真王成就

 白昼夢と言うモノがあるなら、俺は正に、其れを見た。

 ほんの一時前まで優美な仕草で俺を誘惑した魔王は、今や自らの血溜まりに浸かった侭時折不規則に肩を喘がせていた。縷々と裂かれた紫紺の長衣は、殆ど黒に近い赤に染め上げられている。弱った躯は最早本来の姿を保てず、人に似た仮初めの姿を晒していたけれども、流石はと言うべきか、王の中の王を名乗るだけはあって、眼前に切っ先を突き付けても眉一つ上げようとはしない。
「光の玉は、何処にある」
 知らぬ、と言いたげに目を伏せる。
「もう一度言う。光の玉を返せ。何処にある」
 俺は刃の腹を汚れた頬に押し当て、顔を押し上げた。一度は苦痛に口角を歪めたものの、竜王はそれきり俺を見ようともしない。
 ならば、勝手に探すまでだ。
 俺は奴の胸座を掴んで無理矢理立たせると、握り締めた聖剣を励起する。剣は振動を発しながら蒼白く輝き、聖剣の波動を受けた鎧も又、微かに震える。聖なる力を源に持つ存在なら波長に同調する筈。俺は震える剣を握り締め、切っ先を翳した。
 光の源に、俺は思わず溜息を漏らしていた。
 左胸が不規則に明滅している。命を刻む脈動に合わせて、静かに、しかし確かに息づく。邪悪の化身とまで呼ばれ怖れられた魔物の王を包むには相応しからぬ、穏やかで暖かい光。
 肉体の中に埋め込んで、隠していたのか。言わない訳だ。
 乾いた血のこびり付く唇が、戦慄いた。
 俺は誘われる様に体を引き寄せ、二度目の唇を掠め盗った。
「悪いな。恨みは無いが、死んで貰う」
 苦悶に歪むかんばせ。
 降り注ぐ血飛沫。
 肋を砕く感触。
 臓腑の中で目まぐるしく明滅する輝き。
 傷口を無造作にまさぐる手が光の玉を心臓毎掴み出した。虚ろな目はもう、何物をも映し出しはすまい。手を離すと、空っぽの肉体は頽れて、血溜まりに再び転がる。
 血にまみれた神器を手に、俺は掠め盗った唇の濡れた感触を思い出していた。



「世界の半分をやろう。どうじゃ? 片腕として働いてはくれぬか?」
 玉座に頬杖を付き、自称・王の中の王、光と闇の王は、そう言いながらもさして執着は見せぬ口振りで誘い水を向けた。
 無論俺は瞬く間も与えずはね除けた。当たり前だ、誰がわざわざ敵の本拠地の地下深くまで、裏切りの為だけに出向いたりするものか。
 竜王は気怠げに視線を投げていたが、ふと、考えた風な素振りを見せた。
「欲には、靡かぬか。気に入った」
 鳩尾に、冷たい物が落ちた。
 耳朶を擽る呼気。鎧の肩当て越しに感じる重み。空の玉座。
 俺は生まれて初めて、許してはならぬ者に己が懐を許してしまっていた。
 親しげに肩を抱き寄せ、闇の王は艶然と笑んだ。
「欲に靡く者は別の欲に傾ぐ。――欲に靡かぬそなたなればこそ、信に値する」
 肩を抱く手に、力が籠もる。
 近すぎる。
 対の琥珀が、闇の中俺と、俺の深淵を覗き込んでいた。
 魅入られる。
 蒼白い肌に籠もる熱は、想像以上に暖かい。
 呑み込まれる。
 鼓動が激しく臓腑を打った。体中の熱が行き場を無くして渦巻いた。俺は唾を呑む。
 俺に出来る事といったら、焦燥を必死に押さえ付けるのが精一杯と言った有様だった。端から見れば、狼狽え、焦り、闇に呑み込まれまいと誘惑されまいと抗う姿はさぞかし滑稽に映ったろう。何度唾を呑んだかしれない。何度スライムの数を数え、何度床の石畳の数を数えようとしたかしれない。だが、俺は闇の王の双眸から、一時たりとも目を離せないでいた。俺は後悔していた。人ならざる魔の力を、舐めていた。
