DQi外伝 〜象牙の塔

聖なる哉、聖なる哉、聖なる哉
昔いまし、今いまし、後きたりたもう
主たる全能の神――――――――――――

「わあ、あの人昨日町で説教してたおじちゃんだ」
「見ちゃいけません、さ、行きましょ」
 リリザの町中。広場にある絞首台へと引き立てられていく、剃髪無精髭の男。昨日まで町中で世界の滅亡を説いていた俄宗教家の末路は、もはやこの町ではありふれた光景である。
 リリザだけではない。ローレシア・サマルトリア・ムーンブルクのロト三国のみならず、世界中に辻説法、預言者、巫女の類が蔓延っては摘み取られ、又現われる。官憲が、異端審問官がどんなに厳しく彼らを取り締まっても雨後の竹の子の如く湧いて出て、正しくいたちごっこの様相を呈していた。そして、彼らは一様に終末思想、即ち、世界の破滅を口にした。
 彼らが世界の滅亡を口にしたのも故無き事ではない。彼らが其れを信じ、人々も信ずるに足る異変が世界中例外なく、至る所で起こっていた。ローレシアでは川が一夜にして血の色に染まり、夥しい数の魚が腹を上にして浮いた。何処ぞの集落では、浮いた魚を集めて食べたが為に村中の皆が腹を下し、集落の半分で同じ日に葬式を出す羽目になった。此処が稼ぎ時とばかりに泣き女達が村に押し掛ける様は、さながら烏が餌に群がる様に似ていたと聞く。ベラヌールでは大津波が発生して夥しい死者が海岸を埋め尽くし、ペルポイでは異常気象による山火事で多くの人々が焼け出され路頭に迷った。デルコンダルでバブルスライムが大量繁殖して人々を困らせたかと思えば、ルプガナ周辺の海域でしびれクラゲが大量死して漁師を悩ませた。何時だったかの夏は全く日が差さず、サマルトリア、アレフガルドでは例年にない大凶作、農家では多くの子供達が涙ながらにぱふぱふ宿に売られていく一方、困窮から逃れる為にガライやリリザなどの都会に雪崩れ込む人々が増え、お陰で街の治安は悪化し、街中では大小の窃盗団が、外では旅の商人を狙った強盗団が昼間から人目をはばからず出没する。
 そんな世相を反映してか、人心は荒廃し、麻の如く乱れていた。付け届けや鼻薬が厳しく禁じられているにもかかわらず大っぴらにまかり通り、週に一人は役人が広場で首を吊る。世をはかなんだ若者達が集団自殺するかと思えば、裏ではいかがわしい春画まがいの絵や王家を冒涜した卑猥な小説が売られ、御禁制の麻薬が取り引きされる。人々は神々に祈りを捧げながら世界の滅亡を口にし、こっくりさんや占いに興じて日々の不安を紛らわせようと躍起になっていた。ローレシア大陸の先住民達は日毎厳しくなる弾圧に対してしばしば反乱を起こし、街には先住民の反乱を鎮圧する義勇兵を募ったチラシが大量に撒かれた。田舎出の貧しい者達が手っ取り早く金になる手段を得ようと志願しては、先住民達の集落を襲撃して更に貧しい者達から収奪する。これが世界の腐敗でなければ何であろう、やはり世界は滅びるのだ。神も仏もあったものかと誰しもが、口には出さねど多かれ少なかれ、似たような事を感じていた。
 勿論為政者側も黙って腐敗を見逃していた訳では無かった。ローレシア王はいち早く、事態を収拾すべく布告を発し、すぐにサマルトリアも追従した。
 此がかの、悪名高き「魔物狩り」である。
 全ての原因を大して姿も見せぬ魔物に押し付け、人々に魔物を飼う事、使役する事される事を禁じたこの法令は、当時の世相に適ったのもあってか嘗て無く浸透した。王家が魔物狩りを布告したお陰で、多くの亜人達が無知な人々から魔物とみなされて迫害され、魔物狩りの布告を政治的な理由からそのままの形では発布し得なかったムーンブルクに移住して来た。ムーンブルクは元々森多く他国と地続きであった為、先住民や亜人達と共存せざるを得なかった歴史がある。今更そんな布告を発したならば、どんな反発があったものか解ったものではない。
 この愚かしい布告が如何なる不利益を二国に及ぼしたかを知りたければ、魔物狩りの布告が発せられた年の翌々年、疫病によって瞬く間に奪い去られた民の数を見るが良い。ローレシア・サマルトリアの民が、魔物達から取れる薬が疫病の特効薬になると知ったのは、魔物を匿う罪で滅ぼされた先住民の一氏族が、大切に飼っていた魔物のお陰で集落の誰一人として件の疫病に罹っていなかったのに或る兵士が気付いたからだった。しかしローレシアにもサマルトリアにも、その薬を抽出する技術を持っている者も、当の魔物も、得られそうな味方さえも、最早自国には一人もいなかった。否、自らなくしてしまったのだった。
 三王家への不満は根強かった。軍備を増強し、殺戮を繰り返す。人心は荒廃し、治安は悪化していたが、常に対応は後手後手だった。統制を厳しくせんが余りに、しばしば罪無き者が引っ立てられ、絞首台の露と消えた。それでも、王家が勇者の子孫であり味方であるという彼らの血統に対する崇拝にも似た信頼と、魔物と共存した経験を持たない移住者の子孫達が抱く未知への恐怖、そして何より、彼らの美しく賢い後継者達への期待と人気が、何とか王家を支えていたと言っても過言ではない。
 王達は己の基盤が何に拠るかを良く承知していた。そして、己の基盤を常に最大限に利用した。彼らは不満を逸らす為、そして何より、彼らの野望の為、彼らの始祖・勇者ロトを神として奉る廟を、不可侵の聖地ロンダルキアに打ち立てる事を国内外に発表したのだった。


