第VII章 天空城 〜世界は涙を流す者に優しいか?

 労るような仕方で――殺す手を見た事もないような者は、人生を素朴に眺めてきた者だ。
――――――――――――――Friedrich Nietzsche「JENSEITS VON GUT UND BÖSE」〜

 今の気持ちを一言で言うと、ドキドキ半分、ワクワク半分ってとこかな。
 ちょっと前までは、世界で一番つまらない国の、世界一価値のナイオレだったのに、今のオレはさ、世界一おもろい奴らの一員なんだぜ? 信じらんないよな。故郷にいたら一生見る事の無かったようなモン、一杯見れたし。星降りの夜は本当に綺麗だったし、まさかあの針の城が一日で崩壊するところが見れるなんて思ってもなかったしさ。ホンット、最高だよ。
 そしてオレ達は、今、天空城に向かってる。
 そこには、神様の竜、マスタードラゴンっていう奴がいて、世界を支配してるんだって。オレなんかさ、世界を支配してるのは妖魔公だってずーっと信じてたんだぜ。他にもっとすごい世界の支配者がいるってだけで驚きなのにさ、竜王のおっさん(あ、これ内緒な。おっさんていうと怒るんだよ)はそのマスタードラゴンって奴の子供なんだって。すごいだろ。
 そんな奴と旅してたってだけでワクワクもんなのに、その世界の支配者に今から会いにいくって言うんだぜ。コウフンしない方がおかしいよな。オレ、昨日眠れなかったもん。会ったら何て言っちゃおうかな。サインもらったりして。でへへ。これって自慢できると思わない? すごい事だもんね。フツーの生活してたら世界の支配者ってなかなか会えないもんだと思うんだよ。そうでしょ?
 なのにさ、おいちゃんもハーゴンさんも深刻な顔しちゃって、何思い詰めてるのかね。何か色々事情があるとは言ってたけどさ。
 あ、ユークァルはいつもと同じ調子だけど。でもさ、ユークァルって、オレ、ちょっと可愛いと思うんだ。一事が万事あの調子だから、好きとか何とか言ってもまだ通じないと思うけど。いやぁ、これホント内緒だよ。ホント。マジだって!

*  *  *

 私達は、とうとう、天界に辿り着いた。
 ロンダルキアを経て、ようやく。
 私達は運命に弄ばれ、故にこの手を血に染めた。
 私達は世界の秘密に触れ、それ故に抹殺された。
 ようやく今、我らの運命をその手に握って来た者と、相対する時がやって来たのだ。
 だが、旅の扉を経て私達が放り出されたのは、大方の予想に反して、地平線すら霞んで見えない一面雲の上のみの世界だった。
「…何だ、これは…」
「うわーすげー! この上、歩けるのかな?」オルフェは怖々雲の上に足を降ろすと、その場で足踏みした。「これ、歩けるよ。ちょっとふかふかしてるけど。おもしれー! …あれ? もしかして、喜んでるのオレだけ?」私達が呆然とその場に突っ立っているのを見て、オルフェははしゃぐのを辞めてしまった。
「いや…ただ、想像していたのと、余りにも違い過ぎただけだ」
「想像って、どんなの? オイラにはこれだけで十分楽しいけど」
「それはだな…天空人共が、ニヴルヘイムに比べれば、地上だって天国みたいなものだなんて愚痴っておったのを聞いていたから…想像しておったのは何というかそのぅ…一面色とりどりの花が咲き誇り、蝶やら鳥やらが舞っているような場所だったのだ…」
「以外と平凡な想像なんですね。貴男の事ですから、もっと突飛な事を仰るのかと」
 竜王は余計なお世話、と軽いげんこつをくれた。
 しかしながら、実際我々は途方に暮れていた。地平線も無く、太陽も無く夜でもないので星も月も無く、ただ空と雲海だけが無限に広がる、ここはそんな場所だった。太陽は無い訳ではないのだが、日の光は雲海の下から射しているので、太陽の位置が今何処にあるのか、昼か夜かも解らない。それに皆、前の世界で色々あり過ぎて疲れていた。
「やーんぴっ! もう休もっ! それにここだったら、ふかふかしてるから寝袋もきっといらないよ。寒くも暗くもないから、火元もいらないしさ」オルフェは荷物を投げ、さっさとその場にしゃがみ込む。
「そうか…何かおかしいと思っておったのだ。もう初冬だというのにな。ここには季節も無いのか…」
「風も吹いて来ませんね」ユークァルが隣にぺたんと座り込んで、人差し指を翳した。
「温泉もないのかな?」オルフェがあくびをした。「結局入れなかったね、マイラ温泉」
「馬鹿、ある訳無いだろう」竜王もごろんと寝っ転がる。「どうせなら、入っておけば良かったな」
「歌をさえずる鳥も、草も虫も川も海も何もないのですね…」
「風が無いから、雨も降らないんですね…」ユークァルもみんなと一緒に、川の字になって寝っ転がった。「このままだと、天空城に辿り着く前に飢え死にするかも知れませんね」
「お、オイラそんなのヤダよ! か、帰ろうよそれ!」
 オルフェが突然臆病風を吹かせたので、みんな笑った。笑って、それから、押し黙った。
 天空城に辿り着こうが、このまま引き返そうが、無事にいられる保証など何処にもないのだ。

「ねえ、ユカ」休憩中のくつろいだ一行の中、オルフェはユカに問うた。
「何ですか?」
「みんな、色々覚悟とかあるみたいだよなあ。ユカは、ある?」
「覚悟…ですか?」
「オレ、ゼンゼンないんだ。ただ色んな所が見れるのが楽しいし、他に行くところもないし、みんなと一緒にいるのが楽しいからからついてきただけで。ま、お荷物にはなってないみたいだからいいけど…オレ、場違いなのかなあ。そんなのでいいのかなぁ…」
「さあ…いいんじゃないでしょうか」ユークァルは例によって全くの真顔だった。「二人とも、だめだったらだめって、はっきり言うんじゃないでしょうか。あたしには、楽しいってどういうことかわかんないですけど、ただついて行くって決めたから、ついてきてるだけです。それでいいと思います。他の人には、他の人なりの考えや事情があるんだと思いますし、邪魔しなければいいのかな、って思います」
「そっか……多分さ」オルフェは青空を見上げた。「ユカはみんなの事が好きなんだよ。ずっと一緒にいたいって、そーゆーことだと思うよ、オレは」
「そうですか…そうかも、しれませんね」ユークァルの考え込む様な仕草。オルフェはそんな彼女のいつもの仕草を、可愛いと思う。
「きっとそうだよ」オルフェはその後「オレもユカと一緒にいたいな」という一言を口にする好機を狙っていたのだが、結局照れ臭さと自信の無さ、事態の深刻さを言い訳にして引っ込めてしまった。言った所でどうにもならない、と解っていたからでもあるが。

*  *  *

 目が醒めると、風景が一変していた。
 昨日は霞がかかっていたのと、余りにも緩やかだった所為で解らなかったのだが、どうもこの辺りの地形はある一定方向に向かって傾斜しているらしかった。我々が坂を上っていくと坂は徐々に傾斜を増し、坂を上り切った遥か彼方に、雲に覆われた堅牢な白亜の城がぽっこり姿を現した。
「やったあ! あれが天空城なんだ! オレ達飢え死にせずにすんだんだ〜! ヒャッホ〜!」
「どうして気付かなかったんでしょうか…私達は疲れ過ぎていたのでしょうか? それとも」
「どういう仕掛けで、あの馬鹿でかい城を隠しておったのだ…」竜王までが呆気に取られて、雲から剥き出した城の尖塔を眺めていた。「オルフェ上等兵、双眼鏡貸せ」そんなもの無くとも見えように、気分を出すつもりなのか、オルフェから無骨な双眼鏡を受け取って城を、それから辺りを見回す。
「待て、何じゃあれは?」竜王が我々の来た方角を指差したので、釣られてそちらを見る。だが、生憎と私の悪い目には何も映らない。
「うーん、私には解りかねますが」
「誰か、いるみたいですね」ユークァルもまた、双眼鏡を覗き込む。
「合図を送ってみようぜ。おーいっ!」
 私が双眼鏡を受け取り、また、相手が我々に気が付くまでにはもう少し待たねばならなかったが、それでも流石にその頃には、団体様御一行がルビス様とその連れであると遠目にもよく解るようになっていた。我々は互いに手を振り合図を送り合い、ルビス様達に声をかけて励ました。
「はあ、はあ…先に行ってしまわれるなんて、あんまりにもつれのう御座いますわ。事が一段落したら、お供すると決めておりましたのに…そんな、ひどいっ」
「おいおい、勘弁してくれ。誰が供をしてくれと頼んだ?」竜王は背後で挙がる冷やかしなぞ聞かぬフリを決め込んだつもりらしいのだが、突き放した調子にテレが混じっているのが何とも言えずおかしい。笑いを押し殺せないでいると、思いっきり拳固を食らって、私はよろめく。
「そうおっしゃると思っておりましたわ。…でも、皆様が御無事で何よりですわ。皆様の御陰で事態も一段落したようですし、感謝の言葉もありませんわ」
 ルビス様が深々と一礼したので、私は慌てて顔を上げるよう即した。「とんでもありません、ルビス様が私に雨雲の杖を託して下さったからこそ…」私はその先を言い淀んだが、結局その続きを漏らした。「…もう少し、ましな結末があったかもしれない、と思うと、悔やんでも悔やみ切れません」
「良いのです」ルビス様の面差しに何処か悲痛にも思える影が射したが、彼女は振り切る様に長い髪を梳う。
「だが、付いてきてどうするというのだ? そなたには関係の無いこと」
「いいえ、そうは参りませんわ」ルビス様の面差しには、ロザリーヒルで見せたようなあのおポンチさは微塵も感じられなかった。「わたくしも、知りとう御座います。愛する人の事、その人の血を引く我が子の事、どうしてわたくし自身と関わりないと申せましょう? 寧ろこの事、わたくしもこの件に関しては当事者と思っております。どうしても止めたいと仰るのでしたら、力尽くででも押し留めようとなさるが宜しいですわ」
「…ふん、そなたの根性の座り具合は昔から全く変わっておらぬわ。好きにするが良い。だが、一切口は出すな。戦いにも、加わることは許さんからな。いいな?」
 竜王は投げやりにいらえて、結局同行を許可することにしたらしかった。

