DQi外伝 りゅうおうさんアフター


 今日は朝から、困った世界の主を捜して世界中の上から下まで走り回っている。大体はマイラかタイジュかニヴルヘイムと相場が決まっているので、先にマイラとタイジュに寄った。どちらにも訪れた形跡がない以上、世界の主はニブルヘイムにいるのに決まっていた。ニヴルヘイムと一口に言っても此処もまた一つの世界であり広大な中を探さねばならぬとなれば結構な労力なのだが、有難い事に主のお気に入りの場所は決まっている。嘗ての世界の主を幽閉した牢獄で遊んでいるか、さもなければ――あ、いたいた。
「……またここにいたのですか」
「……」
 現・世界の王は、嘗て己が幽閉されていた独房に佇ずんでいた。初めての邂逅で見せた、何処を見ているとも付かぬあの眼差しを地上に向けて。
「さ、帰りますよ。仕事がどれだけたまってるか知ってるんですか。少しはあちこち遊び歩かないで仕事して……」
 が、返事がない。石像の様に身じろぎ一つせず、腰を上げようともしない。唯黄金の眼ばかりが落日を受けてちかと眩いた。
「おーい、起きてますか〜? もしも〜し」
 しつこく呼びかけると、小さな瞬きの後億劫そうに、唇が薄く開いた。
「…………………起きてる。考え事をしていただけだ」
「どんな考え事なんだか……隣、失礼しますよ」
「勝手にしろ」
 了解を得たので、私は主の隣に腰掛けた。用事はさっさと片付けてしまいたいが、少しばかりの時間付き合った処でばちは当たるまい。もしかすると、嘗ての影を揺曳する眼差しに、惹きつけられたのやも知れなかった。
「こうして下界を見下ろしていると、昔の事が嘘みたいですね……遥か遠い昔の夢物語の様な気さえします」
 が、返事はない。急かす様に黙っていると、ため息混じりに返答が帰ってきた。
「つい、昨日の事の様に思い出す。たかだか百と有余年余りではあるが、此処に住んでいたからな」
「す、すいません。そうでしたね。……この場所からずっと、この景色を見ていたんですよね、貴男は……」
 竜王は小さく頷いた。「ああ……だが、同じ場所から見ているのに、見えている物はまるで違う。見てみろ、動きはてんでばらばらだが、皆きびきびと楽しそうに働いている。己の労働が意味を持つと知っているからだ。あの頃はそうではなかった。皆規則正しく、そしていやいや働いていた。―――どいつもこいつも、死んだ魚のような目をしていた」
「その中に、混じっていたのですね……ほんの数年の間でしたが、その中で汗水たらしていたのですよね……今でもあのキャベツの芯の匂いだけははっきり思い出せますよ」
「嫌な物を思い出させるな。あれだけは勘弁ならん。それに働いていたのはお前だけだ。……あの頃は、皆、死んだ魚の様な目をしておったな。あの半ば腐ったキャベツも、死んだ魚を量産するためのエサだったのやも知れぬな……」
 脳裏に当時の記憶がぽつり、ぽつり甦る。責め苦を償いの苦役と見なし、ありもしない罪を背負おうと躍起になっていた、愚かで傲慢な私。その日その日をただ生きるだけの、希望を奪われ堕落した囚人達。囚人達を侮りながら、己も同じ泥沼に浸かっているのに気付かない、看守達。今はもう、その記憶も色褪せ、キャベツの芯とともに萎びた。
「お前にとって此処での8年間は、キャベツの芯に集約されているのだな。ああおぞましい、ぶるぶる」
「まあ、そんな所でしょうね。貴男は……あの手錠ですか」
「そんなところだ。 根の国 ニブルヘイム に放り込まれてからずっと付けっぱなしだったからな、嫌でも目に付く」竜王は蒼白い手首を掴んでは返し、じっと見つめている。其処に手錠はもう無いのだが。
「ええ、勿論。キャベツと並んで 此処 ニブルヘイム 最悪の記憶の一つでしょうね」
 竜王は何も付いていない手首を見せ付ける様翳した。「天空人共め、あんな不細工な鎖を付けおって、開口一番何と言ったと思う? だらだら並んでいる囚人達の列最後尾を指差して、並べとさ。あ奴等、他の囚人達ととことん同じ扱いをするつもり気でいやがった」
「貴男が唯々諾々と隷属を受け容れると、彼等は本気で思っていたのでしょうかね?」