 ハーゴンはローレシア南部のとある集落で炊き出しを行っている際にその話を聞いた。
 当時の彼はロンダルキアで旧き星辰の神々を祀る神官の一人に過ぎなかったが、一番の新参者ながら既に抜きん出た才を発揮し、神々の敬虔な崇拝者であると同時に、魔術師として、また神学者、研究家として注目され、尊崇されてもいた。不思議なカリスマ性とでも言うべきものに富んでいて、不思議と人を惹き付け、又人の心を開く術に長けていた。特に籠絡の術を有していたのではない。良く人の話を聞き、決して軽んじず、誠実な答えを的確に返す。真面目だが柔軟で、人の意を良く酌んで、時には諫言も辞さぬ率直さと、その諫言を耳に優しく届かせる術も持ち合わせる。正しき教えによって厳しく導かれ、鍛えられて来た人徳の賜と言えよう。朋輩はもとより上の覚えも良く、下からも慕われ、論敵にさえ認められる希有な才能の持ち主であった。
 無論天は二物を与えぬもので、ハーゴンも又、そういった様々な美徳を一息に台無しにしてしまう一つの悪に悩まされていた。
 炊き出しを盛る道具が蒼い手を離れて鍋の具の中に沈み込んでしまった。具と言ってもしゃびしゃびの粥に野草を放り込んだだけの、中身が透けて見えそうな、塩だけの味付けで食べられるだけ御の字という代物だが。ハーゴンは蹌踉めいたが、同輩の手を借りて何とか倒れずに腰掛ける事に成功した。
「済まない……少し、立眩みが」
「そりゃ、するだろうさ。倒れなかったのが不思議な位だ」同族らしき竜の耳を持つ若者が、軽口を叩きながら肩を支えた。「調子が悪いのなら、無理せず少し休め。折角高地の空気を吸って小康状態を保っているのだ、今日とて無理してくる必要は無かったのに」
「そうはいかないだろう。言い出したのは私だし」別の神官が水を差し出したので、ハーゴンは遠慮無く水を干した。粥釜の前では隣の集落からも人々が列をなしている。
「今年が不作とは聞いていたが、噂以上に酷い有様だったな。見に来て良かった」
「その上、村が焼かれたのだから、たまったものではないな。……ローレシアの冬は厳しい。冬までには建て直せるといいのだが」
 二人の視界に映る村は、建物の半分が何らかの形で焼け跡を残していた。丸々焼けてしまった建物も、ある。先日は雨だったので、家を焼け出された人々は、皆それぞれの親戚の家に避難していた。
「象牙の塔からでは、民が何を憂いているかは解りませぬからな」別の、今度は人間の神官が、二人を見下ろす形でその場に立っていた。白が混じり始めて色褪せた銀に蒼い双眸の持ち主、さほど高くない背を威厳で補っている、と言った印象を人に与えるその威容は、しかし今は親しげな敬愛の情によって和らげられていた。
「敬語は止して下さい。貴男の方が先輩ではありませんか、レーン様」
「いやいや、二、三年ばかりの差ではありませんか。それに貴男の方が位階ではずっと先んじておられる」レーンと呼ばれた神官はふと言葉を切って、健康的に焼けた肌に若干の皺を刻んだ。「先日……私の故郷が、焼かれたそうです」
 三人は黙った。黙って、他の神官達が人々に炊き出しを振る舞う様を目で追っていた。
「……騒がしいな……」
 人々の列を乱してやってくる一行があった。ローレシアの義勇軍だ。義勇軍と言えば聞こえは良いが、要するに、先住民族や異教徒を餌にした山賊共の集まりである。ローレシア王家からの権限が与えられている分、余計にたちが悪い。義勇兵達は胴間声で人々を追い散らかすと一行に近づき、釜を足蹴にしてひっくり返した。元々水の様な粥は残らず辺りに染み込んで、鍋の底に残るのはへばりついた野草の茎程度。
「! 何という事を!」
「誰の許可を得て、炊き出しをやっていいと思ってるんだ? ぁん? この村がどうして焼き出されたか知らんのか」
 下位の神官達は狼狽えるばかり。困った一人がハーゴンに、縋るような視線を投げた。ハーゴンは腰を上げると、一同の間に割って入った。
「知りませぬ。知らずとも、困っている人々を助けるのが、我等の勤め」
 側頭部に、衝撃が走った。
 兵の一人が楯で、ハーゴンの横っ面を殴り飛ばしたのだ。
「ぐふっ……」
 俄兵士とはいえ、楯の一撃は胸の病で痩せ細った体を吹っ飛ばすには十分だった。法衣は粥にまみれ、他の義勇兵が、倒れたハーゴンの腹を踏み躙る。
「魔物禁止令を知らんのか。じゃあ教えてやる。何処から来たかは知らねえが、この国じゃあ魔物を飼うのは御法度なんだよ。飼っちゃならねえドラキーを、こっそり飼ってる奴がいた、それだけで十分だろうが。罪人どもに粥をくれてやる位なら、もう少しマシなところに金と頭を使いやがれ!」
 兵士達の眼差しが、淫らに絡む。こんな目で眺められたのは、初めてだった。彼らの方が、ずっと魔物じみている、と神官は思った。
「……お前等も魔物の仲間だな。その耳、その肌。間違いねぇ」
 包囲の輪を狭めようとする兵士達を、眩い光が襲った。兵士達は怯み、輪を乱す。
 傍らには、二人の神官が立っていた。
「貴様等……! 唯では済まさぬぞ! 我等を何者か、知っての振る舞いか」
「ま、待て……此処で、我等が事を起こせば……」
「とにかく、その汚らしい足をどけぬか!」
 レーンが魔道師の杖で義勇兵を打ち据えたので、義勇兵達は恐れをなして這々の体で逃げていった。ハーゴンは直ぐに抱き起こされ、楯で打ち据えられた衝撃で口から流れた血を拭われながら、逃げ帰っていく兵士達をいつまでも目で追っていた。



 ロンダルキアからの使者一行がムーンブルク城の一角に押し込められてから、既に三日が過ぎようとしていた。
 ロト廟の建設は、計画が発表されるや否や、瞬く間に国内外から反発の声が噴き出した。賛成の声もあるにはあったが、ロンダルキアが勇者ロトの時代よりも遥か昔より、不可侵・中立の聖地であった事を知らぬ者はそう無い。如何に強国とは言え、ロトの一族が、世界を救った英雄だからという理由だけで立ち入るを許されよう筈もない。ロンダルキアの歴史は、彼らの祖先の栄光よりも遥かに、旧い。
 しかもこの計画は、ロンダルキア側を無視する形で一方的に発表されている。ロンダルキアの神官としては、こんなあからさまな侮辱を看過する訳にはいかなかった。
「……我等がこんなに軽んじられていても、帰るべきではないと仰せか」
 使者の一人が愚痴とも問い掛けとも付かぬ苦い言葉を零した。最長老らしき使者が仕方ない、と緩く首を振っていらえを返す。
「部屋を出て、城内をぶらついたが良い。どうせまだまだ我等を呼びには来るまい。来たら使いを寄越す故」
「そうは申しましても……」
 反論する神官の袖を軽く引く者があった。袖を引かれて何事か、叱ってやらねばと神官が振り返る。
 果たして、袖を引いていたのは蒼い肌の、しかも同じ位階の同輩であった。不意を打たれた隙を突いて、蒼い肌の神官はすばやく神官に耳打ちした。
「皆苛立ち、暇を持て余しております。此もムーンブルク側の、我々を苛立たせようという策略では。其れに、上の者が休まねば、下の者は尚更。皆息苦しゅう御座いましょう」
 なるほど、そこまでは気が回らなかった。神官はううむと唸ってしまった。
「解った。皆が皆此処に詰めて、互いを睨み合っても致し方無い。ムーンブルク城は世界に名だたる名城の一つ、ゆるりと見て回る位は許されよう」
 下位の若い神官達が安堵のため息を零したのを見て、蒼い肌の神官も顔を綻ばせた。

