を覆った。魔物は、直ぐ其処に降りてきた。
「……つくづく、愚かな方ですね。そして、幸福な方だ」
 幸福?
「解りませんか、さもありなん」
 誰に聞かれる怖れも無いのに、猛禽類の頭は声を顰めて嗤った。魔物の翼が風を孕む。風切り羽根が頬を掠めたので、思わず固く目を伏せた。
「おやおや。この世の終わりの様な顔をなさいますな。何も取って喰おうなどとは思うておりませんぞ」
 解っていて、嬲り者にしている。下級魔族の愚かな尊大さも腹立たしかったが、上級魔族特有のもったいぶった回りくどさと慇懃無礼さという奴には、耐え難い臭気があった。
 魔物は転がっていた首に気付くと、獣の足で引っ掛けて端に追いやった。
「愚かな連中ですね。……ゾーマ様が何故、あれほどまでに盛大な披露目の舞台を用意したか、何も解っていない」
「……お前に掛かれば、己の他は皆愚かなのだろ」
「御明察」鷹の瞳孔が引き絞られた。「しかし貴男と、バラモスや貴男を暗殺しようとした連中では、愚かさの格が違う。どんな権勢を誇ろうと、彼等の愚鈍は這い蹲る虫の其れだ。貴男は頑愚なお人だ。全てを見通す目を持っていながら、目を塞ぐ――否、其れどころか、自ら目を潰そうとさえなさる。貴男はもっと怜悧になるべきだ。――さすれば、光と闇とを統べる王の中の王となれようものを!」
「何が、言いたい」私は苛立たしげに続きを急いた。鳥頭の三ツ目が、総身を舐る様に蠢いた。
「……成る程、御存じない、か」
 風切り羽根が、今度は故意に頤をなぞった。いっそ、その鉤爪で胸でも掻き毟ってくれた方がどんなにか、心穏やかな事か!
「ゾーマ様配下の殆どの連中は知らぬ事ですが、貴男こそは知っているべきです。―――何故、貴男が、この世の天に最も近き城より闇の世界へと連れ去られたか、そして、闇の王が何故貴男に庇護を及ぼすのかを」
 それは、と言いかけて、止めた。
 その理由を、知らなかった。
「そう、魔王が貴男に常々言い聞かせてきた理由は全て、嘘だったのですよ。薄々感づいていたのでは御座いませんか?」
 私は頷いた。
「世界の主――つまり貴男の父君が、この世界を暗黒の王に委ねた際、権能を引き替えに、或る誓約が課されていたのだそうです――其れがどんなものであったかは私も含め、誰も知る者はありません。しかし、闇の王は権勢を広げ、力を我が者とする内、やがてその誓約を自ら破ったのだそうです」
 何故、こ奴はそんな事を知っているのだろう。
「天の王は一つの謎めいた預言を下しました。天の王の血を引く御子が、闇の王への報いとなろう、と。人間達は狂喜しました。永遠に逃れられぬかと思われた闇の軛から、解放され朝を迎える日が訪れる希望に。しかし、闇の王にとっては、死刑宣告にも等しかった。闇の王は光の神の血を引く御子を何としても、己が手中に収めなければならぬと決めたのです」
「其れが……私なのか」
「そうです」魔物「だからこそ、貴男は今、こうして生き長らえている」
「馬鹿な。何故……」
「知りません。――己の滅びを予期した上での事なのでしょう、としか」
「貴様は、一体何者だ? 何故、そんな事を」
 羽音が喧しく辺りを叩いた。巨躯が虚空に舞い上がり、温い大気を掻き混ぜた。
「さあ……私自身は魔王に仕える、一介の魔物に過ぎません。――この世界を纏め上げるには、絶対的な力が必要不可欠。其れを誰よりも痛感しているのはゾーマ自身では? 力の源が魔王ゾーマであろうが、貴男であろうが私にはどうでも良い事。――今の貴男では不可能でしょうが」
 大気の流れが、変わりつつあった。風鳴りが、近付いていた。


 手首を戒める枷が、酷く重い。
 ヒトの中に紛れて、此処に在る。良く見れば人間だけではない。雑多な『光の種族』に属する生き物が、無気力な列を為している。検問に向けて列が少しずつ消化されていく度、巨大な姿がうねって身悶えする。己は今、そんな列の一部を為していた。汗に混じる微かな芥子の匂いと、重く温やかな空気に包まれて。
 己はこ奴等と同じ扱いなのか?