 我々は再び天空上を目指して歩き出した。吹き始めた微風は滲む汗を攫っていく。風に導かれ、助けられて、私達は緩やかで、遠く長い道程を踏み締めて行く。目に見えているのに、だからこそ遠い、遠い道程。
「来ると、解っているのであろうな」
「でしょうね…」風に乗って来た、半ば独り言めいた呟きに、此方も聞こえなくて良いつもりでいらえを返す。
「これってェ、まるで、焦らしプレイみたいですぅ〜マロン、チョー疲れましたァ〜」
「ま、マロン殿、斯様な下賤の言葉を何処から憶えてくるのじゃ…」
 キューリの狼狽振りに、横でオルフェが噴き出した。キューリ嬢は軽く睨め付けたが、やがてふんと小さく鼻を鳴らして再び歩き始める。実際、焦らされている様に感じているのは私も同じだった。何処か、伺い知れぬ何者かの意図を其処に嗅ぎ取るは、穿ち過ぎであろうか?
 微風が、先程までには無かったごく微かな金属臭を拾った。私はオルフェに、双眼鏡を見るよう促した。
「…あれ。あんなの、いたっけ?」
「あんなの?」竜王はオルフェに双眼鏡を要求する。手渡された双眼鏡を覗き込み、眉根を寄せる。
「…お出ましだ。そうそうすんなり行くとは思っておらなんだが…やれやれ、どうあっても血を見ねば済まぬようだな。面倒なこった」
 遥か前方は天空城の正面にて、我々を待ち受け立ちはだかる天空兵達の姿が、其処にはあった。

 兵士達は皆が皆重武装に身を固め、一歩も我々を通すまいと待ち構えていた。天空兵の規模、武装全てに刃を向ける彼等の決死の覚悟が伺い知れる。が、彼等一人一人の顔が判別し得るまで距離を詰めた時点で、よくよく一兵卒一人一人の面構えを観察すれば、覚悟の仮面の内に隠蔽された犬死にへのやるせなさ、とでも言い得るものが滲み出ていたのに気付かされた。我々は互いに、十二分に距離を取って相対する。
「どうします」私は軽く肘鉄を食らわす。
「どうするもこうするも……」竜王は頭をぽりぽり掻いた。「退きそうにないだろ、こ奴等」
「私に、お任せ願えませんか?」ルビス様が私達の前に進み出た。「彼等も私にとっては同じ命です。無駄死にさせる訳には参りませんわ。…説得、してみます」
「待て」竜王はルビス様の腕を掴む。「我々と共に在るだけで、奴らにとってはお前さえも敵…」
「それは解りませんわ。例えそうであっても、いきなり私を狙い撃つような真似はしないと信じております」
 ルビス様は手を振り払い、彼等の前へと進み出た。私達を庇うよう、両の手を広げ。
「わたくしが命じます。刃をこの方達に向ける事は、私が許しません」
 ざわりと、大気が揺れた。押さえ込んで来たで惑いや不安や違和感、その他諸々の感情が大気に滲み出す。明らかに、志気は低い。
 だが、蟠る物を振り払うべく、士官らしき天空人の一人が一歩前に進み出た。眉間に険しく一筋の皺を寄せ、刃を向けぬまでも手にした槍を硬く、握り締め。
「お下がり下さい、ルビス様。例えルビス様の命でも、ここで我々が退く訳には参りません。奴らは我々の敵なのですぞ」
「わたくしにとっては大切な人ですわ」
「我々は、ルビス様に刃を向けるを良しとは致しません。…ルビス様。此処はどうか、どうか我々の立場を察して下さい。我々が、貴女に刃を向ける訳にはいかないのです。例えその所為で、我々が全滅したとしても」
「そんな訳には参りませんわ。私にとってはあなた方も彼等も、等しく大切な命なのです。どうして命を奪い合わねばならないのですか」
 ルビス様の腕が、不意に後方へと強く引かれた。
「…もう、良い」
「でも」
 ルビス様のすがる眼差しを振り切り、かぶりを振る。「下がれ。ルビス、もうお前の手には負えまい。…どうせ刃を交えねばならんのであれば、余り追い詰めても仕方あるまいて」竜王は振り返り、我々を制した。「お前達もだ」
「我々も、ですか?」
 小さく頷く。私達は結局、ルビス様の手を取って後ろに下がった。
「…これは、ゲームじゃないんですか?」
 一人前に進み出、顔を覗き込んで来たユークァルを見下ろす。「ああ。確かにゲームではない。だが、お前は手を出すんじゃないぞ」
「あたしじゃ、戦力にならないからですか?」解らない、と小首を傾げるユークァル。
「それも無くはないが…これは、私の問題だからな。お前達には関わりのないことだ。だから、何が起こっても手は出すな」
「……はい」ユークァルは暫し考え込んだ様子だったが、結局小さく頷いて、取り出したナイフを再びしまい込んだ。ユークァルが下がったのを見届け、竜王は一歩前に進み出る。
「貴様等の目的は我唯独りの筈。そうであろうが?」
 天空人達が石の如く武器を構えるのを見届けると、翼を広げ組んだ腕を解く。
「口さえ聞きたくないと言うわけか。つまりは…それで良い、と言う事だな?」
 竜王は返答を待たずに、その身を巨大な竜と為した。―――待ったところで、返って来そうには無かったのだが。見る者総てに畏怖を喚起せしめるその姿は、しかしながら、魅せられずに居る者もまた、そうは居なかろう。煌めく龍燐が、眼に眩しい。
「百有余年の間に、色々学ぶ所はあった」
 金の双眸が眼下を睥睨する様は、既に彼が我々とは別の次元に生きている事を思い知らされる。並の生き物ならたじろがずには居られまい。実際に、兵士達の志気は、表情を見て取る限りでは明らかに衰えつつあった。
「死にたくない者は十数えるから、その間に逃げるが良い。恥じる事など何も無い。無駄に生命を失う必要はあるまい。だが、逆らう者は生きて帰さぬ。よもや、その覚悟は出来ておろうな?」
 しかし、天空軍の兵士達はまんじりともせず動こうとしない。
「 10…9……8…7……6…5……4……3………2……1…」
「ゼロだ」
 ひゅうっという、息を吸い込む音が聞こえて、私は唾を飲んだ。
「竜王のブレス攻撃を受けた場合、天空軍の損害は96%と推測されます。この場合天空軍の勝率は0.006%以下」聞き覚えのある男の声。「退避して下さい」
 吸い込まれた息は紅蓮の炎となって襲いかかる事無く、そのままため息となって消えた。「そろそろ来る頃だとは思っておった。久しぶりだな」
 蒼い甲冑を身にまとい、宙から私達と天空軍の間に降り立ったのは、誰あろう、伝説の勇者ロトであった。ロトは父親の呼び掛けに応える事無く、中段に剣を構えた。兵士達のどよめきが湧き起こる。
「貴様とは、何れ決着を付けねばならんとは思っていた」
 矢張り、返答は無い。兜の庇を降ろした隙間から、虚ろな眼だけが僅かに覗き見える。その眼球さえも標的(ターゲット)に釘付けで、些かのぶれをも生じさせない。
 世界という壮大な機構の、精緻な歯車。
 世界機構の一部である事を辞めた出来損ないの我々と、否応なく組み込まれた完璧な部品――そんな比喩が脳裏を過ぎる。我々は所詮、世界の外にはみ出した、無頼の徒に過ぎぬ。だが、だからこそ、からくり世界の歯車如きに――敢えて、そう呼ぼう――足止めを喰う訳にはいかない。世界を操るからくりの全てを暴き立て、企てを頓挫させて、驕れる造物主に一泡吹かせてやらねば!
「おやめ下さい! どうして血の繋がった父と子で殺し合わねばならないのです。どうか…二人とも、もう、やめて!」
 縋るルビス様を振り切って、竜王は言った。「…そのセリフ、糞親父殿に言ってやってくれ」
 目を伏せるルビス様の肩に、私はやや躊躇を覚えつつもそっと手を置いた。
「あの二人は、互いに、互いの存在を許容し得ないのです。世界が変わらない限りは。そして、世界を変える為には、世界の歯車を止める為に、涙を止める為に、私達は生き残らねばならないのです。…どうぞ、お許し下さい」
 ルビス様は唇を噛み締めていたが、やがて祈るよう胸元で手を組んだ侭面を上げた。二人の決着を、見守ろうと決めたらしかった。