 南無三。俺は目を硬く伏せ、半ば諦めに近い気持ちで、再び目を開いた。
 ほんの一瞬の筈だった。闇色の瞳から視線が僅かに逸れた。
 深く笑んだ口角が、微かに震えている。
 目が、笑っていない。
 俺を縛ろうとしていた呪縛の正体は、とんだ枯れ尾花だったって訳だ。俺は吹き出しそうになるのを堪えつつ、蒼い頤に手を添えて引き寄せた。
 柔らかい皮膚の一枚下に流れる、熱い血潮。薄く開いた隙間に、素早く舌を滑り込ませて、擽る。
 舌を引くとほぼ同時に、俺は胸を突かれた。透き通った糸が伸びて、途切れ落ちる。
「一夜の伽の相手なら、付き合ってやっても良かったんだがな」俺は手の甲で濡れた唇を拭った。仮面の裏は朱に染まり、竜王は余りの怒りに己の仮面が剥がれた事にさえ気付いていなかった。狼狽ぶりを嗤いでもしたら、仕舞いには喉笛に噛み付かれるかもしれないな。
 其れも悪くはない、か。
「……食わせ者が……よくも侮辱してくれたな。愚か者め、思い知るが良い!」
 翻る紫紺の袖、突き付けられた杖が幻惑の終焉と死闘の始まりを告げた。

 影が起き上がるのに気付いたのは、竜の血に濡れた玉を何処でどう拭ったものかに気を取られていた最中の出来事だった。延びる筈の無い影が足下を暗く染め行き、俺は意識を玉から手放して闇へと注いだ。
 影の輪郭に視線を這わせると、歪んだ輪郭は膨張と収縮を繰り返しつつ、見た目に似つかわしからぬなめらかな所作で立ち上がった―――様に、見えた。俺は神器の始末を後回しにして、歪な影の正体を見定めた。
 闇に動悸を聞かれたかも知れなかった。
 臓腑を抉った孔から、裾から、袖から、襟から無数の太さも長さも様々な、白い塊がのたうつ。大きく空いた襟刳りから首筋へ、鎖骨へと伸び縮みしながら伝い登る様はさながら虫の蠢きを思わせた。緩慢に這い寄る其れが不意に、しなやかにくねって俊敏に、ありとあらゆる物を逃すまいと角へ、四肢へ、首へと巻き付く。白と、蒼い肌に描く影が鮮やかな対照を為し、深紅が入り交じってより鮮烈な像を描いている。血溜まりが再び、床を侵食し始める。
 長衣の輪郭は時折歪んで、内側で鬩ぎ合う存在を容易に想像させた。触手が立てる衣擦れと、血溜まりに落ちる雫、微かな苦悶の呻きの他に、静寂を妨げる何物も此処には無い。
 俺はあっけに取られて、傍観者を決め込むより他に手立てが無かった。何が起こっているのか、考える事も出来なかった――――考えられたとしたってどうしようもなかったが。白い塊はとうに蒼の領域を食い潰してしまっていた。苦悶に混じる吐息が艶を帯び始め、双眸が光を失い始めた頃になって俺は漸く、塊の背後に深い、強烈な瘴気を放つ闇の姿を認めた。瘴気は闇の底、地下の空間を瞬く間に占拠し、己が物と為していた―――以前から、そうであったかに。
 紫紺の塊が宙に浮いた。殆ど深紅に染まった下肢が張り付いて、布越しに複雑な形を描く。
 闇が一層、粘度を増した。
『よくぞ、余を解放してくれた』