 しかし、列からはみ出よう、並ぶのを止めて引き返そうとは思わなかった。群の中にいる限り、生き物は敢えて群からはみ出そうとはせぬものらしい。
 己も又、そんな連中と同じ生き物なのだ。
 他と同じ自分など、夢想だにしなかったのに。
 検問まで後数十人、というところで、二人分ほど後ろに並んでいた人間が、急に声を張り上げて騒ぎ出した。何事かと皆、物憂げに振り返る。看守達が駆け寄って来て、男を引っ張っていった。連れて行かれた男は恐怖に蒼醒め、確かに私を指差していた。
「魔王が、こんな所にいていい筈がないのに! 何故お前が此処にいるんだ!」
 男は直ぐに口を塞がれて連れて行かれた。周りの人波は、風を失い直ぐに凪いだ。
 検問では詳細に罪状を調べられ、手首に仰々しい枷が付けられた。魔力と膂力を二つながら封じるこの手錠は、手首の最も目立つ場所に太い字でくっきりと、刻印と己の名が刻まれている。
 私は今では殆ど造作を思い出せぬ筈の男の顔を思い、自らの立場を覚った。
 ここには来るべくして来たのだ、と。

 囚人達は皆、広間に整列させられた。罪人の世界と聞いてはいたが、無辜の民、という言葉の空々しさが、かほどにいたく染み渡る光景は他にはそう無かろう。先程の蛇の行列の中ではそんな考えも浮かばなかったのだが。罪人達はめいめいに整列させられ、代表……監獄に例えるなら所長にあたる天空人が、檀上に昇って訓示を垂れた。曰く、汝等は皆罪人である。罪は皆我執より生まれるのであるからして、我執を滅すれば汝等の罪も浄められん。魂が浄められるまでには百を下らぬ年月が必要だが、汝等が購いの時を数えるを止める日が来たなら、その日が浄罪の日となるであろう、と。それまでは、祈り、己の罪を悔い又労働に従事すべし、服従と贖罪こそが、日々の全てを占めるべきである、と。
 購いだと? 贖うに値する罪など何処にあろう! 罪は皆我執より生まれるだと?!
 贖わねばならぬは、罪の大本は、我を見捨てた父にある。
 私が闇の手に堕ちた際、助けに来てくれたなら。否、少なくとも、母が父の庇護の下にあったなら。
 父の罪を何故、我が贖わねばならぬ!
 憤怒が、温い大気から湿を奪った。
「……説明は以上……では、これから早速、労働に入る。各々、看守の命令に従って移動すること」
 ぞろぞろと、怠惰な人波が動き始める。私は動かなかった。
 不意に、鎖が引かれた。
「ぼんやりしてるんじゃない、とっととあっちに行け」
 鎖を引いていたのは看守の一人であった。怒りが、強く引かれた鎖を引き戻した。天空人は引っ張られてよろめき、序でに叩き込んだ尻への蹴りですっ転ぶ。
「触れるな、我を何と心得る。天の王の御子にして闇の王の嗣子、王の中の王なるぞ!」
 周りを、看守達が囲んだ。囚人達も又、足取りを止める。
「ここじゃ地上の身分も罪も関係ない。兎に角、行け!」
「御免被る!」
 鎖は易々と引き千切られた。目の前の看守に、拳を叩き付ける。看守は弧を描いて吹っ飛び、囚人達の列を押し薙いだ。二人目の看守に裏拳を叩き込むと、そいつはぐうっとうなって直ぐに動かなくなった。俄に沸き上がる囚人の歓声に呼応して、躯が、怒りとは違う熱を覚える。三人目からは刺又を奪うと、へし折って柄で頭を突いた。
「愚か者め、思い知るが良……!」
 二発、三発。後頭部に重い衝撃を受けて、目の前が暗くなった。せなからも二、三、そして、もう一発大きいのが来て、躯が傾ぐ。
 止めの一撃を頭に受けて、私は昏倒した。

 躯への重みが意識を呼び戻した。瞼を持ち上げると、囚人の一人にへし折られた刺又の柄で額を小突かれる。手足はしかと囚人達に押さえられており、手首には新たな手錠が燦然と、鈍い輝きを放っていた。向こうで、看守達が何やら相談をしているのが聞こえて来た。先程殴り飛ばした看守も、頬に濡れたハンカチをあてがって居る。
「……やはりな。ムリだと思ったんだ。全く厄介な囚人が来たもんだ……」
「早いとこ特注した方がいいですかね……」
「馬鹿、早いとこ、じゃない。今すぐにだ」