 巨躯は様子を見届けると再び我々に背を向け、地へと影を落した。長い首が前へと伸び、黄金(きん)色の目が油断無く周りを睨め回す。視点の先が、唯一点に集中する。
 先に仕掛けたのはロトだった。地を蹴り、背中の排出口から青白い炎が吹き出す。高く、高く真っ直ぐに、天空の更なる高みへと昇り行く鎧武者の身体。蒼白い炎は真っ直ぐ、天空よりの鉄槌の如く頭上へと降り注ぐ。巨竜はぐっと首を横に反らし、身を低めて躱すとその巨躯を大きく(ひね)って牙を剥く。バーニアの煙がふっと途切れると身を反転させ、ロトは牙から逃れていた。
 変化したのは失敗であったやも知れない、と私は二人の戦いを見守りながら感じていた。余りにも的が大き過ぎて、躱し切れないのではないか、と。雨雲の杖を握り締める手に、力が籠る。
 だが、どうやら竜王の視点・思考は私とは異なっていたようだ。あちらは百戦錬磨の魔王様、私はと言えば象牙の塔の住人であるから詮無い事ではあるが、私がそれに気付いたのは、それでも随分事が進行の度合いを深めてからであった。
 自らは仕掛けずに、来るのを待っている。
 消耗を避ける為、と思っていた。相手は広いフィールドを得て、縦横無尽に宙を舞う。此方はただ、待ち受けるのみ。確かに、巨躯を翻し、自ら挑み掛かるのは愚かに過ぎる。だから、と。
 躱し続けるのはさして、困難ではないように思えた。地下七階の闇の城という閉鎖空間であればいざ知らず、青天井の下ではロトの動きは予備動作(モーション)が大き過ぎて、軌跡が容易く予測出来る。襲い来るところを待ち受け、撃ち落としては消耗させる気か? しかし相手は疲れを知らぬ機械。故に消耗を待っている、とは考えられない。そんな消極的な闘いに甘んじる、竜王ではあるまい。では、何を?
 ごう、と耳を突く、風の音。鉄をも引き裂く爪に叩き付けられ、地面に激突する直前で蒼い炎のマントは消え、再び翼広げロトを宙へと押し上げる。対空姿勢の侭、再びロトは剣を構えた。
 翼の様だな、と思う。実体の無い、叩き折るも叶わぬ不敗、無敵を支える蒼き、幻の翼。
 …幻?
 確かに実体は無い。背中に付けられた排出口から放射するマナを燃焼した炎で、あの鎧は飛行している。つまり、本体は鎧なのだ。
『鎧のバーニア部が損傷しました。これ以上負担をかけると飛行に支障を来す可能性があり、帰還出来ない可能性があります。退避します』
 頭の中でロトのセリフがリフレインする。つまり、あの部分だけが、鎧に覆われた内部と外部との、ただ一つの接点なのではないか――――?
 真っすぐに突っ込んで来たのを紙一重の差で躱され、ロトは反転する為にバーニアの燃焼を止めた。
 唯一瞬のこの隙を、ずっと、待っていたのか!
 今にして思えば、オルフェに蹴られてロトが表情を一変させたのも、あそこが弱点と解っていたからに違いない。 1対1で戦うと決めたのも、目標を絞りやすくする為だ。無論、我々が足手まといになるであろう事を考慮して、の事でもあろうが。
 無数の牙が獲物を待ちかねたかに覗く。だがこの闘いの主武器(メイン・ウェポン)は生憎と剥き出しのそれではない。竜王なら、秘密兵器は最後の最後、ここぞと言う時まで隠しておくものだと言うだろう。遥か頭上でしゅっと空気を吸い込む微かな音、そして開かれるあぎと。
 瞬時の、出来事であった。
 狙い違わず、排出口目掛けて吐き出される灼熱の炎。炎は渦を巻きながら排出口に向かって吸い込まれ、無防備な鎧の内側に熱が充満する。熱は手から、足からそして兜のひさしの下から爆発的に放出される。暴発する圧力に抗し切れず、かつて鎧であった灼熱の塊は、慣性の法則に従って放物線を描きながら砕け散って行った。
 ロトは、断末魔の悲鳴さえ上げず、燃え尽きて果てた。
 だがあの時、私達は一瞬だけ垣間見た様な気がした。―――磨り硝子の様に何物をも映さぬあの瞳の奥に、無の責め苦から解放される悦びが映るのを。
 水を打った様な静寂が、辺りを支配した。時が止まったかの様な錯覚も、しかし主を失った大剣が眼前に突き刺さる音で終わりを告げる。全ての息を吐き切り、吸って又吐き出される吐息には何処か、やるせなさが入り交じる。
 鉄をも引き裂くと怖れられた爪が、伸びた。刃こぼれ一つ起こらぬ刃が、再びゆるりと姿を晒す。
 竜王は、無言で、ロトの剣を拾い上げた。

 身じろぎ一つせぬ侭、彼等を睥睨する黄金(きん)色の下で、兵士達が武器を構えていた。が、既にその面に戦意は失われている。一歩我々が前に足を踏み出す度、じりじりと後じさる。
「もう良い、彼らを通せ」
 重苦しい時に終焉を告げる、梵音、とでも呼ぶべき豊かな低音が頭上より響く。影は、ない。天空軍の背後で金属が軋む音がして、兵士達は一斉に振り返った。天空城に通ずる巨大な扉がゆっくりと、軋みながら開いて行く様子に、忘れられかけていたざわめきが再び、湧き起こる。
「しかし、マスタードラゴン様」
「構わぬ」声の主は再び、梵音を響かせた。「そなたらの手に負える相手ではない」
 奇跡宜しく、眼前の人波が割れた。我々は勝ち誇った風をも見せず、兵士達の視線が突き刺さる中凱旋の門を潜る。
 ずん。
「……?!」
「今の、何?!」
 上から鈍い音が響いたので、私達はすわ、罠か?! と慌てて見上げた。
「あ…」
 音の正体は、竜王がそのまま門を通ろうとして、潜り損ねて頭をぶつけていたところであった。
「そのまま入ろうとする人がありますか…」
「う、うるさいっ!」
 竜王は額をさすりさすり、竜の姿を解いて常の見慣れた姿へと戻り、遅れて門を潜った。

 城の中はほぼ一本道ながら、 騙し絵(トロンプ・ロイユ)を思わせる複雑怪奇にして入り組んだ造りになっていた。その数を忘れるほど階段を上り下りし、漸く辿り着いた玉座へと続く長い階段に辿り着いた頃には、一同は段を昇るに躊躇を覚えた程だった。ひょっとしたらこの先も階段だったりして、とオルフェの口吻から漏れた冗談もどきは、疲労故に冗談になり損ない、うんざりした調子が滲み出ていた。
 段に腰掛けていた竜王が、何処かやるせない、苛立ったような溜息を漏らした。
「どう、なさったんですか?」
「おお、まだお前達には言っておらなんだな。実は…」竜王は視線を落とし、頬を軽く指で掻く。「父に会うのは、これが初めてなのだ」
「緊張してるんですね」
「余計なお世話だ。……ここだけの話だぞ。正直言ってな、ビビッてる」
「あら、以外ですわね」頭上でコロコロと、少女めいた笑い声が上がって、上を向く。
「るさい。…お前には解らん」竜王は拗ねてそっぽを向いたが、振り向いた蒼い頬に指がめり込む。竜王はすぐ指を払い除けたが、周りで妖精がきゃっきゃっと笑いながら飛び回っている。
「やめんかアホウ。…なんだ、お前かユークァル。誰にそんな芸を教わった」
 ユークァルはルビス様を指差した。
「畏れと緊張を解すのに一番効果的な手段はユーモアでしてよ。さ、参りましょう? これもこの天空城を守る為の心理的な罠なのですわ」ルビス様はにっこり微笑み、渋い顔をして見ているに竜王に背を向けて巨大な扉を指差した。

 長い階段を踏み締め、登り詰めた先にその扉はあった。
 玉座の前に通じているに違いない、巨大な扉。手をのばすと、扉は触れるまでもなく、我々を招き入れるかのようにゆっくりと、軋みながら押し開かれて行った。
 扉の隙間から差し込む、光の槍。
 大理石造りの広間にある玉座は逆光になる位置に設えられており、そこに座す者の輪郭は光の天幕に散らされて、その姿が容易には解らない。
「良く来た、我が子よ」
 豊かな低音が広間に響き渡る。酷く余韻が反響する。
 ああ、あの声だ。
「そして供の者達も、長旅御苦労であった」
 輪郭の背後で、滑車が鎖によって回されるからからいう音がして、何やら得体の知れぬ大がかりなからくりが身体を軋ませ、うなり声を上げた。からくり仕掛けは玉座の上でその大きな口を開くと、天井より更に、目も眩む程の光が玉座に降り注いだ。
「余が世界の支配者、神竜マスタードラゴンである」
 光によって匿されていた玉座には、巨大な竜が座していた。