「だとしたら心底此処の空気に毒されていたと言う他無いがな。無論奴らに頭を下げる気なんぞなかったから、鎖を付けたまま天空人共をぼこぼこにしてやった。鎖なぞあっても奴らに組み敷かれるほどヤワではない。が、生憎と、2,3人止めを刺したところで突然目の前が真っ暗になってぶっ倒れた。……後頭部に、ゴムの塊をぶつけられた。奴らはクズだが、そんなのには慣れっこだったのだな。その対処たるや実に堂に入ったものだ。意識を取り戻して手首を見たら、新しい鎖が付けられていた。そしてまた、働けと。無論言う事なんざ聞くものか」
「でしょうね、で、他の囚人達を煽ったと」
 竜王は大袈裟に欠伸を零した。黄昏の日が眩しかった。
「嗚呼、奴らはダメだ。尻が重くててんで動きやせん。それでも、毎日の様に暴れてみせ、奴らがぶっ飛ばされるのを見て、付いてくる連中もいた。 ――だが、奴らは騒ぎに乗じて憂さを晴らしたいだけのクズだった。誰も逃げ出そうとも、戦おうともしなかった。
 奴らは全部、知っていたのだ。だから皆、阿呆の様にへらへらと、抗う姿を嘲笑っていただけだった。何をどんなに足掻こうと、日々を懸命に生きようが生きまいが、何一つ己の行く末を変える事は無いとな。何も知らなかったのは、己だけであった。皆、長い年月の中、何度も、何度も同じ事が繰り返されるのを見続けて来たのだ。
 ――――そうして、私は世界樹のうろの中に幽閉された。
 独房に放り込まれ、最初の内は独房から逃げ出そうと暴れ、鎖を引き千切ろうと苦心し、喚き散らし、吼えていたものだ。だがやがて、其れも虚しい事と知った時、諦めた。腕には16分の1と魔法文字でくっきり書かれた件の腕枷がしっかりと嵌っていて、引張ろうが噛み付こうが、びくともしない。じっと睨み付けたが、睨んだところで鎖が焼き切れる訳でもなし。
 そうして、昂奮が納まって漸く、私は初めて、この世に生を享けてよりその生を奪われ外界から隔絶されるまでの己を顧みる時間を得たのだ。
 今まではそんな事を考える猶予など、己にも、その周りにも与えられなかった。が、今となっては本気で殺しに来る奴も助けに来る奴もいない――何せ、既に死んでいるのだ。胸の内にぽっかりと穴が開いてしまったような虚脱感だけが残っていた。
 何故に生を享け、何の為に死ぬのか。
 何故。それは生まれて初めての、問いであった。考えても、考えても答えは出なかった。唯、意味は無い、としか。
 打ちひしがれ、申し訳程度に藁の敷かれた独房の中に横たわった。身体の下で、世界樹が かしがま しく、得体の知れぬ唸りを上げる。
 ふと、吸い込まれるような感覚に囚われた。重い肉体が、世界樹の中に沈み込んで行く。
 埋もれて行く。溶けて、行く。
 嫌だ。私は叫んだ。
 私?
 否、否、否。私は、わたしは、ワタシハ――――誰ダ?
 世界機構の中の、歯車の一つ、としての生。何処までも全体では無く、ましてや一ですら無く、一部である事を強いられる、生。
 全ては、定められていた。
 私は突如として悟った―――全ては、運命の糸によって操られ、なるべくしてなるように仕向けられていたのだ、己がその中でどんなに足掻こうと、糸の力に逆らえはしない。否、足掻く事さえもが、宇宙的運命ヘイマルメネーによって導かれていたのだ。
 与えられたこの生こそが、己に仕掛けられた究極の陥穽であったのだ、と。大がかりで、滑稽で、 巨怪グロテスクでさえあるそれが、私の全存在を余す処なく包み込み、手足を取っていたのだと。指先一つを曲げるのでさえも、己の意志の所産ではなかったのだ。己のあまりに短い生の全てが、掌の内の出来事であったのだ。
 私は、笑った。生まれて初めて笑った。己にのし掛かる宇宙的運命ヘイマルメネーのあまりの重さに、巨怪さに、そして己の存在のあまりの卑小さに。
 私は、三日三晩笑い続け、笑い疲れて、寝入った。その時でさえ、一滴の涙も、流れる事は無かった。

 私は三日三晩、眠った。眠って、生涯最初で最後の夢を見た。
 全き闇の中で蹲る己の前に、一筋の光が射して、蜘蛛の糸が降りて来る夢だ。
 私は目覚めて直ぐ、その意味について考えに考え抜いた。どうせ時間は有り余っていた。黙想し、何度もその光景を脳裏に喚び起こし、あたかも眼前に糸があり、今手に触れられるかの様にその光景を思い描いたりもした。
 そして、意味を悟った。
 運命は悪足掻きをせよと。再び、運命の輪へと飛び込めと要求しているのだと。