 ムーンブルク城はその美しさ故に世界に名高き名城として、また、庭に咲き誇るとりどりの薔薇の咲き誇る見事な庭園にて世に広く知られていた。庭園の中は一部を除いて自由に歩き回って良かったから、神官団の一行は長老達の厳めしい面構えと城内の陰鬱な空気から解放され、思い思いに花々を愛で、太陽と花々の匂いを胸一杯に吸い込んだ。
 そんな中、ハーゴンは珍しく一人で噴水の脇に腰掛けて花を愛でていた。常ならば病気の事もあって、誰かしらが傍らにお供しているのだが、偶さかなのか、それとも敢えて独りを選んだのかはともかく、今は唯久方の孤独を楽しんでいる様であった。
 足下に、毬が転がった。
 花にも負けぬ鮮やかな絹糸で精緻な刺繍が施された、贅沢な品物である。貴族の持ち物であろうか。女官達の玩具かも知れぬ。ハーゴンは毬を拾い上げ、暫しその模様を目でなぞった。
「あれ……どこいっちゃったのかしら? あ、あったぁ!」
 繁みから少女の顔がひょっこり顔を出した。快活で、屈託のない笑顔だ。人を惹き付ける 藍玉 アクアマリン の瞳は今でも十分愛らしいけれど、大きくなればいずれ花をも恥じらう美しさとならん事を予感させる。柔らかい巻き毛が肩の上で日の光を受けて眩しく踊っていて、銀の髪を金と錯覚させた。
 大陸先住民の血を引いているのだな、と思った。銀の髪と青い瞳は、大陸先住民に特有の物だ。ムーンブルクでは先住民と移住者達が融和し友好関係を保っているそうであるから、貴族の子でも先住民の血を引く者は多いと聞く。王族からして彼らの血が入り込んでいるのだから、誰もこの国で先住民をどうこうは言えまい。
 ぼんやりとよしなし事に思いを巡らせていると、少女はいつの間にか目の前で両手を差し出していた。
「毬、わたしの。返して下さらない?」
「嗚呼……すみません」
 毬を受け取った少女は亜人に興味を持ったらしく、見慣れぬその姿をまじまじと見つめその場に留まっていた。エルフやリカントならともかく、竜人はその数も少なく、滅多に里に下りてくる事の無い種、珍しからぬのも無理はない。
「珍しい、ですか?」
 少女は頷いた。「お肌、蒼いのね。お耳も、大きい」
「ええ」
「触っても、いい?」
 純粋な好奇心故の事であろう、別段不快に感じた訳ではなかった。しかし此処は、分別を持って対応せねばならぬ。青臭い道徳心が勝って、ハーゴンは蒼い手を差し伸べた。
「では、貴女のお耳も、触らせて下さいますか?」
 少女ははっとして、手を引っ込めた。
「ごめんなさい、私、何てはしたない事を」
 少女は慌てて、自分の両耳を摘んだ。その仕草の余りの可愛らしさに、思わず相好が崩れ、神官は青臭い道徳心を引っ込めてしまった。
「いいのですよ。どうぞ」
 少女の手が恐る恐る、竜に似た被膜の耳に伸びた。柔らかく、人間の耳朶より若干薄いだろうか。触れた途端、ふるっと耳が震えたので、少女は手を引っ込めて亜人の顔を凝視した。しかし、その面立ちには笑みがあるばかり。少女は首を傾げつつ、もう一度、蝶々の様にゆらゆらと揺らめく耳へと果敢にも手を伸ばした。
 触れられた耳が、指を逃れる様に小さく跳ねた。青い瞳が見開かれ、耳の動きを模して瞬いた。しかし、亜人は相変わらず澄まし顔の侭。
 三度目に触れられた指先から、震えが伝わって、擽ったさと可笑しさでハーゴンは笑いを堪えきれなくなった。
 少女が指を離したので、ハーゴンは少女の手を取った。
「可愛らしいお手ですね」
 そうかしら、と少女は呟いた。小さな、子供らしく体温の高い手が、手の中で脈打っていた。
「御覧なさい。形は違っても、貴女のお耳と私の耳は同じ耳です。手の形も肌の色も違うけれど、同じ手です。姿形が違っていても、生き物は皆同じ命です」
 少女は頷いた。
「命を大切にする、優しい人におなりなさいね」
 少女の かんばせ を笑みが縁取った。花の かんばせ という言葉があるが、それを体現する顔があるなら、正しくこの様な顔に違いなかった。少女は骨張った蒼い手を握り返し、二人は握手をしあって、その場を別れた。
 噴水の影が、いつの間に深く傾いていた。



 王家との折衝は、結局頓挫してしまった。まるでとりつくしまがなかったのだ。
 挙げ句、肝腎の神官団の間でさえも意見は強攻派と妥協派とで真っ二つに分かれてしまい、ロンダルキア神官団は統一見解を出す事さえままならなくなってしまった。歩調の乱れを掬われては敵わぬと、神官団は一旦引き上げ、後日再び同様の折衝を持つ事を決めてムーンブルク城を退出した。
 先に荷造りを整えた神官達が広間で出発を待っていると、見憶えのある顔数名が城を訪れていた。代表らしき人物――ムーンペタの町長が取り成しを頼みつつ書類を手渡している様子からして、こちらは王家への陳情団らしい。治安の悪化はムーンブルクも例外ではなく、何処でも警備体制の確立と安定が急務となっていたから、陳情団は警備人員の確保を頼みに来たのかも知れなかった。ロンダルキアに上がる前、巡礼の途中一夜の宿を供されたのと、数年前ムーンペタで疫病が流行った際、治療と埋葬の手伝いに下山していた事から、ハーゴンと町長とは知己とまでは言えないにしろ、互いの顔を知る程度には付き合いがあった。出発までは未だ時間がありそうだったので、陳情が終わったのを見計らい、ハーゴンは町長達と挨拶を交わした。
「お久し振りです」
「おお、皆様下山されていたのですか」町長は深く頭を下げた。「ムーンペタにも寄って下されば宜しかったのに」
「いえ、残念ながらその いとま が御座いませんでした。あれば必ず参りましたのに」
「御加減は」
「お陰様で、高地の空気が合っているようです。……ところで、今日は?」
 町長は決まり悪そうに頭を下げた。
「恥ずかしながら、陳情に参りましたので。……三王家の方々が、ロンダルキアに勇者ロトを祀る廟を打ち立てる為、税金を大幅に上げる事を決めたので御座います。税率が一気に二倍に引き上げられたものですから、貧しい者達は皆困っております」
「奇遇ですね。三王家が我々ロンダルキアに何の報せもなく廟の建設を公表したものですから、我々としても聞き捨てならぬ事と、抗議に参じたのですが……まるきり話し合いにもなりませんでした」
「何と!」町長は心底驚いたようだった。その場に居合わせた一行も同じく、顔を見合わせている。「我々はてっきり、ロンダルキア側の了承を得た上での事ならば致し方ないとばかり思っておりましたのに。そんな横紙破り、許されたものではない。皆黙ってはいないでしょう」
 ハーゴンは考え込んでしまった。
 そも、三王家はロンダルキアが廟の建設に反対している事実さえ民に報せてはいない。
 三王家が、ロンダルキアの意向を酌む気など端から無いのが知れた。
「どうか、くれぐれも」神官団が揃って動き出したのを見て、ハーゴンは急いで町長の手を取った。「我等ロンダルキアが、一国の利の為に聖地を譲るような真似を許す筈などないと、そう街の人々にお伝え下さい」