 暫しの沈黙があった。その場にいた誰もがしばし圧倒され、口を利こうとはしなかった。
「す…げえ…」オルフェだけが一言、注意せねば聞き逃しかねないくらい小さく呟いたが、やはりその後に言葉を継ぐことは出来無かった。今までの演出は、我々を圧倒する為の仕掛けだったと言う訳か。私はそれでも敵に呑まれまいと呼吸を整え、竜王の姿を横目に見た。竜王は固く唇を引き結び、拳を握り締め、眼前の父を、初めて見る親の姿を、網膜に焼き付けんとするかに見つめている。傍目で見ても、想いの高まりと戸惑いが感じられる。いざ会ってみたは良いが、どう口を利いて良いか、どう話を切り出して良いかも解らないで居るのだ。眼差しの内に憎悪が影を潜めていたのも、あながち奇妙な事ではあるまい。
「我が子よ」
 父の呼びかけに、しかし竜王は応えなかった。応えられなかった。唾を飲む音まで聞こえてきそうな程気を張り詰めて、どう溢れんばかりの想いをどうぶつけて良いものか。ずいぶん長い――否、私がそう感じただけなのやもしれぬが――思案の末、竜王はようやく口を開きかけた。
 だが、その想いは解き放たれる前に遮られた。
「…ニヴルヘイムからの長旅、誠に御苦労であった。供の者も長旅で疲れたであろう、奥の部屋に案内させる故、しばしゆるりと休むが良かろう」
 張り詰めた気が断ち切られた音が聞こえたかと、刹那己が耳を疑った。唇を戦慄かせ、肩を震わせ、やがて激情が、抑えられる術もなく剣となり火となって迸る。
「…随分な、御挨拶だな。それが、初めて会う我が子に、否、傷付け散々嬲り者にして来た者に対して言うセリフか? 貴様何様のつもりだ? それで、我らに恩情をかけた気になっているのか? 自惚れるにも程がある!」
「おお、おお、我が子よ。余はその様なつもりで…」
「黙れ」竜王は断固として突っぱねた。「我が子の命をその子に取らせようなどと、例えいかなる理由が在れども、真っ当な神経の持ち主ならばそんな事は思い付きもすまいよ。生きる為とは言え、血の繋がりしかない間柄、しかも仇同士とは言え、貴様に傀儡同然にされた我が子をこの手にかける痛みが少しでも解っておるならば、その様な言葉が何故口を突いて出る? 何故だ? そうやって、超然と我々を見下していられる?」
 竜王は剣を抜き放ち、マスタードラゴン向かって切っ先を突き付けた!
「…少しばかり熱に浮かされていたらしいな。元々ここに来たのは、貴様に頭を下げる為でも、貴様の温情を乞う為でも無い。貴様に一言、ぎゃふんと言わせてやる為だっ! 永きに亘る我が積年の恨み、その身を以て思い知るが良いっ!」
 言い終わるか終わらぬかの内に、竜王は足下を蹴って玉座にふんぞり返るマスタードラゴンに躍りかかった! 一撃は確かに目標を捉え、マスタードラゴンの額からは噴水の如く鮮血が迸る。が、マスタードラゴンは、額から血を流しながらも微動だにしない。
「…血を流さねば気が済まぬ、か」
 くぐもった声が、僅かに震えた唇を伝って漏れ出た。マスタードラゴンはゆっくりと手を伸ばすと、ロトの剣を、突き刺した本人ごと引き抜いて足下に叩き落とした。
「ならば、気の済むまで修羅の道を行くが良い」
「望むところ!」
 竜王は地面に叩き付けられた際に軽く口を切っていたが、手を翳そうとする私を軽く払いのける。
「これ位、どうという事は無い!」
「そう思うのは勝手ですが、あんた一人の闘いじゃない!」
「…好きにしろ」結局手は振りきられたが、その口振りに厭う様子が無いのを聞き取って私は小さく笑んだ。全く、不器用な人だ。
 オルフェに後ろでピオリムをかけさせ、私はありったけの防御魔法を唱え始める。ユークァルがそれを待たずに小さな身体を折り曲げ、ばねの様に撓ませて、マスタードラゴンに飛びかかる!
 が、マスタードラゴンの軽い蹴りをかわしきれずに、ユークァルの軽い体は簡単に吹き飛んだ。オルフェが体を受け止めるが、一緒に後方に吹っ飛ぶ。受け身を取ったのと柔軟な体と、何よりもオルフェが受け止めたお陰で、思ったより怪我は軽い。
「きしょ〜、良くもユカをケガさせたなっ!」
 人の恋路を邪魔するものは馬に蹴られて死んじまえ、とは良く言ったもので、オルフェは馬の蹄の代わりに矢の雨嵐をマスタードラゴンに浴びせかけた。マスタードラゴンは蚊でも払うように矢を振り払うが、私はその隙にイオナズンを続けざまに叩き込む。
 だが臆した様子も無く、マスタードラゴンは口から赤い舌を覗かせた。深く息を吸い込み、心肺が膨らむ。
「ふ、フバーハッ!」
 灼熱の炎。光の衣をまとっても尚熱気は収まらず、竜王でさえも踏み止まるのが精一杯だった。ユークァルは自力でベホマをかけて直してしまったが、オルフェは酷く火傷を負ってしまったようだった。
「ごめ…ホントに足ひっぱりで…」泣きそうな顔でオルフェがぐずるが、いつまでもかまってはいられない。
「もしそう思うのなら、これからは足を引っ張らないようにすればいいんです! ほれ、ベホマ!」私はオルフェの傷口痕をぴしゃりと叩き、術をかけつつ背中を押し出した。
 マスタードラゴンは続けて容赦なくバギクロスを放つ。己の眷属に炎は効かぬと知ってのことだろう。真空の刃が我々を襲い、辺りを血飛沫が点々と散った。
 2度目のバギクロスが放たれるより先に、鋼の身体が跳んだ。
 バギクロスの刃の軌跡上に向かって、真っ直ぐに。
 私は僅かに顔を顰めた。降り注ぐ、生暖かい血潮を想像したのだ。が、予想した生暖かい物は訪れなかった。
 竜王は襲いかかる魔法に向かい、嘗て自分に向かってロトがしたように、剣を振るって放たれた魔力を弾き飛ばしたのだ。魔力は四散して行き場を失い、その反動が術者を襲う。
「ついでだ、これも食らうがいい! ギガデインッ!」
 天に向け剣を掲げると、剣から一筋の閃光が空へと放たれた。空は光を吸い込むと、晴れて澄み切っていた筈が俄掻き曇り、剣を振り下ろすや激しい雷鳴を伴って、天から一条の稲妻、神の鉄槌が降り注ぐ! マスタードラゴンは悲鳴を上げ、なおも斬り掛かろうと身構える竜王を慌てて制した。
「ま、まいった。流石は我が血を引きし者」
「何だと?」竜王は僅かに刃先を降ろしたものの、未だ殺気を失ってはいない。
「その力、知恵、統率力そして団結力、称賛に値する。よくぞここまで成長したものだ…余は嬉しく思うぞ」
「嬉しい? こいつ、おかしいんじゃないの? ひょっとして、マゾ?」
「そうではない、オルフェとやら」マスタードラゴンは額から流れる血をようやく拭った。「我が子が己を超えるを歓ばぬ親が何処におろう?」
 マスタードラゴンの表情が、ふと、柔らかく緩んだ。酷く、違和感を掻き立てられる。皮膚が粟立つ。何故だろう?
「余は待っておった。そなたがこうして我が前に現れる日を…よくぞ、耐えて来た」マスタードラゴンは限り無く優しく微笑んで、そっと我が子に手を差し伸べた。「そなたこそ、我が意を受け継ぎ、余の跡目を継ぐに相応しい」
「はぁ…」オルフェは豆鉄砲でも喰らったように世界の主を見上げて訝った。「オレ、親いないからわかんねぇけど…あれ、おいちゃん?」
「どうじゃ? 余の跡を継ぐ気になったかな?」
 父は我が子の肩に手を触れ、そっとなぜてやる。それは実に、不思議な風景であった。
 私は、父から子へと視線を転じた。そして、其処にある光景に、己が目を疑った。
 竜王は涙を目に一杯湛えて、肩を震わせていた。
 手から、剣が滑り落ちた。
 金属の乾いた音。床に膝を付く。
 唇が、小さく戦慄く。漏れた呟きは、驚天に値するシロモノだった。
「父上…父上、何故…何故、もっと早く、もっと…早くそう、仰って、下さらなかったのですか…」
「良い」
 数百年という歳月を越えた邂逅。本来ならば感動的ですらある光景。だが、今の私には到底素直には喜べなかった。余りにも出来過ぎている。余りにも予定調和過ぎやしないか? そして、彼が虐げられて来た数百年という年月は、そんなにも軽い代物だったのだろうか? 私はそこに見えない絡繰りの糸を探して足掻いていた。私が疑り深すぎるのだろうか? それとも…。
 我が子を愛おしむマスタードラゴンの眼を見上げて、私は愕然とした。そして、自分を力一杯殴ってやりたくなった!
 何で今の今まで気付かなかったんだ! 私は嘗て一度、この目で魅入られていたというのに
 もしも本当に、己を悔いて我が子との再会を待ち望んでいたのなら、我が子を愛しているのなら、その子を魅了しようなどと、どうして思うだろう! ましてや、思うが儘に操ろうなどと!
 最後の呪縛が、ここで解けた。
 私は跪く竜王の腕を取って、立ち上がった所に張り手を食らわせた。竜王があんまり酷く蹌踉めいたので力を込め過ぎたかとと心配したのだが、直ぐに杞憂に過ぎないと知った。胸ぐらをつかまれたからだ。
「貴様…何をする!」
「どうしたのですか? 貴男らしくもない。貴男が今まで何をしていたのか、お教え差し上げましょうか?」
 胸ぐらを締め上げた手が僅かばかり緩んだので、私はそっと囁いた。
「いいですか。貴男は、恥ずべき事に、貴男と貴男の血族を虐げ弄んできた貴男の父上に、事もあろうに跪き、その瞳に涙さえ湛えて許しを請うたのですよ」
 切れ長の眼を、竜王は構造が許す限りまん丸く見開いた。
 急に力が緩んだので、私は地面に叩き落とされた。
「何だと! そんな事が…あろう筈が…あろう筈が…」
 ある訳はなかった。私は嘘を吐いたのだ。
 私は黙って、足下に転がる剣を指差した。私も随分と、狡猾になったものだ。
「どうしたのじゃ、息子よ」
 何を今更。反逆者は、白々しく呼びかける世界の主を睨め上げる。
 震える手で剣を拾い上げ、構え直す。もう二度と、手放すまいと誓うかの如く柄を握り締め。
「申してみよ。我が息子よ、汝の望みは何ぞ?」
 我らが望みは、
「我が望みは唯一つ」
 そう、唯一つ。
 我ら全ての誓いの如く、竜王は天に向かって剣を掲げ、マスタードラゴンに向かって突き付けた!「偽りの神よ、貴様に真の死を!」
 マスタードラゴンは目を見開き、それから目を閉じ、首を傾げしばし黙した。そして、我々の意志の変わらぬ事を悟ると、訝しげに口を開いた。
「愚かな! 何故その様な馬鹿げた事を望む? そなたはわざわざ天に唾する様な振る舞いをせずとも、我が意によってあらゆる物を得、望みを遂げる事が出来るというに。そなたの望みは何ぞ? この世界か? そなたがこの世界を望むが故にその様に申すのなら、それは甚だ検討違いというもの。望むなら、そなたがこの世界を造り替え、支配し、君臨するが良かろう。そなたにはそれだけの器が備わっておる。余は最初からその心算であったのだ」
「世界など犬にくれてやるわ!」我々は、高らかに宣言した。
「良く聞くが良い。
 我々が真に欲するは、世界を思うが儘に作り替える事などでは無い!
 我が天に刃を向けるは、世界を支配する誰かの気紛れ故に涙を流す者達の為、
 何よりも、自分自身の涙を止めるが為に、戦っているのだ!」
 反響の余韻が掻き消されてもなお、辺りはしばし静まりかえっていた。誰も、口を挟む者は居なかった。
「皆、下がっておれ」
 私達が何か言う前に、竜王は私達を押し止めた。
「今まで良く付き従ってくれた、礼を言う。だが、ここからは私自身の闘い。お前たちを巻き込む訳にはいかんのだ。すまぬ」
「ま、待てよおっさん! いまさらオレ達のこと、置いてくなよ!」
 竜王は微かに笑んで、オルフェの肩を軽く叩いた。一遍の迷いもなく、覚悟を決めた者の晴れやかさがそこにあった。
「又おっさんと言ったな?」
「最初から、そのつもりだったのですね。…何時も、一人で背負うのは悪い癖ですよ」
 竜王はただ一度だけ、深く頷いた。「…今度は、作戦ではないぞ」
「そうか、本気であったか。それでは致し方あるまい。我が子よ、汝の願いかなえてしんぜよう」
 突然、先程のそれとは異なるからくりが作動した。足元が浮き上がり、私達は足元を掬われてしたたかにその身を打ち付ける。私達の立つ踊り場は横に滑りながら隔離され、せり上がって客席になる。謁見の間は、見る間に玉座を中心とした舞台を備え付けた闘技場に早変わりした。
「息子はそなたらを巻き込みたくないのだそうだ。優しい子に育ったものだ」
 私達の立っていた辺りを囲う様に壁がせり上がり、正面をガラス張りの大きな窓が付けられた壁が塞いで、私達は個室に閉じ込められた。足元が開いて椅子が床からせり出してくる。
「何だか凄いわぁ。…こんな仕掛け、マスタードラゴン様何時作ったのかしら?」マロンが窓の外をキョロキョロ見回す。その後ろではキューリ嬢が半ば呆れた様子で額を掻いていた。このイカレタ仕掛けは、既に彼女の狭い想像の粋を軽々と飛び越えてしまっていたらしい。
「わっ! すげ! 変形してるよ〜! 超合金ロボだねロボ! 合体しないのかな? って…何だ? わーっ、何だこりゃ!」
 オルフェは変形合体(?)する舞台装置に身を乗り出していたが、足下から飛び出した専用拘束具に捕まってしまい、じたばたもがいている! 私達は私達で、背後から滑り込んだ椅子に勢いで無理矢理腰掛けさせられ、その手すりから手枷足枷が伸びて全身びっちりと拘束される。妖精は頭上から降ってきたネットに捕まって、足下でオルフェと一緒に藻掻いている。
「ど、どういうことなのこれは? …あいたたた、髪の毛が絡んでしまったわ……」ルビス様はルビス様で、がっちり食い込んだ枷に長い髪が絡んで痛そうに髪の毛を解こうと悪戦苦闘。その横でオルフェがやたらめったら蹄を鳴らして離せだの、外せだのと喚いている。が、件の枷は生憎と、その程度で外れそうなヤワなシロモノには見えなかった。枷にはしっかりと、根の国(ニヴルヘイム)で馴染みのナンバーが振られている。
「客人方よ、愉しんで行かれるが良い」
「な、な、なんちゅう仕掛け…暇人の極致…」
 拘束された侭呆然と見守る我々の頭上で、女性の声が響き渡った。
「さてこれよりのメインエベントは、世界の命運を賭けた時間無制限デスマッチ一本勝負! 決着は相手が戦闘不能になった時点で終了。ギブアップは認められません。禁じ手は一切無し、正しくガチンコ真剣勝負(シューティング)!」
 女性のアナウンス、しかし人の姿は無い。観客は勿論ゼロ、カメラマンも居ない。
「なお、この試合は中継にて全国ネットで放映されます!」インサートされる拍手と口笛、そして歓声。成程、効果音というわけか。それにしても、何の為にこんな物を用意していたのだろう?
「Ready、Go!」
 私の疑問符を遥か後方に残し、何故か青空に冴え渡るゴングの音が世紀の決戦の始まりを告げた。