 糞喰らえ、と思った。が、もう一つの想いが私を突き動かした。
 これは、好機だ。
 罠と解っているのだ。敢えて、挑んでやろう。
 私は、運命への戦いを挑むにあたって、三つの誓いを己に課した。
 一つ、好機を逃すべからず。どんな小さな予兆をも見逃してはならぬ。
 一つ、時の永きと、その重さ虚しさに苛立つな。時を猶予とみなし、また無駄にするべからず。
 一つ、憎しみを糧と為し、自らに強いるべからず。一時の力となれど、憎しみは己が眼を曇らせよう。敵は他にいて、憤怒に目を曇らせる己を嘲笑っている。
 己を律せざれば、敵に食い物にされる。目には見えず、話に聞かず、真意を漏らさず黙して語らぬ神に戦いを挑むのだ。殆ど絶望的なまでに微かな希望には違いないが、だからこそ、不思議と、闘志が湧いてきた。――不思議なものだな。
 その日からだ、世界が全く、違った様相を呈して来たのは。突如として世界が光を放ち、一つ一つがあらゆる意味を持って繋がっている様に見えたのだ。――その背後には糸を引く者があって、全てが規則正しく歯車の中に組み入れられている。
 私は識った。世界は、機械的に組み合わさった壮大なる絡繰りなのだと。無意味な物など何も無く、全ては目に見えぬ運命に導かれている、とな。
 それでもやはり、澱んで、全てが停滞し、腐り切った空気と有り余る時は己を徐々に蝕んだ。私は時にだらだらと地上の無意味な労働を眺めて時を過ごし、憤懣ふんまん やるかたない思いに駆られて苛立った。罠、と、解ってはいたのだがな。運命の糸とやらのいやらしさには実に閉口させられたものだ」
 語り疲れたのか、それとも思いの丈を吐き出して、語る言葉を無くしたのか、それとも――私にはこの理由が一番もっともらしく思われたのだが――己の胸の内に仕舞っておくべき物を見せてしまった事への羞恥故か、竜王は口を噤んだ。彼の言葉一つ一つが、私を打ち据えて暫くの間、離そうとはしなかった。
「……全く、何も知らなかったのですね私は。あの頃の私と来たら、己の罪ばかりを思うていたのだから……でもね。貴男の想いだけは、もっと、早く知っていたかった。どうして打ち明けて下さらなかったのですか」
「仕方なかろう。あの頃はまだ、胸襟を開くに慣れてはおらなんだ。お前もそうだったし、余計にな。……嗚呼、ハーゴン悔やむな悔やむな。無知は罪ではない。そして知れば、皆諦める。……諦める前で、良かった。お前が知ったら、全てをすり減らすまで己をいじめ抜きそうだからな」
「当時の私であれば、そうしたでしょう。……無知も、いわば運命とやらの与えた猶予であったのでしょうね、己がその重みに耐えられるまでの。何とも皮肉な事です」
「だろうな……だが、私は結局、運命という考えを捨てた。――あの娘のお陰だ」
「ユークァル、ですね。……あの子も、化けたものですよ」
 私は娘の顔を思い出して、半分は夕日の眩しさ故に目を細めた。血の繋がりは無いが、彼女は私達にとって家族も同然の存在となっていた。形は私の養女となっているが、皆の娘だと私は思っている。
「娘なんてものも、持ってみると可愛いものだろ」
「……貴男が勝手に押し付けたんでしょうが」
 私はふんと鼻を鳴らした。口とは裏腹に、ユークァルの義父という立場を私は存外に楽しんでいる。しかしそんな素振りをちらとでも見せたら最後、後でどんな無理難題を押し付けられるか解ったものではない。故に、決して甘い顔を見せたりはしない。
「クク、確かにな。……そんなに睨むな、結果オーライだろうが……なあ、絶対的運命なぞ有り得ない。大いなる流れを作り出せたとて、一匹二匹は流れに沿わず、流れに逆らって源に辿り着こうとする者達が必ず現われる。あ奴マスタードラゴンはそれを読み違えた。否、はみ出し者なぞ、力尽くで組み伏せられようと、己を過信していた」
「いいえ。既に彼の計画は、最初から綻びを見せていたのだと思います。さもなければ、何故貴男が結局は組しなかったのか、その説明が付かない。その後、彼が手慰みに己の分霊を再びこの世に送り出したのも、己の権能might への不安を抱いたからではないかと、私には思われてならないのです。彼は漏らしていましたね、『あっと言う間に終わってしまったのは誤算だったが』と。気付いていながら、目を瞑った」