 三度目の折衝の為に使者がロンダルキアを下山してより数ヶ月後、ハーゴンはロンダルキアで折衝団の帰りを待っていた。下山が続いて疲労が溜まった所為で病状が思わしくなく、今回は下山を許されなかったのだ。地上のよしなし事に取り組む忙しない日々から解放された筈の身は、しかし事象が手の届かぬ場所に有るが故に却って心を乱され、以前は熱心に取り組んでいた筈の研究にも身が入らない。論文の執筆は遅々として進まず、書きかけの没校が傍らに丸められて小山を為していた。
 象牙の塔で飯の種にも成らぬ学問にうつつを抜かして、一体其れが何の、誰の為になろう?
 それより、飢えを満たし、病気を治し、争いを鎮め、人心を慰める方が何倍も意味があるのではなかろうか?
 さりとて、ロンダルキアにかの三国が勇者を讃える廟を建てたところで、世界をうっすらと覆う破滅への予感を人々から拭い去れるとはハーゴンも考えていなかった。大方、国内の不満を逸らし他国への権威付けを計る為の玩具に過ぎまい。そんな玩具を置く為の場所など、この聖地には一坪たりともあってはならぬ。下らぬ権威の玩具を飾って置く位なら、救貧院でも建てた方が余程世の為人の為になろう。……尤も、この極寒の地までわざわざ足を運ぶ程貧に窮した人々がいるとしての話だが。
 寧ろ監獄の方が相応しいかも知れぬ、等と珍しく益体もない思考を巡らせていると、背後で扉を叩く音が軽快に響いた。
「どうぞ」
 いらえたかいらえぬかの間に、マホガニーの扉が開いた。ムーンブルクとの折衝に向かった筈の、兄弟子の姿があった。
「ヴァーノン! 帰ってきたのか」
「調子はどうだ」下山前より明らかに窶れた頬を見ない振りをして、ヴァーノンと呼ばれた神官は薬湯の入ったカップを机に置いた。「よくこんな臭いのを毎日飲めるな。此を飲み干せるお前の精神力は驚嘆に値する」
「慣れましたよ」カップを手にとって息を吹きかける。蒼い唇を押し付けて薬湯を啜ると、微かに喉仏が動くのがほの見えた。「お陰様で、少し落ち着きました……それより、折衝はどうなりましたか」
「駄目だ。彼奴ら、まるで譲る気はないらしい。野蛮人共が、聖地を何だと」
「長老は?」
「期待薄、といったところだな。迷走一直線、強硬派と妥協派の間で右往左往しているよ。こんな事態になるとは考えた事もなかったのだろうな。……我々も象牙の塔で安穏としてはおれぬな」
 どうする、と言外に問われて、ハーゴンは薬湯入りのカップを握り締めた。
 妥協するべきでは無い、とは思っていた。かといって、では己に何が為し得るか? と言えば、何らの具体性を持った打開策を講じる術も無い。ロンダルキアが権威ある不可侵の聖地であるとはいえ、三国に対抗し得る兵力はもとより、ロトの一族に破門を言い渡す様な霊的権能を有する訳でもない。もとより、そういった地上の権勢とは遠くかけ離れた処にあるのがこの聖地ロンダルキアなのだから。
「レーン達強硬派は、ローレシア大陸で弾圧されつつある先住民族との共闘を説いている。実際には既に動いていて、かなりの氏族と連絡を取っているらしい」
「ロンダルキアには珍しい、実践家ですからね彼は。……それに、故郷を滅ぼされてもいる」
 ハーゴンは少し醒めた薬湯に口を付けた。ロンダルキアは一年中を氷と雪に閉ざされた地、初夏のこの時期でも万年氷の溶ける事はない。今日も昼まで晴れていたかと思えば、夕には猛吹雪で窓の外が見えなくなっていた。
「そういえば」ヴァーノンの蒼い額に皺が刻まれた。
「良からぬ報せのようだな」
「嗚呼……以前、炊き出しに行った村、あったろう」
「うむ。……どうした?」
「あの村な、邪教を崇拝した かど で焼き払われたそうだ。奴らの云う『正しき神』を受け入れなかったから、だとか。何でも、噂だが『遠くの聖者様はわざわざお山を降りてまで我々を助けに来てくれたのに、近くの正しい神様はちっとも助けに来ない』と言った嫌味が、偶さかその場に教化活動に来ていた司祭だか枢機卿だかの機嫌を偉く損ねたのだと聞いた。住民は皆……?」
 皆、焼き出されて、殺されたのだ。皆まで言わずとも解っていた。
 我々の、所為なのか。
 否、私の、私の所為だ。
 絨毯の上にカップが、次いで残った薬湯が零れた。
「そ、そんな……私の所為だ、私の……」
 慈悲を施して、いい気になって自惚れていた、私の奢りがもたらしたのだ。
 ひゅぅっと、呼気が奇妙な、しかし聞き慣れた音で耳朶を擽る。
 喉奥で、鉄錆の味が膨れ上がる。
 視界がぶれた。歪んだ。
 椅子からずり落ちた貧弱な身体を、必死に支える手。
「おい、ハーゴン、しっかりしろ! ハーゴンッ!」
 肩を揺すぶられて開いた目には、先程までと全く違う世界が広がっていた。
「ご、ごほっ……も、燃えて……世界が、燃えて……」
 口腔から溢れる、血潮。
 燃え上がる世界樹。紅蓮に包まれる世界。
 腐った幹が爆ぜる音、巣喰う虫達の悲鳴。咆吼。悲嘆に暮れる啜り泣き。
 腐臭。どこかの集落で、遺骸を火にくべた時に嗅いだ臭いに似ている。湿った薪と、蛋白質と脂肪の焦げる臭い。
 神々の黄昏ラグナロクとは、こんなものだろうか。
 世界の、滅びる日。
 灼熱の冷気に包まれ、我が肉体が朽ちる様。
 世界と、己の、滅びが重なる。
 血の様に赤い炎、命の最後の紅蓮が燃え尽きる、様―――――――――――。
「目を醒ませ! おい、誰か、誰か 薬師 くすし を! 薬師を呼べ!」
 何とか己を現世へと繋ぎ止めようとする声も空しく、若き神官の意識は闇に墜ちて行った。

 闇の中。
 音一つない無間地獄かと、我が身を省みる。触れる。確かに実感がある。
 世界は、滅びてしまったのだろうか? それとも、光を失い盲いてしまったのか?
 恐る恐る、床に骨張った手を滑らせた。冷たくて滑らかな 質感(テクスチャ)は、石の其れであろう。
 やはり、死んだのだろうか。
 これが、死なのだろうか。
「目醒めよ」
 雷鳴に似た声に打ち据えられ、神官は顔を上げた。しかし、眼前には全き闇が横たわるのみ。
「目醒めの時は近い。惰眠を貪るなかれ。汝、目醒めし者よ」
 目醒めよ、とは?
 問いを口に上せる間もなく、雷声が答えた。
「腐敗せし世界の滅びは必然。目を逸らす事無かれ。
 見よ。世の至る所に歪みが見えよう。綻びの前触れが匂うておろう。滅びの (あしおと)が聞こえよう。
 世界は己が重みに、もはや耐え切れぬ。重みに撓んで、時折その身を揺すぶる時、世界は悲鳴を上げる。聞こえぬか? 選ばれし者よ。未だ嘆きの声はか細いが、やがて咆吼となりて世界を揺らす日も近かろう。その時には、一羽の烏が枝に留まっても、世界は揺れて木の葉を散らす様になろう。
 世界には、もはやその揺れを支える力さえも無い。世界は、弱って、腐り切っている」

 ハーゴンは弾かれたように起き上がった。
「去れ。人を惑わす悪霊よ。汝が地上で人々を惑わし、滅びを語る魔物の正体か。無知蒙昧の輩は騙せても、我を謀るは敵わぬぞ。汝等に惑わされる我に非ず、居ね!」
 だが、声の主は一向に引き下がる様子を見せなかった。下級魔族の干渉程度なら、一喝すれば退去させられる位の力はあるつもりだった。が、事態はもっと悪い方に進んでいるらしい。
 そもそもが憑依など、自ら望まぬ限りは決して許さぬ筈。
 発作が契機となって異界との波長が合ってしまったのだろう。
 厄介な者を呼び込んでしまったものだ、とハーゴンは嘆息した。
 途端、辺りに哄笑が満ちた。耳を押さえても塞いでも、破鐘の様に耳朶を打つ。
「厄介事は好まぬか? 盲いた振りをするか?」
 声には明らかな嘲りの調子があった。
「しかし汝は選ばれし者、蒙を啓かれし者。汝は見たであろう、世界を支える世界樹が燃え盛る様を。迷い、惑い、恐懼の果てに取り乱し、己を放棄しまたしがみつく愚かな人々を」
「違う! そのまやかしは汝が見せたのではないか!」
 ハーゴンはすばやく宙に印を描き、追儺の儀式に入った。かなり深くまで干渉されている。此の侭放っておけば、取り込まれてしまうやも知れぬ。
 結んだ印が、宙に掻き消えた。
「愚か者が!」
 怒声は、己を突き抜けて宇宙を振動させた。総身を貫かれて、ハーゴンはついに抵抗しようという気力を失い、その場にへたり込んでしまった。
「汝の知、高邁さ、そして世界への想いと嘆きが世界を動かしたが故に、我は汝の前に現われたのであるぞ。嘆きし者よ、慈悲深き者よ、悩めし者よ。我は一つの問いであり、答えである。新たなる世界の鍵であり、扉である。
 我が名はシドー、滅びの神也。
 世を憂える汝の祈り、聞き届けたり。
 我、旧き神々の意志を汝に伝えん。
 世界は腐敗し、今にも崩れ落ちなんとす。
 我、再び甦りて世を浄化し、新たなる夜明けを求めん。
 されど我等埋もれし神は、自ら目覚める事叶わじ
 汝、我と我等の眷属を祀るべし。さすれば次代への扉開かれん
 我等は血の購いを求むるもの也。青人草が愚かさ故に流したのと、同じだけの血を」