 勝負は、最初から敗色濃厚だった。
 先程までとはうって変わって、どれだけ剣を振るおうが、近付く事すら許されなかった。壁に打ち付けられ、地面に叩き付けられ、それでも立ち上がり、挑みかかってはなお打ち据えられる。
 傍から見ても、もう戦える状態ではなかった。肩で息をし、剣を杖にして、気力だけでようやく身体を支えている。ただ、一矢報いる為だけに。思いのたけをぶつける為に。
 再び振るった剣はしかし、やはり届く前に叩き落とされ、嘗ては諸界の王をも名乗りし神の子を打ちのめす。
「もう、止めよ。そなたの敗北は明らかではないか」
「そうして、どうせよと? 貴様に許しを請い、全てを無かった事にして従えというのか?」ぎりりと奥歯を噛む音さえも、遙か離れたこの場所に届きそうに思えた。片膝から立ち上がろうと踏み締めた足が血で滑り、再び前のめりに膝を付く。
「…ふざけるのも大概にするが良い。それで何が変わるというのだ。それで、貴様が己の愉しみの為だけに嬲りものにしてきた者達の想いが報われるとでも言うのか!」
「『想い』か…それこそ、思い上がりよ」
 剣を杖にし、渾身の力を振り絞り、立ち上がる。その姿は祈りを捧げる求道者の様に、私には映った。
 右手で柄を長く握り、左で剣の重心を取った構え。
 この一撃で全てを決めると。
「…ロトよ、悪い父親だったな。仇は打つ」
 最後の気力を振り絞り、全ての想いを込め、竜王は地面を蹴った。
「ギガスラァーッシュ!」
 闘気を身に纏い、刀身が眩く輝く。刃は大気を裂き、光の矢と己を為した、究極にして最後の、捨て身の一撃。
 しかし、刃が届く遥か目前で、マスタードラゴンの左手が剣撃を遮る様伸びた。
「終わりだ、我が子よ」
 マスタードラゴンの手から光球が生まれ、それは膨張して弾けて幾条もの光の帯となって放たれた。光線は光の剣と化し、最後の力を振り絞って一撃を放とうと振りかぶった無防備な身体を次々に切り刻んで行く。断末魔の悲鳴さえも、圧倒的な光の奔流に掻き消える。
「お、おいちゃぁん!」
「いやああああっ! もう、もうやめてっ!」
 身体は反対側の壁に叩き付けられ、追い打ちをかける光の刃が、襤褸切れ同然の身体を壁に繋ぎ止めて行く。両足、腿、腕、腹、胸、喉、眉間………。
 苦痛でこじ開けられた口から、最後の光の剣が喉からうなじまでを貫いて、竜王は動かなくなった。