 私達は暫く黙り込んだ。日は随分西に傾ぎ、風が冷たさを増した。あれから3ヶ月経ち、暦の上では春になった。が、まだ本当の春には遠い。
「完全を自認する存在が誤算とは、笑止千万。今にして思えば、もはや、あの時点で命運はとうに尽きていたのだろうに。……哀れよな、己を省みる術を持たぬ孤独な王とは。……そうならなくて、良かった」
 双眸が夕日を映して、揺れた。細められた眼差しは、映した日を見てはいなかった。
「そう、ですね……」
「『汝、神座かみくらに座す運命さだめの者よ。天に座せば全てを得られよう』か……やはり、運命というものはあるのやも知れぬな」
「……え?」
 意外な一言に、私は目を瞠った。その一文を、私はどこかで目にしたことがある筈だった。
「何、昔の話よ。託宣に縋るなど、我ながら余程窮していたのであろうな」
「確か、その文句、何処かで見た事があるのですが……」
「そりゃあるだろうさ。お前なら散々読んでおる筈だ。悟りの書の一節にこうある。『汝、神座かみくらに座す運命さだめの者よ。天に座せば全てを得られよう。地に座せば、全ては失われよう』とな」
 私は改めて、己の驚きの理由を知った。なるほど、確かに彼には似つかわしくない筈だ。性格上、悟りの書などに興味を抱くとは終ぞ思わなかったのだ。悟りの書で、託宣。実に相応しからぬ。
「嗚呼、なるほど、書物占いビブリオマンシーですね。そんなものに手を出していたとは」
「う。うるさい」
「別に笑い者にしたつもりはありませんよ。ただ、武人の貴男なら、卜占ぼくせんなぞ女子供のする事だと言いそうですから」
 竜王は私が真顔で答えたのが癪に障ったようだった。バカにされたと受け取ったらしい。
「やはりからかっておるのではないか」
「気の所為ですよ。ただ、せっぱ詰まっていたのだろうな、とね。貴男が己の行く末を見失って、頼るよすがも無く独り懊悩する、そんな様が思い浮かぶばかりです」
「ちぇっ、全く。お前は爺さんと一緒だ」
「爺さん?」
「そうよ。以前、字の読み方を教えてくれた爺さんだ。名前はムツヘタと言ったかな」
「む、ムツヘタって貴男……」
 私が驚きのあまりに帽子を崖下に落としたのを横目に、竜王は服を掻き寄せて縮こまった。
「そう、あの、有名な預言者様だ。何の因果か、これもいわば運命の導き、という奴であったやも知れんな。……うう、寒……」



 世界が光を取り戻した後も、私は内に闇を抱え、憤怒を抱えた侭寄る辺なく光の地を彷徨っていた。世界は闇に慣れた目には余りに眩く、あまりに熱く身を焦がした。
 憤怒は行き所を無くし、私は焦っていた。復讐の念に追い立てられ、逃げ場を失っていた。答えはいつまで経っても得られず、私は己の身の振りを決めかねていた。そんなに昔の話では無かった筈だ。
 どこかの、寂れた祠があってな。厄介な人間共はまず来ないし、まだ聖域としての力は完全には失われていなかったから、魔物達に追われていた身としては有難い場所だった。 当時は常に魔物共に命を付け狙われていて、逃げ回る内にひどい手傷を負って転がり込んだ。暫し身を休めておる内に、奴らは諦めてどこかへと去っていった。ようやく与えられた、僅かな安逸の時に身を委ねる。
 が、それは直ぐに我が手をすり抜けていった。
 微かな物音が、存在を示す。それは気配を殺すでもなく、ひた、ひたと四十万しじまに染み入る、あし音。息を殺し、身構える。
「どなたか?」
 訝しげな、老人の声だった。
 虫螻共か。
 捨て置く事にした。虫など放っておいても、何の害ももたらすまい。
 が、老人の方はこちらを捨て置いてはくれぬようであった。くんと鼻を鳴らす音が四十万しじまに染み込む。血の臭いを嗅ぎ付けたらしかった。
「…血?」
「此処だ、爺」
 どうせ黙っていても何れはあちらが嗅ぎ付けるのは明白。億劫ではあったが、こちらから声をかけてやる。爺、というには、こちらの方がずっと長生きしているのだが。滑稽な状況に苦笑いを零すと、脇腹が酷く痛んだ。傷口を押さえていると跫音が近付いてきて、光が容赦なく顔を照らす。
「おお、これはひどい。このままではいかん、家に来なされ」

 逆らうのも面倒でそのまま連れて行かれた先は、爺さんの家だった。簡素だが柔らかな寝台で、傷の治療を受ける。乾いた草の匂いがするシーツからして、よく手入れの行き届いた家だと判った。色気も素っ気もない内装で、すぐに男やもめと知れた。