 ハーゴンは遠くなって行く 三聖頌 トリスアギオン を耳に、闇の中、唯茫然と佇んでいた。
「滅びの時は来ませり、滅びの時は来ませり、滅びの時は来ませり…………」


  啓示 それ は若き神官のみならず、ロンダルキアにも深甚なる影響を及ぼした。何せ、埋もれていた旧き神々を埃まみれの文献から発掘しては祀るのが日々の勤めとはいえ、旧き神々の側から神官達に呼びかけて来るなど嘗て無い、前代未聞の事態であった。神々の啓示が過去無かった訳ではないけれども、それらは皆名の知れた神々からの天啓、そも失われた神々は、人々に強い影響力を及ぼせなかったから滅びたとも言えるのだ。
 啓示を受けた旨を受け、まず最初に行われたのは得られた 幻視 ヴィジョン が正統とみなされるか否かの検証であった。この種の見神には常に悪霊の干渉が付き物で、しばしば神の声を聞いた、神を見たと騒いだ者が現われては、結局悪霊に惑わされただけだった、といった事例が後を絶たない。特に昨今は世界の破滅を予言する俄預言者が巷に蔓延っている事もあって、検証は慎重に慎重を重ね、石橋を叩いて渡らぬが如き慎重さと、針一本逃さぬ几帳面さを以て行われた。まずは古今東西のあらゆる文献、資料を縦横に巡って神の名を調べ、姿、由来の正確さ、神の姿と共に現われた象徴の、神の性質との一致、預言の内容を逐一検討し、過去の預言との矛盾がないか、と言った作業が一月半の時間を掛けて綿密に行われた。
 しかし、破壊の神シドーの名はロンダルキア中のどの文献にも記されてはいなかった。血の購いを求めて来た点も気になる処ではあったが、アレフガルドから移民した多くの人々が信仰する、唯一の創造神を頂点とした 万神殿 パンテオン の中に生くるを許された神々と違って、旧き信仰には暫し血の臭いが染み付いていた。生贄も聖戦も悪ではなかった時代の神々は、しかし今の時代に生き残るにはその角を矯め、また、もっと穏やかな姿を取る必要があった。そうでなければ、神は、彼らを崇める氏族と共に歴史の表舞台から姿を消すが運命と定められつつあったのだ。
 シドーも又、遥か昔に滅ぼされた氏族の神であったやもしれなかった。が、証拠がなければ検証しようがない。啓示が世界の破滅を予言する余りに激烈で衝撃的な、そして或る意味でありふれた内容であった為、長老達は、此の預言を一旦棚上げし、要するに、白黒をつけず無かった事にする事を決めた。異を唱える者もあったが、預言を受けた当の本人が確信を以て主張しなかったのだから、誰もが結局は口を噤むしかなかった。
「本当に良いのですか」協議を終えて退出するハーゴンに、レーンが声を掛けた。
「幻視はあまりにも力強く、今まで得たどんな像よりも鮮明でした。……だが、其れが悪霊の仕業でないとは誰にも解りますまい。私にも、解りかねます。今でも、少し疑っています。世間に蔓延る辻説法師の影響を、知らずに受けていたのかも知れませんね。あの頃は悩んでいましたから」
 あの頃は、ではなく、今も悩んでいるのだが。
 いっそ悪霊の惑わしであればいい、と手渡された薬湯を啜り、ハーゴンは独りため息を付いた。世界の滅亡など、無ければ無いのが良いに決まっていた。啓示を受けた日から病状は日増しに悪くなるばかり。おかしな幻視をしたのも、死を怖れるが故の結果やも知れぬ。
 死が怖ろしいと思った事は無かったつもりだった。いざ、近付くと怖くなるものだろうか。
 死ぬのは怖ろしくない。唯、何も為せないのが悔しいだけだ。何かを後世に残すというだけなら、星辰信仰に関する論文だけで神学界に名を残すだけの研究実績は十分に物していた。が、今更死に絶えた信仰の研究など、今のハーゴンにとってはどうでも良かった。
 この世に生を承けた意味。
 私の短い生に意味があるとして、それは世界を滅ぼす事なのか。
 覚悟が定まらぬ侭、飲み干した薬湯の器をレーンに手渡す。此の同輩は、己の預言に期待しているのだ。天啓が真実であってくれたならば、何らの後ろ盾をも持たない先住民達にとっては百万の兵を得たも同然の筈。理不尽に生まれ故郷を追われ流浪を強いられる彼らに、何の罪があろう?
 不意に横っ面を殴られたような衝撃に、ハーゴンは膝を付いた。心臓が早鐘を打ち、頭が割れそうに締め付けられる。悪寒が這い昇り、吐気に変わって喉を熱い液体が焼く。重みに負けて、鼻から赤い液体が滴って顎を伝い落ち、赤い絨毯に染み込んで、消えた。目の前が真っ赤になって、真っ暗に、そして眩く包まれ、世界の重圧を一身に受け、逃れる様に身を丸めた。世界を母とする、胎児の様に。

 目醒めよ!
 選ばれし使徒よ、我が声を聞け。
 我が存在の真偽を、今こそ証明してみせよう。
 神殿より方位北北西の岩場を調べよ。其処に我が存在の証があろう。
 我が名はシドー、滅びの神也。
 腐敗こそは浄化の前触れ、新たなる世界の幕開けに過ぎぬ。
 滅びを怖れるなかれ。
 世界の再生の朝を待て!
 目醒めよ!
 目醒めよ!
 目醒めよ!!!

 突如、ハーゴンは立ち上がった。汗と涙と唾液と胃酸と鼻血で汚れた顔を拭い、息を弾ませながら、踵を返し会議室へと引き返した。
 迷いは、微塵も感じられなかった。


 二度目の神託は恐るべき結果をもたらした。ロンダルキア北北西の岩山奥を調べたところ、岩肌の奥に洞穴が発見され、大規模な発掘作業の後、破壊神シドーとその眷属を刻んだ壁画と、巨大な神像が発見されたのであった。巨大な黒檀を丸彫りしたと思しき神像はロンダルキアの厳寒にもよく耐え、磨けば直ぐにでも、往事の輝きを取り戻しそうであった。
 しかし、にもかかわらず、長老達はかの預言を、滅びの神の神託を、受け入れようとはしなかった。当然であろう。自らの手を血に染める覚悟など、もとより誰もありはしない。
「しかし、神託の正当性は認められたはずです。低位の悪霊に此程の奇跡が起こせようとは、まさか皆様方も、そんな奇矯な主張は致しますまい」
「確かに、そうだが……」
 長老達は黙ってしまった。
「神々の意志は、我々卑小な地上の者の倫理からは容易に推し量れますまい。そもそもが、そんなものを当てはめる事自体が神々を矮小化し、ロトの王家が自らを神格化する動きへの追従では御座いませぬか。―――それとも、三国の圧力に屈して、聖地を汚させるを許そうとでも仰るのですか」
 雄弁に啓示を援護するのは勿論、強硬派の最右翼、レーンである。真偽が下される前から滔々と自説を述べる様は、其れこそ水を得た魚の如くであった。強硬派であり、また実際家でもあるレーンにとって、神託はそれこそ万軍を得たにも等しいものであった。
「……かほどに広く、世界の滅びが巷で囁かれるのを、強ち悪霊の悪戯の一言のみで片付ける訳には行かないのではありますまいか。旧き神々の声無き声が人々の心を打つからこそ、あたかも噂の様に、滅亡が囁かれるのでは御座いませんか。民草は確かに我々に比べれば無知でありましょう。古代語も読めませんし己の幻視を検証する術も持ちません。しかし、其れにしても、異様ではありませぬか。神の望みは民の望みでもありましょう。此の間違った世の中を正せと、そう神は告げられたのに違いありません」
「ふむ。……貴男の意見はどうですか」
 議長に求められて、ハーゴンはゆるりと席を立った。
「生憎、私の意見はレーン様とは異なっております。世界の滅びが必然であるという点では同じですが、私は、この神託は、世を正すには最早手遅れであるからこそもたらされた物だと確信しております。いわば、滅びは必然です」
 議場がざわめいた。
「しかし、ならば放っておけば良いと言うものでも無い。でなくば、滅びの神は己を祀る様に我等に命じはしなかった筈。世界の破滅を防げぬならば、徹底的に、そして速やかに滅ぼせと。私にはそう言われたように思えてなりませぬ。さればこそ、旧き世の禍根を残さずに新しき世を迎えられるのではないか、と。私は少しずつ、信じ始めています。我が身にもたらされた神意が正統ならば、苦難の道に身を委ねても良いのではないか、と。しかし、皆様方の支持を得られぬ以上、一介の神官に過ぎぬ私に、一体何が出来ましょう。……私はあくまで、協議会の決定に従うつもりです」
 蒼き肌の神官は、呼気を乱して机に手を付いた。暑くもないのに汗が零れて、血の気の失せた手にひたと落ちた。
「少し、休憩を入れますか」
 議長の宣言と共に書記がインク壺にペンを入れ、協議の中断を告げた。