 玉座の影が、再び動いた。
 玉座を離れた巨躯は人の大きさに収まると、闘技場を横切って壁に突き刺さった我が子の下へと歩み寄る。
 マスタードラゴンは襤褸切れの如く成り果てた骸を一瞥すると、身体から急所に突き刺さった光の剣を引き抜いて放り捨て、額に手を翳す。
「ザオリク」
 翳した手が暖かい光に包まれ、生命の奔流が迸る。と、襤褸切れと化した身体の傷が塞がって行き、身体は次第に血色を取り戻していった。意識を取り戻した途端、未だその身を責め苛む光の刃に苦痛を顕にする。激痛に苛まれながらも気力を振り絞り、竜王は血を吐く様に言葉を絞り出した。
「……何故、生き返らせた……これ以上、私を、辱めるな」
「自惚れるな出来損ないが」マスタードラゴンは笑みを湛えつつ、腹に突き刺さる剣の柄を片手で捻る。身をよじり、竜王は激しく吐血する。
「…うっ…ぐ、くっ、こ、この私がで、出来損ない、だと?」
「左様。ここまでそなたは余の予想通り、否予想以上の大活躍を見せてくれた。そなたらの道中も、その戦いぶり、成長ぶりも期待に違わぬ出来であったぞ。が」
 マスタードラゴンはその手に弄ぶ剣の柄を抜き取って、再びそれを突き刺した。
「例えどんなに優れた兵士(ユニット)でも、指揮下(コントロール)をを外れた因子(ファクター)は必要無い。私が何故、そなたに跡目を継がせようと決意したか、冥途の土産に教えて遣わそう。尤も…そなたを待つ冥土があるものかどうか」

「最初、余は世界を創った。世界を創造する、それは刺激に満ちて、実に素晴らしい、この上もない悦びであった。全てが我が思いの侭に満ち足りた、光輝く世界。だが、余はその内世界に飽いてしまった。全てが思い通りになる世界とは、結局閉じた世界、予定調和の世界に過ぎぬ。そこで、余はルビスを創った。余の代りに世界を創造し、管理するものとして。この試みは巧く行くと思われた。実際、かなり長い間ルビスの働きのお陰で余は退屈せずに済んだのだからな」
「だが、ルビスすらも余を満足させるには到らなかった。確かに、ルビスは余の創造した以上の可能性を世界に与えたのだが。何かが足りない。余は考えに考え抜いた。何がこの世界に欠けているのか? 余はこの世界に何を求めているのか?と。そして結論付けた。それは破壊、そして悪であると。そして、余は我が分霊、魔王ゾーマを作り出したのだ」
 マスタードラゴンは誇らしげに天を仰ぐ。その姿は陶然と、己に酔っているようにも、己の最高傑作たる分霊を思い起こして懐かしむようにも映る。
「この分霊は実に良く出来ていた。最高傑作と言って良いかも知れぬ。実際こ奴のやり口は素晴らしかった。余が産み出し、ルビスが作り出した世界を見事に、それは巧妙に悪意によって作り替えてしまったからな」
「そんな、そんなまさか…そんな、ひどい…酷過ぎます」
 ルビス様は、私の隣で身体を震わせて泣いていた。客席に拘束されているせいで、涙を拭う事すらかなわないでいる。
「フフフ…ルビスよ、そう嘆く事はない。世界の発展の為には不確定要素は不可欠なのだ」マスタードラゴンは口角を釣り上げる。
「だが、ゾーマはやり過ぎた。我が分霊たる分を越え、余が干渉しないのを良い事に、余を追い出してこの世界そのものをその手に収めようと、そしてこの世界の法則を根底から、自分の都合の良いように作り変えてしまおうと考え始めた。ゾーマの力など畏るるに足らなくはあったが、そろそろ余の力を思い知らせてやらねば他の連中にも舐められてしまう。しかし、直接この世界に干渉するのは余の好みに反した。余りにも、それでは予定調和ではないか? 神の力を直に顕現させるよりは、神の使いを遣わす事で、人々に更なる絶対者へのイメージを植え付ける方が、我が存在をさらに神化させる事が叶おうと。人は目に見える物よりも、正体の解らぬ摩訶不思議な物をこそ有り難がるものだからな。そこで、ルビスが産み残していったそなたの息子――密かに二束三文で売り飛ばされ、剣奴として見せ物にされていたのを、余の導きで反乱を起こさせ、その後どこかの賢者に見いださせた、あの陰気くさい若者だ――を、勇者として遣わしたのだ」
 返答は無かった。
「…まあ、それはよしとしよう。なあ、息子よ? 世界を直接に操る、というのは案外つまらないものだぞ? 自分が小指一つ動かせばどうなるか、結果は全て計算尽くという訳だ。そこで余は素晴らしい考えに至ったのだ。いっそ、誰かに己の地位と権能を手渡してみてはどうかと。無論、見えぬよう手綱は引いておくのだが」
 マスタードラゴンは暫し、反応を伺うように子の顔を覗き込んだ。子は小さく唇を動かしていたが、やがて、聞こえない位の微かな、問いが漏れた。本来なら、決して私達の耳には届くまい。如何なる不可思議な力が働いているのか、しかしその呟きは私達の耳に、はっきりと届いた。
「で、は…何故、私を、消さ、せた?」
「何、ほんのちょっとした目論見違い、という奴よ」神竜の口角がぞっとするような形に歪む。「余はそなたと、我が玉座の下に邂逅するその日を待ち焦がれておった。その日の為、どれだけのお膳立てをやってのけた事か。だが、そなたは余の期待を裏切った。玉座を目指して来る代わりに、余が造り上げて来た世界を見事に滅茶苦茶にしてしまいよった。よりにもよって、子の分際で父を、世界の主を、地上に呼び付け己が下にひれ伏させようと目論んでおったとは!」
 手が伸びて、我が子の頭をそっと撫ぜた。「余は唯、子の過ぎたおいたを身を以て諭しただけの事。…身の程を弁えるよう、な。だが、余は同時に、これを好機とも見ておった。再びそなたが、今度はそなた自らが我が前に出向きし時こそ、件の計画を実行に移す時だと。その為に、余は綿密なお膳立てをしてやったのだぞ。生かさず、殺さず、怒りや憎しみを和らげ、界を経る合間に、少なくとも余の代わりに玉座に据えた際に世界をメチャメチャにしてしまわぬ程度にはそなたに成長して貰わねば困る故な……しかし、そうなるには時が必要であった。大して長い時間ではなかったが、それでもその間に余の退屈を紛らわせる為、余は再び分霊を喚び出して世界に干渉させてみた。余りにあっと言う間に終わってしまったのは誤算だったが、それでもなかなかどうして、ちょいとした暇潰しにしては上出来の部類であったな」
「違う…貴男は所詮、もはや世界が思い通りにならぬのを思い知らされたが故に我が子に嫉妬する、偽造物主(デミウルゴス)に過ぎないではないか!」
「ほう、言うたな似非神官よ。まあ良いわ」マスタードラゴンは私など、どうとも思ってはいないようだった。「じゃが、そなたは何じゃ? 何者じゃ? 信ずる寄す処(よすが)も無く、ただ無力に涙を流すだけの虫螻に過ぎぬ。そこでそなたがこれに託した希望とやらが、粉々に砕け散る様を眺めておるが良い」
「妾には、俄に信じられぬ」悲痛な調子を帯びた声が、右二つ隣の席から挙がる。「だとて、それがまっ事真実であるならば、それが神の為す事か否かは我どころか三つの赤子でも解る自明の理。左様な仕打ちは人倫に悖る鬼畜外道の為す事。神の名を冠するも厭わしい外道也!」
「喧しい、白痴の傀儡は黙っておれ。どうせそちら蟲共には何の関わりもないことよ」
「キーッ! アタシは知りたくなかったわよこのコンコンチキぃ!」頭の上からネットを被せられたマロンが藻掻く。「あー、もぅ、最悪ですぅ〜……確かにキューリちゃんはおバカちゃんだけど、アンタに言われるほどじゃないわよぉ。ねぇ? ねぇ?! ちょっと、ちょっと?!」
「嗚呼、だがしかしやんぬるかな! 我等の世界はかの如き外道の手によって生を享けたのであったのう…」キューリさんの三つ編みが小さく揺れた。からんと乾いた音がして、足下に転がる家宝の兜。キューリの足が、翼をあしらった自慢の一品を、嘗て自慢げに、命の次に大事だと磨いていたそれを思いっきり蹴り飛ばした。「嗚呼、家名の如きなんぞ糞喰らえじゃ! 妾は虚けじゃ! 何倍も何倍も阿呆じゃ! こんなもの! こんな物、何の役にも立たぬ…」
 マスタードラゴンは声を顰めて笑った。恐らく、我々全てのやりとりを逐一、漏らさず把握している。憤怒に駆られるほど、絶望と悲嘆にくれる程、我々はこの偽造物主(デミウルゴス)を悦ばせてしまう。
 影が、一歩また距離を詰める。
「父の情けと思え、せめて、この手で、汝を無に帰して遣わそう」
「わ、私は…」
「ゾーマの奴に教わらなんだか? この世に取り替えの効かぬものなど何もないのだと」
「で…は、私は何の為にこの世に生を享けたというのか? 何…故に、何故に……貴様に、出来損ないとして、殺される為にか? ……そうなのか? 私は貴様の、…貴様の慰み者となって、殺される為だけに生まれてきたのか? それだけの為に?」
 マスタードラゴンは我が子の頬を撫ぜ、労るように微笑んだ。「そなたは、知りすぎたのじゃ」
 嗚呼、私は貴男のそんな顔は見たくなかった。
 あんなにも、力に裏付けられたとはいえ、過剰とも言える自信に充ち溢れた貴男。本当は寂しがり屋の癖に、わざと強がって弱みを見せまいとする貴男。そうでなくては、自分を、そして愛する者を守れないと信じているから。
 その貴男が絶望に魂を砕かれ、涙を流す様など。
「もうその様な問いにも思い悩む事は無くなる」
 剣の切っ先から魔力を注ぎ込まれ、全身が蒼白い光を放つ。光は明滅しながら、刃が深く沈み込むにつれ輝きを増して行く。
 苦痛に呻く声がほんの一言漏れて、もうその震える唇から言葉が紡がれることはなくなった。ただ、その体を流れる血潮だけが、そして、報われぬ想いに流す涙だけが、止めど無く溢れ出ていた。
「お、おっさん…ウソだよな…? じょ、冗談だよな? おっさん、めちゃめちゃ強かったじゃないか。冗談でした〜って言ってくれよ。平気だってさ。な? だろ? なあ、おっさん! 平気だっていってくれよッ! なあッ!」オルフェは縋るような目線をあちこちに彷徨わせ、食い入るように私達を見つめた。「ねえ、ハーゴンさんっ、ルビス様っ。うそだって言ってよ。ジョーダンだってさあ? ねえってばさあ! 嫌だよ、オレ! こんなの、絶対絶対絶対絶対嫌だぁーっ!」
 ルビス様も、私も答えなかった。否、答えられなかった。唯、頬を涙で塗らしていた。キューリさんは頭を抱えて地団駄踏み、己を責めていた。マロンはヒステリックに主の横暴さをしきりに(なじ)っていたが、マスタードラゴンに睨まれて口を閉ざす。本能的な恐怖に訴えかけられたのか、青ざめたまま凍り付いて膝を付く。
「無に還るが良い、その『想い』とやらと共に」掌に乗せた雛鳥を握り潰すが如く、我が子を慈しむ父の顔が、そこにあった。
 これこそが、私が、総てを捧げた神の正体だったのか。
 もう神を信ずる事などとうに捨てた筈だったが、私は叫ばずにいられなかった。
 神よ、何故、世界は涙を流す者に、こんなにも残酷なのですか?
 私達の「想い」とは、貴方にとって、そんなにも取るに足らぬものなのですか?
 神よ。
 我々は、貴方を愉しませる為にこの世に生を享け、そして死んで行くのではないのです。
 そして、それが神だと言うのならば、神など滅びてしまうが良い。
 そんな神ならば、全ての獣や全ての魔物以上に、全ての罪人以上に呪われてしまうが良い! 未来永劫呪われて、地の底で這いずり回り、塵埃(じんあい)をのみ喰らうが良い!
 永劫に。
 永劫に!!
 肉を通じて魂に沈んでいく筈の切っ先が、僅かに鈍った。
「あ、れ? あれれ? …な、んで、か…な……?」
 マスタードラゴンの純白の法衣が鮮血に染まり、マスタードラゴンは、そのまま斜め左後方に綺麗な弧を描いて倒れて行った。
 後には、ユークァルが立っていた。