 衣服は引き剥がされて洗濯され、窓際に吊されて雫を滴らせている。実際放っておくと何時までも洗わずに、適当に濯いで済ませるクチだったので、これは有難かった。泥まみれの体は綺麗に拭われ、包帯を巻き付けられている。
「人間よ、魔物は……怖ろしくないのか」
 爺さんは金ダライで手拭いを絞って私の身体を拭いてくれていたが、その手を止めて答えた。
「……あー……夢中で、すっかり忘れておった」
 爺さんははっはっは、と豪快に笑うと、再び血に汚れた手拭いを濯ぐ。
 変な爺さんだ。ルビスの様な奴だな、と思った。
 人間の思考という奴は、闇に身を置いてきた己には実に奇異に映った。忌み嫌い、憎む代わりに疎んじ、砂糖菓子の様な親切にくるんで、殺す代わりに遠ざけようとする。これもしかし、力無き者の生き残る術かと思い至り、すぐに納得した。どいつもこいつも厄介事には関わりたくないのだ。理屈は色々あるようなのだが、殺すのが殺されるのと同じ位怖いらしい。
 しかし、此奴は私の苦境を知り、迷わず手を差し伸べた。何の得も期待出来ぬのに、一歩間違えれば殺されるやも知れぬのに、だ。
 世の中にはそういう奴もいるのだとしか、解らなかった。
「それにしても、魔物にでもやられたような傷じゃのう。人や獣の付けたそれには見えんじゃったが」爺さんは絞った手拭いを広げて、窓際にかけた。濡れ手拭いに、赤い痕が薄く広がる。「……訳ありなら一々聞かん方が良いかの」
「なかなか鋭いな」指先が包帯の上から傷を辿る。微かな痛みに、眉間に皺を寄せる。「この世界には魔物はおらぬ筈、であったな。何、出てこられるとしても精々が2、3匹、光眩しき此処アレフガルドに長居は出来まい」
 闇に慣れた身には、此処の光は余りに眩く身を灼く。
「そうであってくれねば困るの。光の玉様々じゃ。……未だ、痛むかの?」
「普通の怪我ではないからな」傷口に怖々触れる。「闇に、耐性が無い。ぶち込まれるとなかなか、癒えぬ」
「それは一応、治療しておいた。その内治るじゃろう」
「……そうか、そいつは助かった」目を閉じれば、全てが再び闇の中へと落ちていった。
 不思議と、闇が心地好かった。

「異形の主よ、お前さんは何者じゃ?」
 爺さんは回復の早さに舌を巻いていた。元来これが普通の筈なのだが、ゾーマの下にあってからは、その事を忘れかけることがしばしばであった。包帯を外すと、疵痕が僅かに肉の盛り上がりを見せる位で傷は殆ど塞がっていた。
 さて、問われて私はどう答えようか迷った。馬鹿正直に話す謂われは無い。が、でたらめをのたまって通じる状況でもあるまい。何せこうして姿を見られている。人で無い事は一目瞭然。結局、本当の所はぼかしつつも、嘘は言わぬ事にした。
「我は名を持たぬ者。闇にあって闇に拒まれ、光にあっては光にかれる者。――これ以上は、答えられぬ」
「やれやれ、何やら謎解きの様相を呈してきたわい」爺さんは長い髭をしきりに撫ぜる。「何ぞ深い業を抱えておるようじゃな。迷うておる者であれば導くが儂の仕事じゃが、生憎とお前さんを観れば、憎しみと憤怒に駆られて己を見失っておるようじゃ。今のそなたでは導きを示したところで聞きゃすまい」
「観る?」
「儂ゃ人相観じゃでなあ。お前さん、悪党面をしておる」
「……」
「冗談じゃ。儂ゃ人相は解らん」爺はさらりと言ってのけた。食えない奴だ。「お前さんが寝ている間、ずっとうなされてうわ言を呟いておったからじゃよ。『人の子の癖に』だの、『殺してやる』『何故、見捨てた』だの、恨み言ばかりぬかしておった」
 私は口を噤んだ。うなされていたとはいえ、そこまで口にしてしまっていたとは。これでは正体が割れるのも、遠くはあるまい。
 これ以上、此処にはおれぬ。
「……そうか……」
 身を起こし、窓際に干してあった服を引き寄せ、被る。「世話になった」
 ヒト如き、虫螻共に頼るなど、助けを借りねばならぬなど、愚かしい。血迷うにも程がある。傷口は未だ疼くが、構ってなどいられなかった。まだ足が巧く利かないので、びっこをひきながら。
「待たれよ、御仁。その身体で出ていくのか」
 ドアノブに掛けた手が、動きを止めた。