「……此の侭では埒が明かん、一体全体長老達は、神意をどう扱うつもりなのか」レーンは下位の神官に薬湯を取りに行かせ、濡れた手拭いで蒼い額に浮いた汗を拭いながら、苛立たしげに呟いた。今日は今朝から酷く咳き込み、ハーゴンは二度も血を吐いていた。強硬派も穏健派も、協議会の延期を認めていたが、残された時間への予感が彼を駆り立てていた。
 レーンは不意に強く、ハーゴンの手を握った。骨張って冷たい蒼い手とは対称的に、肉感的で、暖かい、染みだらけの手。
「決起なさるべきです。神託が正しいと確信を持っておられるのでしょう。貴男の神託は、我等虐げられし者達の悲願でもある」
「貴男の悲願である、の間違いでは御座いませんか、レーン様?」
「何」
 辛辣を投げかけた者の姿を改めれば、さにあるは馴染みの姿。レーンは眉を顰めた。レーンは先住氏族の連合が巧く行っていない事もあってかこの方ずっと眉間に皺を寄せ放しなので、レーンの厳格さを疎む下の者から、あの顔ではまとまる話もまとまるまい、等と色々陰口を囁かれているのをハーゴン達は知っていた。実際家ではあるが、彼の威厳は感銘を与えると同時に相手の逃げ場、落としどころを奪ってしまう節があった。
「失礼ながら」神官は涼しげな笑みを敷いた侭、優雅だが若干慇懃な仕草で一礼し、序でに片目を瞑って見せた。「貴殿、この頃焦っておられるようですが、努々己のエゴの為にハーゴン様を出汁になさってはいけませんよ」
 レーンは益々眉間の皺を深めたが、この軽薄な後進にウィンクを飛ばされて、怒りを解いてしまった。
「貴殿には敵わぬよ、マイゼル」
 相も変わらずにこやかな笑みを湛えた侭、マイゼルと呼ばれた神官はいつの間にか、皆の輪の中にちゃっかり収まっていた。口が達者で冗談を好み、軽妙洒脱でどこか憎めぬ若造――とはいえ、もう三十路を半ば過ぎてはいるが――といったロンダルキアには珍しいタイプの此の僧は、軽薄な面の裏に、恐るべき切れ者の刃を隠している。
「くれぐれも、軽々しく皆の御輿に担がれなど致しませぬ様に。……何より、お体が心配です」
「我が身を厭うてくれて、有難う。……皆には、迷惑をかけておるな」
「いいえ、とんでもない! 当然の事ですとも」
 マイゼルはふと、珍しく真顔を作った。
「……ハーゴン様、私は誰が何と言いましょうと、貴男の決断を支持致します。如何なる決断であろうとも」
 マイゼルは目礼して、その場を去っていった。
「あれは、貴男に心酔しておりますからね……私とて、貴男を蔑ろにしているつもりは無いのですが」
「貴男達二人は、足して二で割ったがちょうど良い」
「確かに」
 談笑しながらも、若き神官は己の双肩にのし掛かる重みを感ぜずにはいられなかった。
 冷静な目で見ても、世界は傾斜の一途を辿っているかに見えた。魔物狩り、邪教狩りは益々苛烈さを増している。其のやり口と来たら最早無差別と言って良かった。怪異は益々頻度を増し、デルコンダルでは人の顔をした血の色のオレンジが実り、ローレシアでは烏が大量発生して人々を悩ませる。大洪水がテパの村を押し流したかと思えば、南メルキドの大灯台では蒼白い火に燃え上がる幽霊船が観測されたと聞く。
 何かが、確実に狂い始めている。
 世界を救った勇者の子孫が、人々を苦しめているのが良い証拠ではないか。
 象牙の塔の住人達は、己が中立不偏を謳うが故に、何一つ有効な手だてを下せないでいる。
 ――――しかし、滅びの神を崇拝し、人々に教えを広める事が、滅びの日を待つ事を説くのが、救いの手だてになり得るだろうか?
 なり得る、やも知れぬ。世界の滅びが確定事項ならば、覚悟を決め、新たな次代の為に祈る事は無意味ではあるまい。
 だが、現世を救う事は出来ないのか?
 レーンは出来ると言った。虐げられし民を纏め、王家に反旗を翻せば、腐った世の中の仕組みを滅ぼす事が出来る。其れが新たな世を作る、世直しだと。レーンは革命を望んでいるのだ。が、滅びとはその様なものだろうか? という疑問が、未だ在る。
 決断がどうあれ、従う者が在る以上、軽々しくは決められぬ。反対もあろう。どう動くかも定まってはおらぬ。
 世界を動かす鍵を己が握っているのだと思うと、ハーゴンは身の引き締まる思いがした。

「風、止んだ様だ」
 静臥して薬湯を啜っていると、別の竜人が外套を脱いで入って来た。耳先が僅かに溶けた雪で濡れているのを、竜人は耳を動かして振り払った。
「少し、外を見たいな」
「具合は良いのか」
「少し、落ち着いた。……其れに、外の空気が吸いたい。此処は乾いていて、喉が痛む」
「神の啓示を受けたお偉い神官様が、駄々っ子の様な事を仰る」
 悪戯げに口角を釣り上げたので、二人は笑った。
「暖かい格好をして行けよ。風邪で死んだなんて洒落にならんからな、ほら」
 寝台の上に投げ出された外套に袖を通した処で、扉が騒々しく開け放たれた。
「大変だ! 何だ、聞いていたのか」
「? 何の事だ?」
「三王家の先遣隊が、ロンダルキアに!」
「!」

 二人は会議室に急いで足を運んだ。皆は既に、会議室に集っていた。ロンダルキア始まって以来の事件に、事態は大揺れに揺れていた。
「決断の時は迫っておりますぞ! 此の侭、ロンダルキアをあの連中に蹂躙させて良いのですか!」
 議長に詰め寄っているのはレーンを初めとする、強硬派の面々。遅れて入ってきた二人を認めて、一同は直ぐ奥の席へと二人を座らせた。
「と、とにかく、彼らと話し合いの席を設けねば……」
「馬鹿な事を! 我々がムーンブルクで如何に侮辱的な扱いを受けてきたかもうお忘れなのですか」レーンは拳を奮った。「此処に彼らを招き入れる事が何を意味するか、どういう結果をもたらすか、解らぬ皆様方でもありますまい」
「ロンダルキアを血で汚す気か!」
「戦わずとも追い返す方法は幾らでもあるではないか」
「まさか、此から其れを話し合って決める、等とは申されますまいな?」
 会議場は見る間に、喧々囂々たる言葉の果たし合いになった。使われる言葉こそ礼儀に適ってはいたが、その裏に含ませた毒と棘は、見事に互いを裂いて議場を乱した。誰しもが理を果たす為で無く、互いを打ち負かす為、己のつまらぬ矜持の為に言霊を振るっている。
 何という愚かな光景だ。
 清閑を決め込んで地上の喧騒を見下ろし、事なかれ主義に凝り固まった選良共の、此れが成れの果てか。隠棲を気取っていながら、いざとなればこのざまか。見苦しいにも程がある。
 いっそ、皆して氷の平原に、放り出されてしまったがいい。そうして、冷えた頭と目で、世の現実を見るが良い。
 さすれば、己の吐く言辞が、如何に空しいか解ろうと言うものだ。
 行え、そして、沈黙せよ!
 骨と皮ばかりの拳が、在らん限りの力で、机を打った。
 拳が、一振りで喧騒を打ち据えた。
「愚か者共が! こうして下らぬ会議に現を抜かしている間にも、聖地は刻々と蹂躙されているというのに。何故誰一人、彼奴らを押し留めようとはせぬのだ! 誰も行かぬなら、私が行く! 吹けば飛ぶ様な我が身なれど、此処で管を巻く貴男方よりは、何らかの足し……せいぜいが、時間稼ぎ位にはなろう。のたれ死んだら死んだで、滅びの神の託宣もいんちきだったという事だ。その程度には、此の下らぬ命も役に立つ事だろうよ」
 ハーゴンはそれだけ言うと、再びコートに身を包んで会場を出て行こうとした。
「ま、待て! 何処へ行く気だ!」
「何処も何も」ハーゴンは聴衆を冷たく睨め付けた。「三王家の先遣隊に、会いに行く。誰でも良い、志を同じゅうする者は供をせよ!」
「死ぬ気か!」
「今更、何を。肺病病みで死ぬも、戦って死ぬも同じ事」
 ハーゴンは、義憤が身を熱くするのを感じていた。かほどの昂りを覚えた事は絶えて無かった。
 熱が、まといつく大気を揺らした。
 気が、溢れ出て形を取った。
 取り囲んでいた神官達が、皆気圧されて後退る。
 己の周りの空間が、歪んで、盲いたかの如き闇をもたらした。
 気は闇と混じり合って収束し、3つの塊となって半物質化した。
「我等、破壊神シドー様の従属神」
「我が名はベリアル、技を司る也」
「我が名はバズズ、智を司る者」
「我が名はアトラス、力司る者」
「我等、滅びの名の下に、一丸となって汝を助けんが為、汝の下に遣わされし者」