 血塗れになって涙目のマスタードラゴンを、ユークァルは手の内にロトの剣を短く握り込んだ侭覗き込んだ。
「この世の中に取り替えの効かないものはないんですよね。…だったら、神様だって取り替えが効くんですよね…」
 ユークァルはマスタードラゴンが抵抗出来ないのを見て取ると、返事を待たずにマスタードラゴンの足をまたいで竜王の前に立った。
「ユ…カ……」
「約束、破ってごめんなさい。…でも、ゲームじゃないから、いいですよね……あたし、ずっと思ってました」ユークァルの小さな手が、身体を貫き通す光の剣を、一本、また一本と抜き取っていく。
「この世の中にあるものは皆同じ、特別なものなんて無い、取り替えの効かないものなんて何もないんだって。勿論あたし自身も。ん、抜けない」
「う、もっと、そっと、抜いてくれ」
「ごめんなさい。ちょっとだけ、我慢して下さいね」ユークァルは壁に脚をかけて踏張り、腿に刺さった剣を抜き取る。
「でも、違うんだって言いましたよね。自分がそう信じれば、それは特別なものだって」
「……ああ…」
「あたしには、解りませんでした。どうしてそんな事言うのかって。あ、でも自分が人と何処か違うのは解ってました。好き、とか、大事な、とか、痛い、って事が解らなかったし。ああ、あたしは皆とは何処か違うんだなって。でも何処が違うかは解らなかった。けど私も皆も同じ生き物だから、いつか必ず解る時が来るって、そう信じてました。そして、今、やっと解ったんです」
 最後の一振りが、肉体を苛むのを止めた。
「大事なものって、なくなりかけてやっと解るものなんだって。…だって、居なくなるなんて思わなかった。だって、神様なんでしょ? 世界一強いって言ったでしょ? 私は誰とも取り替えが効かないんだって言ったじゃない。うそつき、うそつき」
 崩れ落ちた身体を抱き留めて、ユークァルは初めて泣きじゃくった。
 竜王は暫し泣きじゃくるユークァルに我が身をもたせかけていたが、やがて顔を僅かに上げ、ユークァルの耳元に囁きかけた。
「ユカ、肩を貸してくれないか」
「?」ユークァルが目をぱちくりさせる。
「寝る前に、やり残した事があるんでな」私は遠目にもはっきり、竜王がユークァルにウィンクをしたのを見逃さなかった。

「わ、我が子よ、ま、まさか実の父を手にかけたりはすまいな? な?」
 かつての威厳もかなぐり捨て、その手にかけようとした実の子に命乞いするマスタードラゴンの姿は、醜さを通り越して憐憫の情をもよおさせるに充分であった。ユークァルの手を借り、覚束ない足取りで傍らに屈み込む。
「ふ、ふふふ…ふはははははは! まさか! せ、世界の支配者にして創造者たる、我が親父殿をこの手にかけるなど! …私はただ、親父殿の遺志を継ぎ、たっての願いを叶えてさしあげよう、と」
 そうして、竜王は、この世に唯一人の実の父に向かって、精一杯の笑みを浮かべ、そのまま崩れ落ちた。
 あの時の笑みを、私は生涯忘れる事はないだろう。
 私は、あの時、彼を初めて、心底から、邪悪だ、と思った。

 昏睡状態は、それから3日3晩続いた。看病の甲斐あって、ようやっと容態が持ち直した時には全員ぐったり疲れ果て、今度は私達の方が三日三晩寝込む番だった。そう言えば、ロザリーヒルでもこんな風に看病したものだったなあ。パノンがいないだけ……あ、いやいや、背負うものが無いだけ、気分は軽かった。
「…天空人ども、逃げ出して今では1/4程しかおらぬらしいな…」
「ええ」マスタードラゴンが追放された、との一報が入ってから僅か3日余りの内に、天空人達は報復を怖れて皆てんでばらばらに天界から逃げ出してしまった。残り1/4は逃れる術を持たぬ女子供に年寄り、若しくはその扶養者である。
「根性の無い連中だ…あの時、全員焼き払ってやれば良かった」
「又そんな事を…」毒突く竜王を軽い調子で咎めながらも、額に乗せていた手拭いを取り払い、冷水に浸しては絞って又額の上に乗せてやる。毒が吐けるのは元気な証拠だ。「大分、気分が御宜しいようで」
「ああ、多少はな…昨日はまた酷く傷が痛んで寝付けなかったが……誰か、見舞いにお出ましだぞ」
 ノックの音から遅れて扉が開く。生憎とお見舞いではなく、換えの水を持ってきたユークァルだった。
「今日は随分、気分好さそうですね」ユークァルはぎこちなく笑んだ。彼女の微笑みをを見たのは、この日が初めてだった。
「ああ。お陰様でな。……ユカ、全快したら皆でお祝いしよう、な」
「うん」ユークァルは小さく頷く。
「そしたら皆で御馳走を食べよう。何がいい?」竜王は嬉しそうに軽口を叩く。思ったより、調子がいいのだろう。あの戦いから僅かな世界樹の雫の他、何も口にしていないのだし。「ローストビーフかエビチリか、それともキャビアかフカヒレスープか煮アワビか。いやいや、かほどに目出度きことなれば、 仏跳牆(ファッチューチョン)位は喰わねば割に合わんな。…さて、どうしよう?」
「…わたあめ食べたい」
 ユークァルの応えに、竜王は意外そうに瞬いた。
「わたあめなんかでいいのか?」
「それと、ブルーベリータルトも」
「そうか」真意を知り、竜王はユークァルの髪をくしゃくしゃに撫で回す。
「食べ損ねたタンシチューもな」

 結局その後、本人はあんなに嫌がっていたにもかかわらず、竜王は周囲の要望に応える形で新たな世界の支配者の地位に収まる事になってしまった。とはいえ本人は相変わらず一から十まで例の調子であり、まともに執務の一つもこなそうとせず、挙句の果て 2週間に一度は脱走して他の世界に遊びにいってしまう始末。仕方ないので、殆どの執務は私が代行し、2週間に一度は我侭極まりない世界の支配者殿を探し回っているという忙しくて眼も回らぬ有り様である。大体逃げる先はマイラの温泉かタイジュ国かニヴルヘイムに決まっているので探すのは楽なのだが、連れて帰るのが時には宥めすかし時には脅し、しまいには実力行使も辞さない構え。実に一苦労である。
 ルビス様はその後すぐ懐妊なされた様子。全く手の早い事だ。…あ、いやいや。ルビス様御本人は至って上機嫌で、「次に男の子が生まれたらロトって名付けるわ。この子はきっとロトの生まれ変わりなのよ」と笑顔で話してくれた。
 殆どの天空人が天空城から逃げ出してしまった為、天空城の管理運営は非常な困難に陥った。我々は話し合った結果、ムーンペタの老婆とリカルド夫妻(色々裏技を使って生き返らせた)を急遽新しい天空城の賄い役として迎えることにした。天空城よりの遣いが老婆を迎えに行った際、老婆は彼等を見て卒倒してしまったので、驚きの余りに死んでしまったのではないかと周りの者をひやひやさせたそうだ。
 マスタードラゴンがどうしたかって?
 居ますよ、ちゃんと。しかも、彼の望みもかなえられて。