 小さく、かぶりを振る。
「解った。強情な奴じゃの」爺さんは溜息を吐いた。
「もう聞かんから、もう少し寝ていけ。今また同じ連中に襲われたらどうする」

「儂の名はムツヘタ。名乗りたくなくば名乗らんでいいわい。名無しの権兵衛殿、で。何が知りたいのじゃ?」
 もう怪我は完治していた。出ていっても良かったのだが、居心地が良かったのと、出て行けと言われなかったので勝手に居着いている。居候しているのだから家事を手伝ってやろうだとか、対価を支払ってやろうなどとは思わなかった。今にして思えば、名前も明かさず正体も知れず、只飯を喰らっては寝るばかり。さぞかし傍迷惑な居候であったに違いない。
 ムツヘタに入れて貰った茶を啜りながら、暫し考え、口を開く。
「――光を我が物とし、願いを天に届かせるには如何すれば良い?」
「光が欲しい、と言われてものぅ……お前さんの望む光が一体どんなものか、儂には解らぬでのう。謎かけごっこを挑まれても困るぞい」ムツヘタは顎髭を撫ぜながら、神妙な顔付きで本を閉じた。髭を撫ぜるのが、爺さんが困った時の癖だった。「本ならいくらでもここにある、勝手に調べろ」
「……生憎、字が読めぬ」
「何とまあ」ムツヘタは目を丸くした「それは難儀なことじゃ」
「不自由した事は無い。それに……誰も教えてはくれなんだ故」
「不自由していない、とは言えんじゃろうなあ」ムツヘタは肩を竦める。「字が読めねば、道しるべも解るまい」
「その時は」残りの茶を啜り、底に残ったかすをカップの底で回す。茶のかすが、一周して輪を描いた。「身を潜めて、旅人が通り過ぎるのを待つ。会話を聞いておれば、奴らの行く先が解る」
「こりゃ参った、降参じゃ。じゃがの」ムツヘタは目をぱちくりした。
「文字は憶えたが良い。読めれば世界が広がる。解らぬ事も人の手を煩わせずに知る事が出来るしの。それとも、人に教えを請うは好まぬか」
「人に物を教わった事が無い。それに、誰に何処で教わればいいのか解らぬ。この風体では、教えを請う前に逃げられてしまうであろう?」私は己の角に視線を流す。人に教えを請うなど、言われるまで想像だにしなかったのだが。
「仕方ないの、儂が教えてやろう。……やれやれ、とんだ厄介者を拾い込んだもんだ」

 それから暫くの間、ムツヘタは私に毎日字を教えた。初めはこんな事が何になるのか良く解らず、また文字という物がさっぱり解らずに苦労した。大して学習意欲が無かったのも手伝って、とっかかりには随分な時間を要したが、一度憶えれば後は話す事を書き言葉に置き換えるだけの事。解る様になれば学ぶのもそれなりに面白く、文字を憶えて一ヶ月半の内には、普及版の悟りの書を読破する程度にまで至っていた。
「いやはや、そこまで読み書きれば十二分じゃ」
 ムツヘタは手を叩いて称賛した。
「感謝する。実に役立った」私は本を閉じ、書き損じの羊皮紙を丸めて投げる。「この悟りの書とやら、実に興味深い。表をなぞるだけならば何やら小難しい教理哲学の類を説くつまらぬ本だが、薄皮を剥がし行間を覗けば宝の山」
「つまらなくは無かろう」ムツヘタは眉を顰めた。ふさふさした眉毛が小さく上下する。
「この悟りの書は普及版じゃからな、本当の悟りの書はもっと分厚い。流石に実物を見た事は無いが、原本は中身だけでなく本そのものが魔力を持っておると聞くぞい。……で、どう、宝の山と?」
「それは秘密だ。だが、その深奥をほんの僅かながら垣間見たのは確かであろうな」
 私の様子が自慢げに見えたのであろう。爺さんはぐっと身を乗り出す。
「ほほう! そいつは言ったの。で、どうじゃ、己の行く末は定まったか? 権兵衛殿」
「権兵衛はやめろ」爺さんは何度言っても、己の名を名乗らぬ限りは名無しの権兵衛だと言って、私を権兵衛と呼ぶのを止めなかった。小癪な爺だが、食わせて貰っているのだから仕方ない。
「……まだだ。字を憶えるのと悟りの書を読むのに精一杯で、考える暇も無かった」
「いっそ、ずっと本を読んでいたがいい。そうすれば、つまらん恨み辛みなんぞ忘れてしまえるかも知れんぞ?」
「つまらん、だと?」
 私が凄んだので、爺さんは慌てて本を閉じた。「あ、いやこりゃ失礼。何にも事情を知らんのに勝手な事を言ってしもうた。とにかく、そろそろ行く末を決めてくれん事には、いつまでもお前さんを養ってやるわけにもいかんでな」