「一緒に働かせようなんて考えないで、とっとと隔離すべきだと思いますが」
「其れも上の判断次第さ。ったく、ただでさえ嫌な仕事なのに」
 私は囚人達を押し退けようとした。が、躯が巧く動かない。力が入らない。こういう感覚は以前に憶えがあった。入らぬ力を振り絞って身を捩り、囚人達を睨め付けた。
「貴様等、退けッ。退かねば、皆ずたずたに引き裂いて……」
 鼻の頭を、囚人の汚れた太い指が押した。囚人達はどっと湧いた。
「ダンナ、鼻頭に皺をそんなに寄せちゃぁ、折角のいい男が台無しですぜ」
「そうそう、それに、ここじゃあダンナだけじゃない、みなが死んでるんでさぁ。だから俺達を殺そうったってムダですぜ」
 鼻の頭を押した指が、首根っこに押し付けられた。ぐうの音も出なかった。
 取り敢えずは観念した、という事にしておいた。

 夕飯時。
 躯に廻った痺れも怠さも完全には抜けていない。安全だと思われたのか、他の囚人達と同じテーブルに座り、他の囚人達と同じ食事が出された。囚人達は皆、食事の合図と同時に食事を貪る。空腹もあるのだが、少しでも遅いと他の囚人に食事を奪われかねないからだ。既に別のテーブルでは、食事が足りないだの多いだの取ったの取らないので喧嘩が始まっている。他の囚人は当然のこと、看守も無論、囚人の食事など守ってはくれぬ。
 木製の、腐りかけたトレイの上に並べられた、金属の皿とコップ。萎びて饐えた臭いを放つキャベツの芯と、泥水色のスープ、カビの生えたパンの耳。口を付ける気はない。どう見ても、残飯だ。
 餓鬼の時分なら食えたろうか。
 飢えて、泥水を啜っていた己。屠った魔物の肉を喰らい、軒先から木の実をもいで貪った日々。余りの飢えに、怪しげな色のきのこを食べて高熱に苦しんだのを思い出す。よくぞ死ななかったものだ。
 ふと、目の前の囚人が残飯を食い入るように見つめているのに気付いた。
「何だ?」
「あ、あの、いいえ、何でも」囚人は慌てて首を振った。
「言ってみろ」
「いいんです」
「何もせぬ。其れに、どうせ死んでいるのだろ」
「は、はぁ、た、確かにそうでした」囚人は申し訳なさそうに頭を下げた。
「なら、言った者勝ちだろ」
 囚人は暫く考えてから、言った。「喰わないんですか?」
 言われて、腐れた木の板の上を、そして囚人の顔を見た。
「…………欲しいのか?」
 囚人は頷いた。黙って、トレイを押しやった。隣の隣の席で、囚人が看守に昼の褒美を強請っている。
 奴らは死んでるんじゃない。ここでは皆、自らを殺すのだ。
 逃げ出さなければ。一刻も、早く。
 今なら、何故急いていたのか解る。勇者が現われて己が滅ぼされるかもしれぬという不安もあっただろう。しかし、其れだけではあるまい。あの時きっと、私の心は折れかけていたのだ。あの頃の私は抗う為に抗っていた。復讐は生きる為の言い訳に過ぎなかった。そうしたのは奴なのに。
 目論見が狂ったからなのか、私は打ち据えられ、こうして世界の底辺に送り込まれた。
 ここで、腐って果てろと。
 御免蒙る。
 此処は私の場所では無い。
 この世界は私の場所では無い。
 私の場所を――そんなものがあるのかどうかも解らぬが――探す為に。
 此処で無い何処かへ行かねばならぬ。何処とも知れぬ、己の座すべき場所を探しに。
 無ければ、奪い返す。
 時はあるようで、そう長くは無かろう。
 己の心が折れてしまう前に。
 朽ちてしまう前に。
 私は己を戒める鎖へと、力を込めた。
*コメント
 構想とプロットだけは結構早くできてたのに、イマイチ気力が湧かなくて書いていませんでした。
 文体がイマイチ気に入りませんが書けたこと自体をよしとする。何だか偉そう。  前半闇のアレフガルド〜後半ニヴルヘイムでの殺されもせず、生かされもせずの対比で。相変わらずグノーシス好きで、この世界に属していない自己、をテーマに書いてみた。
 しかし、大の男を姫抱きて一体……書けば書くほどゾーマの意図が解らなくなってくるなこりゃ。
DQi目次へバシルーラ!