「お、おのれ…バカ息子め……」
「親父殿、何と戯言を仰いますか」鉄格子越しに相対するは前職と現職、二人の世界の支配者である。
「ただ私は貴男の願い事をかなえてさしあげようとしただけではありませんか。何が御不満なのですか? これが、貴男の望みだったのでしょう? …それとも、何か足りないものでも御座居ましたでしょうか? 必要なものがあれば何時でもお申し付け下さい。すぐに届けさせまする故」
 マスタードラゴンは今、根の国の例の特製独房で、部屋中一杯に設置されているモニターに映し出される世界の様子を眺めて日がな一日を過ごしている。勿論食事は一日三度、看守の残飯などでは決してなく、専門の料理人が付いて彼の為だけに作られる。独房の中は快適に過ごせるよう管理が行き届き、週に1回は本が届けられたりして、マスタードラゴンが退屈しないよう様々な工夫が懲らされている。とはいえ贅沢三昧の上大して動く事も出来ないので、マスタードラゴンは昔の面影もなくすっかり太ってしまっていた。勿論、その手首足首には例の桎梏…しかも1/16などと言う生易しいものではなく、1/65535という特別製のそれが付けられている。
「マスタードラゴンっ! 奴ら何とかならないんですかッ! アンタ元・世界の支配者でしょうがッ!」
「黙れキチガイ! お前はそこでキラータイガーの剥製と遊んでおれ!」
 マスタードラゴンの独房の隣は、デルコンダル王ナリーノの独房である。その所業の余りの悪辣さ故に、そして狡猾さを警戒されて、これまた専用独房を準備され、キラータイガーのゲレゲレ、もといジョンの剥製と共に放り込まれ隔離されている。生憎とこちらには専用の料理人は居ない。
 根の国の有り様は殆ど一変したと言っても良い位改善された。もう無意味な労働はなくなったし、食事も囚人達が交互に当番を決めて作っている。材料は彼等に畑を耕させ、それを元に看守達が献立を作成する。これらは全部キューリさんのアイディアだ。彼等の魂が浄化され、再び、今度は正しく生まれ変われるように、との配慮から。
 オルフェは、我々が引き止めたにもかかわらず「もっと色んな世界を見て周りたいから、今度は一人旅するよ。飽きたら戻ってくるからさ、その時は二等兵じゃなくて親衛隊長くらいにしてくれよな」と言って天界を去って行った。だが、オルフェは去り際に、「オレも一人前の男になってさ、そうしたらユカにプロポーズしに戻ってくるんだ。だって、ユカを守ってやれるくらい強くなりたいし、そうでなくちゃカッコ悪いだろ?」と、私にだけこっそり言い残していった。

*  *  *

「うー、あーええとなぁ、そのぅ…とにかくっ、お前と一緒に寝てやる訳にはいかんのだ。いい加減一人で寝ろっ」
「どうしてですか?」
 寝室では二人がいつもの問答を繰り返している。回復してから毎夜これなので、いい加減うんざりしているようだ。
「いいか、ユークァル。そういう事をするのは本当に好きな男だけにしておけ」
 うんざりした様子の竜王を、ユークァルは無言で指差す。
「馬鹿、意味が違う。この場合の好きって事はだな、この相手となら子をなしても良いと」
「あたしは、お母さんにはなれません…」
「う、そうであった」
 竜王は腕組みして、うぅんと唸った。思い返してみれば旅の途中ずっと、寝首を掻かれては叶わんとずっとその腕にユークァルを抱いて寝ていたのがまさかこんな結果になるとは。そりゃ、困るわなぁ。
「…そうだな……お前があと10年もして、ナイスバディのいい女になっていて、好きな男もおらんで尚且つこの約束を憶えていたなら、愛妾位にならして遣っても良いぞ」
「貴男なんて事を言うんですか!」私が叫ぶと、竜王はさも愉快そうに呵々大笑、ユカが去った後私を手招いて囁く。
「心配せずとも良い、元々そんな気はこれっぽっちも無いわ。ユカもこれから恋の一つもすれば、こんな約束は忘れるだろうよ」
 あーあ、またそんな馬鹿な事言って。
 その約束、絶対忘れてないと思いますよ。ユカの事ですから。ルビス様とも絶対一悶着あるな。そんな所にまで責任は取れませんからね。

*  *  *

 ここまで書き留めると、私は本を閉じ、インク壺に蓋をした。ユークァルが扉をノックする音が聞こえたからだ。
「…おとうさん? お休みなさいの挨拶、しにきたの」
 困った世界の支配者の尻拭い、と言えば聞こえは悪いのだが、ユークァルの去就については、結局、私の養子になるという形で一応の解決を見た。そんな訳でもってこの異種族間の奇妙な親子関係が出来上がり、朝目が醒めたら、狭いベッドで発育途中第二次性徴真っ盛りの血の繋がらない娘が枕を並べて寝ているという、事情を知らない者からすれば羨ましがられるか生臭呼ばわりされるかしそうな状況が続いて、実際の所、要するに当惑しているのだった。一緒に誰かと寝て貰うのに慣れてしまって寂しいのは解るのだが、夜中に鍵をこじ開けて忍び込んで来るので(しかも、本人に問い質した限りでは自覚していないらしい!) 私としては非常にやりにくいことこの上ない。
 だが、ユークァルの方は先入観がないせいか、すんなり私をおとうさんと呼ぶ事を受け入れてしまっていて、それがまたややこしさを倍増する。
「お仕事?」
「ああ。もう遅いから、お休み」
「おとうさんも、もう遅いよ? きのうも遅くまで起きてたでしょ」本当は、ユークァルがベッドに忍び込んでくるのを警戒していてどうしても寝付くのが遅くなってしまうのだが、その事はあくまでも私の胸の中にしまっておくことにする。
「切りがついたら、ゆっくり休んでね。これ、オレンジエード。おばあちゃんに作ってもらったの。飲んで体暖めてね」ユークァルの手にはお盆と、カップに入ったオレンジエードが湯気を立てて鎮座している。
「有難う」義理の娘の気遣いに、私の心は暖かい気持ちで一杯になった。幸福というのは、こういうものだと思う。
「だめだめ、ちゃんと飲んで。この間もハーブティを淹れたのに、ちょっとしか飲まずに冷たくなってたもん。ちゃんと目の前で飲んで、コップ持っていくから」
 オレンジエードを受け取って飲み終わると、ユークァルは満足げににっこり微笑んだ。
「よかった、飲んでくれて」
 ユークァルにカップを渡して、じゃあ、そろそろお休み、とユークァルを追い出した途端、睡魔が襲ってきた。どうも連日の疲れが溜まっていたらしい。寝間着に着替えなければ…ああ…せめてベッドで……むにゃむにゃ…。

*  *  *

 あ、あったあった。み〜つけた。おとうさん、隠し方下手なんだもん。あたし、おとうさんが、たびのきろくを二番目の引き出しの裏に隠してるの知ってます。
 あたし、これ読むのとっても愉しみ。早く全部書けないかなって毎日見てます。
 おとうさんが当時、あたしをどう思ってたか、おとうさん達があたしと出会う前、どんな事を感じてたか、どんな風に、何を感じて旅をしてたのか、旅をする前何をしてたのか、何を思ってたのか、旅をした後みんながどれだけ成長したかを。
 これを読んで、あたしもおとうさんも、竜王もオルフェも、みんな一緒なんだなって、何だか不思議な気持ちになりました。心の奥がじんわりして、でも何だか暖かい。これ、どんな気持ちなんだろう。悲しくもないのに、涙が出ちゃいます。
 でも、あたしが読んでたこと内緒にしとかないと大変です! 竜王が言ってましたけど、おとうさんって、とってもはずかしがりやさんなんですって。だから、もし、たびのきろくを全部読んでたこととか、これをおとうさんがお仕事してる間にこっそり持ち出して竜王に見せた事とかがばれちゃったら、このたびのきろく、全部焼かれちゃうそうです。ひょっとするとそれだけじゃすまなくて、落ち込みすぎてみんなの前から居なくなっちゃうかもしれないって言ってました。おとうさんいなくなるのいやだから、絶対ナイショです。
 最近はおとうさんが警戒しちゃってなかなか見せてもらえませんけど、クライマックスがどうしても気になってしかたないので、おばあちゃんにオレンジエード作ってもらって、眠り薬をちょっぴり混ぜました。おとうさんって睡眠時間が短くて浅いから結構気を遣います。ホントはもっとゆっくり休んで欲しいんだけど、お仕事が大変だからしかたないですね。あたしも、おとうさんのお仕事が早く手伝えるようになりたいです。
 そういえば、竜王にはおとうさんに他にもいっぱい内緒にしとかなくちゃいけない事があるんだそうです。こっそり神様の序列に加えちゃった事とか。恥ずかしがるから絶対にダメなんだそうです。でも、どうして神様がいけないんでしょう。変ですね。
 それにしても、おとうさんって、ほんっと、心配性ですね。

dqi_7.gif
 
Dragonquest"i" 〜Return of the Dragonlord〜

End
DQi目次へ