「養って貰う筋合いも、養ってくれと頼んだ憶えも無いが?」
 怪我が完治するまではいろと言ったのは奴の方だ。当時の偽らざる本心のつもりで何気なく言ったつもりが、ムツヘタは呆れ果てて暫し口をあんぐり開けていた。が、やがて眉に埋もれた小さな目を瞬く。
「な、何にせよ、以前より余裕が出てきたのは確かじゃろ? そろそろ、身の振り方を決めねばの」
「うむ」
「が、儂はお前さんの行く末について口出しは出来んでな。お前さんが誰かも解らんままいい加減な事は言えんし、お前さんはお前さんで秘密主義故、色々と知られたくないこともあろう。……己の行く末じゃ、己で観てはどうかの?」
「どうやってだ?」
「うーん、例えば、託宣を得る、とか。……書物占いビブリオマンシーなんか、簡単でいいぞい。本の頁を捲って、指輪を落とすだけじゃ」
「阿呆か。占いなぞ女子供のやる事だ」私は鼻で笑った。「御免被る。こんな紙切れ一つに己の運命を託せるものか」
「ほほう? 以外と根性ないの〜。おおむ ね、意に添わぬ結果が出ては困るからであろうが。どうじゃ? 図星じゃろ」
「何だと」私は爺さんから悟りの書と指輪を引ったくった。「こんな物、何が怖いものか。今やって見せてやるから良く見ておけ」
「ウックック……解りやすいひねくれぶりじゃの……おっと、知りたい事をしっかり定めろよ?」
「畜生、嵌めたな爺ぃめ。まあ、良い。この際乗ってやろう。当たったら儲け物だ。『――光を我が物とし、願いを天に届かせるには?』」
 目を瞑って、適当に本を開く。開いた頁の上に指輪を落とす。指輪は本の上を転がり落ちる事無く、ある一文を示した。
『汝、神座かみくらに座す運命さだめの者よ。
 天に座せば全てを得られよう』
 だが、その一文は、己が此処で過ごした平穏に埋もれて忘れかけていた何かに触れた。それが何かは解らなかった。が、冷ややかに、深く己の臓腑を抉る、見えぬ刃には違いなかった。
 銀の指輪が、本の上を滑り落ちて床に転がった。
「……待て、何処へ行く」
「預言なぞ、女子供の喜ぶものだ」
 椅子を蹴り、ドアノブに手を掛ける。出ていこうとして、足を止めた。
「世話になったな。……己の行く末は定めた」
 扉を叩き付ける様に閉めた。呼び止められた様な気がしたが、振り返らなかった。

 あれは、光の玉を奪って直ぐであったかな――― 一度だけ、爺さんを訪ねた。何故、訪ねたのかは未だに解らん。
 正体を悟って、爺さんは蒼醒めていた。助けなければ良かった、と思うていたのであろうな。
「おお、何という事を……お前は、何というとんでもない事をしでかしてくれたのだ」
「これは、元々私の物だ。私が受け継ぐべき物だ。私は、望んでいた光を得た。……それを知らしめたのは、お前の教えてくれた文字だ。お前が与えてくれた文献だ」
「あの文句には続きがある。普及版には無いがの。
『……天に座せば、全てを得られよう
    地に座せば、全ては失われよう』
 お前さんは全てを失うつもりなのか」
 私は冷たく笑った。
「破滅を待っているつもりなぞ毛頭無い。ましてや、何時までも地に座す気も無い。唯」闇色の雲に覆われた空を見上げた。空は嘗て見た闇よりも、ずっと明るい。「唯、己の失った物を思い知らせてやりたかった。跪かせてやりたかっただけだ。爺さん、お前は地を這い蹲り、泥水を啜った事があるか。石もて打たれた事があるか。私には、あった」
 ムツヘタの爺さんは黙っていた。ただ、小さくかぶりを振っただけだった。言っても聞かぬと、解っていたのやも知れぬ。
「……儂ゃ、お前さんの味方はしてやれんぞ」爺さんは暫く黙っていたが、ようやっとそんな事を漏らした。
「そんな事をぬけぬけ頼みに来る程阿呆だと思われていたのか。お前の卜占如きに己の運命を左右されてたまるものか。だが、お前には感謝しておるぞ、ムツヘタ。お前のお陰で、私は力を得たのだからな。見せてやろう、お前が垣間見せてくれた、深奥のほんの一端だ。――――ギガデイン!」
 闇が閃光を放った。耳を劈く轟音、そして、落雷に燃える森。明々と照らし出される、光と影。
「お、前さんは……一体、一体何者なのだ……」呆然と立ち尽くす爺さんに、背を向け歩き出す。