 塊は明確な姿を持たない侭、周りを漂っていた。ハーゴンは闇の中で、彼らの声を聞いた事があった。
「ば、馬鹿な……本当に、こんな事が……」長老の一人が、ぺたんと尻餅を付いた。
「……もう、迷わぬ。我に従う者は付いて参れ。従わぬとも、邪魔は致すな」

 渺茫たる雪景色が続く中を、防寒具に身を固めた一行は地上へ続く洞窟の入口へと向かった。日は傾き、雲間から覗く日光は雪原を赤く黄色く照らしていた。洞窟の入口では、同じく防寒具に包まれた先遣隊の兵士達が一行を待ち構えていた。
 兵士の一人が、国書を読み上げた。
「通達
 ローレシア・サマルトリア・ムーンブルク三国の総意により、同国は、国としての立場を捨て、聖地ロンダルキアに、世界の安定と平和を祈念し、世界を救いし勇者ロトの聖廟建設を此処に宣言する。本来ロンダルキアは中立不可侵の聖地であるが、世界の安寧の為、聖廟建設にあたって物資の調達等に関して、最大限の協力を願うものとす」
 ハーゴンは文書を受け取った。文書には確かに、直筆の署名と勅印がそれぞれにあった。
 勅印を確かめると、ハーゴンは文書を丸めて他の神官に渡し、冷たさで強張った口を開いた。
「この文書は、三国の、聖地ロンダルキアに対する侵略宣言と見なして宜しいのだな」
 兵士達は、答えなかった。
「我等は嘗て、今も、そして此れからも、未来永劫、一切の国家による干渉を認めぬ。そう、国王陛下にお伝えあれ。時と場合によっては、実力行使も辞さぬと。我等を象牙の塔で黴臭い古文書相手に戯れるしか能の無い学者風情だと侮っておられるようだが、旧き知恵を甦らせる程度の術はあるのだと、そうお伝え願うが良い。さあ、お引き取り戴こう!」
 兵士達が僅かに、動きを見せた。
「聖地を、血で汚す気か」
 問うが早いか、紅蓮の呪詛が降りかかった。呪詛返しは、この距離では間に合いそうになかった。
「!?」
 闇の顕現が、火焔を呑み込んだ。呑み込んで、二倍の巨大な火焔と為して吐き出した! 火焔は術者を呑み込み、術者は己の放った火球によって灰と化した。
 闇は僅かに、形を整えつつあった。
「望むならば、彼の地に一滴もの血を零させずに、彼奴らを屠ってみせよう」
「……皆は、殺すな」
 御意、と三つの塊が、首肯を返した。
 闇がゆるりと兵士達を包み込もうと伸びていく様、断末魔の叫びさえも上げられずに朽ちていく兵士達の姿を眺め乍ら、ハーゴンは己が、もう二度と引き返せぬ処に来たのを感じていた。

 途中逃げ出した兵士数人を残して、先遣隊は全滅した。

「これでは足りぬが、まあ良かろう」
 神官達に命じて兵士達を仮に葬る為雪を掘らせていると、闇が色彩と明確な形を帯び始めているのに気付いた。形は複雑さを増し、巨躯を伴った魔物めいた姿を顕わにした。一つ目の巨人と、猿に似た細身の、剛毛に覆われた生き物、そして牛の頭に翼と、爬虫類めいた姿。
 禍々しい、と形容するに相応しい、姿であった。
「此れからは、地上ではこの格好を取らせて貰う。我等はシドー様の名の下汝に従い、神意を伝え又教団の力となろう」

 神殿に戻った一行を待ち受けていたのは、穏健派神官達の冷厳で頑なな態度だった。長老達は事を荒立て、魔神を使役して先遣隊を攻撃した彼らの失態を強く詰り、聖域を守る為とはいえ軽はずみにも悪霊の神々に帰依する事を決めた以上、これ以上一緒にはおれぬと申し渡したのだった。出て行きたくば出て行くが良い、聖地は我等で守る、と息巻く強硬派を尻目に、彼らは荷物を纏めてロンダルキアを去っていった。
 そんな彼らを見送るべく、聖地に留まるを決めた者達は神殿の入口に整列していた。彼らを監禁すべきだ、ロンダルキアから出すべきでないと主張する神官達もいたが、ハーゴンは彼らへの侮辱や攻撃を固く禁じた。対立と憎み合いの果てに、教団側が穏健派を追い出したという歴史家の見解は誤りであろう。志を違えたとはいえ、皆同じ学舎で学び、衣食を共にした仲間であった。彼らは握手を交わし、互いの無事を祈った。
「行くのか」ハーゴンと固く握手を交わす赤い耳の同族は、同時期にロンダルキアに上がった神官の一人である。二人は幼少のみぎりより互いを知る仲であったが、殊聖廟に対する見解に関して言えば、二人は最後まで意見を同じくする事はなかった。
「……私には、全てを捨てる覚悟がない。臆病と、笑ってくれ」
 そんな事はない、とかぶりを振った。「皆に宜しく伝えてくれ。もう、二度とは戻れまいが。……父と、弟にも」
 勿論だ、と言い残して、嘗ての学友は神殿を後にした。旧友の背中が、遠くなっていった。
 一方、長老達は若人達を恨めしく思っていたに違いない。教団側に追い出されたのだと喧伝した者が居たとすれば、それは彼らをおいて他になかったろう。若さと力で敵わぬ嫉妬が混じっていたのやも知れぬ。
 出立を見送る神官達への彼らの対応は辛辣そのものであった。若気の至り、とぼやくのは可愛い方で、或る者は握手どころか己の荷物に手を触れさせる事すら禁じた。立場は違えたとて嘗ては教えを学んだ身、最後まで見送ろうと決めていた若き教祖に、長老達は容赦ない面罵を浴びせた。曰く、世界に背を向ける背面論者め。驕慢はやがて、お前の身を滅ぼすだろう。後悔する事になるぞ、と。
 聖地を去っていく彼らを見届け、ハーゴンは一人、その背なが見えなくなるまでその場に佇んでいた。
 聖地を守りたい、世界を救いたいという想いは同じ筈なのに。
 世界を救う為とはいえ、これからもこんな事は数知れず待ち受けているだろう。これしきの痛みに一々悲鳴を上げていては、指一つ曲げるも侭ならぬ。だが。
 覚悟の上とはいえ、若き神官は一抹の悲しみを憶えた。