「言ったであろう。闇にあって闇に拒まれ、光にあっては光にかれる者だと。――これ以上は、聞かぬが良い。この世を闇に閉ざした邪悪の化身、とでも思うておけ。お前ら虫螻共にとっては、そうであるに違いないのだからな」

「ふふふ、何というか……さぞかし困ったでしょうね、ムツヘタは。実に貴男らしい」
「畜生、結局笑い者にする気か。嗚呼、けったくそ悪い。帰るぞ」
「そう仰って下さって、私としても助かります。貴男の僕を過労死させたくなければ、とっとと帰って仕事を片付けて下さいね」
 嫌がるのを知りつつ、口端を片方、わざとらしく釣り上げてやる。
「お前、そうなるのを見越していたな! ちっ、嫌な奴め……」
「ええ、勿論。口五月蝿く申し上げて動く方では御座いませんので」
 無論そんなつもりはないのだが、自ら帰ると言ってくれたのであれば私としては好都合であった。帽子はもう良かろう、後で届けて貰えばいい。私は腰を上げ、藁屑を払い落した。背後で竜王がぶちぶち、いっそ過労死してしまえ、だの、ああ、死なないんだったな、だのとぶちぶち文句を垂れている。全く、頼みもしないのに人を勝手に神々の序列になんか加えるからだ。私が知らないと思ってる様だが、お生憎だ。勝手に人の冒険の書を読むに至っては、八つ裂きにしても飽き足らん。
 腰を上げた我々に、地上から呼びかける声があった。「おーい、ダンナぁ! またサボりかい」
「私はサボりじゃありません。一緒にしないで下さい」
「よ、カンダタ。お前もか。ハーゴンお前は黙ってろ。……とことん失礼な奴だな。」
「人聞きの悪いこと言っちゃいけねぇや。ダンナと違ってオレたちゃ、ちょいと骨休めしに来ただけでさ」
 私は思わず噴き出した。「ぷ、クク……カンダタにまで言われては世話ないですね。さ。帰りますか」
「う、うるさいっ!」
 私達が天と地を挟んで言葉を交わしていると、何やら土埃を巻き上げて地上を駆け抜ける影一閃。むむ、何事かと目を凝らせば、見覚えのある鎧兜がカンダタ目掛けて一目散。
「キッサマー! またこんな所で油を売っておるか! まだ反省しておらぬなこのうつけ者!」
「うわ、キューリの姐御だ!」遅ればせながら接近するキューリ嬢に気付きカンダタは逃げ出す。が、敵も然る者引っ掻く者。追いかけっこならキューリ嬢の方が一足も二足も速かった。風の如き俊敏な動きでカンダタを猛追し、カンダタに体当たりを喰らわせてからの反省棒8連打。
「うりゃ、うりゃ!」
「ギャー! か、か、かんべんしてくれ〜」
 ぼこぼこに殴られ頭を抱えて逃げ出すカンダタを睨み付け、キューリ嬢はふんと鼻を鳴らす。「ふんっ。とっとと働けうつけ者が! 働かざる者食うべからず、じゃ! 腐ったキャベツで良ければ幾らでもサボれい!」
 キューリ嬢の啖呵に、周りの囚人がどっと湧いた。今はもう、根の国ニヴルヘイムでも萎びたキャベツにカビの生えたパンを食べさせられる事はない。
「ぷっ、わあっはっはっはっはっ、キューリと泣く子には勝てんからな」
「貴様もじゃ! 天子たるもの、とっとと天空城に戻って己の職を全うせんか! やれやれ、上に立つ者がかほどにぐうたらでは、民も泣こうというものよ」
「黙れヘチマ! とっととヨメにいけというのがまだわからんか!」
「フン、新しき世界の支配者がこれでは、妾とておちおちヨメにも行けぬわ」キューリ嬢はあっさり世界の支配者を切って捨てると、ふんぞり返って仕事場へと戻っていった。
「アハハ、ハハハハ……さて、帰りますか。今夜のメニューはリカルドのタンシチューですよ」
「む、エサで釣る気か。しょうがない、罠と知りつつも乗ってくれよう」
「その意気ですよ」私は竜王の背中を叩いて先へと押しやった。明日は良い天気になるだろう。

*コメント
 サイトの5周年記念に配布したデジタルノベルのウェブ版。大分加筆訂正しました。と言っても書き上げてからちゃんと読み直してないんで、また直すかもしれませんが(-x-;)ダウンロード版の再配布は多分しないと思います。やるとしたらメールで個人送付でしょう。構想から2週間くらいで書き上げた(筈)なので、私的には(地の文がなかったとは言え)当時としては格段に早かったんじゃないかと。
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