 こうして、ロンダルキアは一つの志を掲げた若者達の手に握られた。

 最後の一人が神殿を去ってから、若き教祖は改めて残ってくれた皆に向け、一緒に故郷を、家族を捨てる決意をした仲間に感謝の意を述べた。皆の気持ちは幾百万の兵にも増して己を力付けてくれる。一人ではないと思うだけで、己には十二分に過ぎると。
 語り終えて後暫し後、ハーゴンは最後に一言、小さく、済まない、と詫びを付け加えた。己の為に学問を捨て、輝かしき過去を捨て、故郷を、家族を捨てた仲間を、頼もしく、愛おしく思うと同時に、重くも感じる。双肩にかかる運命の重さを思うて、そう漏らさずにはいられなかった。全てを語り終え、ハーゴンは俯いた。皆の決意に漲る顔を見るのが、少し辛かった。
 顔を上げると、皆が穏やかな笑みで若き教祖の誕生を迎えていた。
「今更何を。他の者はともかく、私に詫びは不要ですぞ。捨てる故郷も家族も最早御座いませぬ」常なら浅黒い額に険しく刻まれた皺は、何時になく和らいでいた。
「我々は理想の為、神意の為なら、否、貴男の為ならば全てを捨てられます。貴男は全てを捨てたではありませんか。礼を言われる筋合いは御座いませぬ。我々がそうと決めたまで。我々も、貴男の顰みに倣いとう御座います」常なら軽薄に過ぎる所作も、今の耳には優しく届いた。
「顰みに倣ってはいけないだろう」若き教祖は笑った。「良い処は倣い、間違いは諫めてくれねば。私は完璧ではない」
「今からそんな弱気では困ります。貴男はこれから、世界の未来を担う救い手として先頭に立って戴かねばならぬのに。それに、我等がどう苦行を積もうが、今の貴男の高みに追い付く頃には、貴男は更なる高みを昇っている事でしょう」
「今からそんなに重圧をかけてどうする」幼なじみが態と神妙な顔を作って、軽輩を窘めた。が、直ぐ態とらしさが面からは押しやられた。
「……だが、此からはそうそう弱音も吐いてはおれなくなろう。皆、一丸となって我等の主を支えてやって欲しい。それから」
 ヴァーノンは主の細い肩に厚い手を乗せた。
「弱音は胸の中に仕舞っておけ。辛いかも知れぬが、少なくとも、皆の前では吐くな」



 数ヶ月後。
 教団の教えは砂が水を吸い込むが如くに広まっていった。唯世界は滅びるという在り来たりの預言に留まらず、解り易くありながら精緻な理論で固められた教えは、滅びの中に次代への救いを説き、又、『正教』の 万神殿 パンテオン に馴染まずに打ち捨てられた神々の存在に再び光を当てたが故に人々の心を打った。何せ教義を纏めた教団側は神学研究の世界最高峰を揃えていたから、『正教』の司祭とて、そう易々と論破できる代物ではなかった。無論三国を初めとする各国で彼らの教えが邪教とみなされたが為に、『邪教』と『正教』とが直接論争しはしなかったけれども、邪教徒は暫し神学論争を仕掛けた落書を残し、其れに反論の布告を正教側がする、と言った形での論争があちこちで行われていた。弾圧は厳しさを増していたけれども、彼らは身分を隠し、世界中を飛び回り、口伝で、また一目で教典とは判らぬ形で教えを伝え広めていた。元々共闘を呼びかけていた先住民達は、己の神々を受け容れ自由と尊厳を取り戻す手段として、陰に日向にに邪教徒達を支援してくれた。そして、多くの先住民の呪術師達が、教団に帰依して優秀な神官となった。
 ひしひしと、神の加護を感ぜずにはいられなかった。弾圧も非難の声も、軽々と乗り越えて行けそうな万能感に満ちていた。こんなに教団の教義が人々を捉えている事に、否、教団が必要とされていた事に、教祖たる身でありながらハーゴンは驚きを禁じ得なかった。体調は頗る悪かったが、それでも大事な、此という集まりには無理を押して参加し、自ら 儀式 リチュアル を執り行い、末法の世に生きる道を説いた。窶れて目だけが爛々と光る、異形の若者を、しかし人々は不思議な熱狂を以て迎えた。扇動的な言い回しや身振りを嫌い、自らの為には至極簡素な衣類調度をしか許さなかったが、其処が又、却って貧しい信徒らの心を惹き付けた様であった。
 久方にムーンブルク東部での集会に参加し、ハーゴンは充実した疲労感に満たされていた。今日は調子が良い。猶予を取って良く休んだのと、薬を変えたが良かっただろうか。最早以前の薬湯では咳一つ止めるも適わぬ程、彼の病状は悪化していた。
「ムーンペタでも信者はぞくぞく増え続けているそうで御座います。我等の教えは王家の兵士や文官にまで浸透しており、取り締まりがあっても直ぐに情報が伝わって皆異端審問官の手を逃れているとか。此も ひとえ に、滅びの神の御加護で御座いましょうか」
「ムーンペタ、か……」祈祷師から渡された粉薬を水で解いて、飲む。健康な人間には劇薬一歩手前の、きつい薬である。故に、余程病状の悪化せぬ限りは常用せぬ様、薬師より強く言い渡されていた。「大分前にムーンブルク城でムーンペタの町長に会ったが、今はどうしているだろう」
 立場上、もう会えぬであろうな、と、中身少ない切子硝子を弄んでいると、扉を叩く音が思考を止める。祈祷師が覗き窓から扉の向こうを確認し、鍵を開けて相手を中に通した。通された悪魔神官は仮面を外し、同族の素顔をさらけ出す。
「この仮面は思ったより息が篭もるのが難だな。作り直させよう」
「口の他に、別に呼吸穴を付けたらどうだ」教祖は珍しく軽口を叩いたが、元は親しいらしい筈の悪魔神官は答えなかった。
「これは、お前……否、此れからは聖下、と呼ばねば下に示しが付かぬな……とにかく、貴男宛の手紙だ。教団各支部からの手紙もまとめて持ってきた」
 渡された手紙の中に、ふと、見覚えのある字を見付けて、ハーゴンは封を切った。
「それから、残念ながら、悪い報せだ。教団に直接の関連はないが……。ムーンペタの町長が逮捕、更迭されたそうだ。何でも、ロト廟の建設に反対してあらぬ噂を流し、人心を乱した罪だそうだ。酷い拷問を受けたらしく、戻って直ぐに亡くなったと聞く。……我等との繋がりも疑われたそうだが、生憎、家捜ししても何も出てこなかったらしい。………どうした?」
 封を開けた手紙には、唯短く父の字で、親子の縁を切る、二度と敷居を跨ぐなと書き記されていた。
 胸の病は益々酷く、病身を苛んでいた。

*コメント
 4日で40KBて新記録かも! ウヒョ!
 MSNを通じて某カンちゃんと(某要らん)3日間計9時間余りハーゴンについて語り尽くした結果がこれ。此処までハーゴン萌えパワーが全開の小説はあるまい! ゲラゲラ。カンちゃんのサイトかブログの方に、同タイトルのハーゴン小説が置いてあるので、読み比べると解釈の違いが楽しめるかも知れません、多分。
 久し振りに書いたので本編と矛盾しないか怖々と書いていました。そして本編の矛盾を見付けてしまう馬鹿此処に一人……書き直して来ます……。

 マイゼルというキャラクターは本編や偽典には出てきませんが、PBMでちょこっと出てきた悪魔神官の一人でした。教団崩壊後、転向してメルキドの大司祭として活躍しているという設定がありますが、これから出る事は多分無いと思います。ムーンブルク城の少女は勿論ムーンちゃんです。しかしムーンちゃんはともかくハーゴンはムーンちゃんのことを覚えていないと思います。この時点で王女だとおもっとらんし。
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