 ノイジーな、生理的嫌悪感を掻き立てる嗄れた声。声――と呼ぶには、もっと直裁で、間に横たわる無限の空間、大気、断絶を省略した――鼓膜へと囁きかける様な。俺が俺である前の本能の領域から現れた感覚が、頻りに危機を訴える。俺は剣の柄に再び、手を掛ける。
『そう、邪険にするでない』柄に伸ばした手は軽く弾かれて、白い塊に取られていた。かといって、強く引き寄せるでも戒めるでもない。俺は触手を振り落とした。掌に、粘質の液体が付着していた。『勇者よ、汝には礼を尽くしてもし尽くせぬ』
「礼を言われる筋合いなど」
『無いなら無いで構わぬ』闇の中、声の主が嗤った気がした。部屋の気温が少し、下がった様に思われた。
 俺は言い知れぬ嫌悪を覚えていた。俺と先程まで対峙し、己が存在を賭けて刃を交えた宿敵には無かった、底知れぬ巨怪さ。あれの怖ろしさは対峙する者を圧倒し、畏怖せしめ、また同時に魅惑する呈の物だが、声の主がもたらすのは、存在を脅かすが如き空虚、とでも言い得る、全く相容れぬ性質の物だった。
 触手が、何時しか前垂れを跳ね上げて潜り込んでいた。慌てて飛び退こうとしたが、別の触手が足首にがっちり食い込んで、たちまち尻餅を付く。触手は足首を解放する代わりに、手を差し伸べて俺の身体を抱き起こした。俺は触手を振り払ったが、結局は同じ事だった。―――眼前の光景に、釘付けだった。
 既に大きく開け広げられていた襟元から、別の触手が覗いた。触手は左右に手を広げ、大きくうねって長衣を開く。肩が、続いて臓腑を抉られた胸が露わになり、穿たれる無数の痕から白い触手がのたうっているのが垣間見えた。が、傷其の物は盛り上がり、徐々に塞がりつつある。
 四肢は疵から潜り込んだ触手に依って戒められ、上半身を後方へと引かれる姿は船首像を思わせる。触手は粘質の分泌物に覆われており、てらてらと濡れ光る肌は恥辱の数々を想起させた。実際、其れは今まさに眼前に開示されているのだ! 王を名乗りし者への辱めとしてこれ以上の屈辱はそうあるまい。触手で塞がれる口は語らずとも、喉奥のくぐもった喘ぎや腰の揺れ、悩ましげに寄せられる眉間の皺が何よりの証拠では無いか。
 腰が、軽くなっていた。前垂れがいつの間にか外されて、宙を踊る。前垂れが、けたたましく響き乍ら壁に叩き付けられる。
『好きにして、構わぬ』
 闇から一対の手が差し伸ばされ、俺を差し招いた。蒼白く、骨張って乾いた、木乃伊の手。俺は抗えず、踏み出していた。
 手は触手によって開かれた襟元へと戻り、長い爪が思わせぶりな程緩やかに、長衣を引き裂いて行った。腹が、脚が描く陰影が捻れて、部分の一つ一つが欲望をそそる―――――欲望? 馬鹿な。そんな、馬鹿な。だが現実はどうだ? 現実は窮屈そうに下衣を押しやっている俺の品行方正な何にでも聞いてくれ!
 闇の中、影が蠢いた気がした。否、影は既に、明確な輪郭と質量を備えつつある。形良く張り切った胸を愛おしげに弄ぶ手と、首筋に這う青黒い舌、愛撫に身悶えする肢体こそが何よりの証拠だ。
 下肢にまとわりついていた一群の白い塊が、解けた。体中の熱を集めた雄の徴はそそり立ち、括れに巻き付き鈴口に潜り込む唯一本の細い触手に依って繋ぎ止められている。下肢に、血が集まる。痛い位に張り詰める。今すぐにでも鎧を脱ぎ捨てて食らい付きたい衝動を抑えるのに必死だった。
 こんなあからさまな罠があるものか。
 罠を仕掛けている奴の正体は解りかねた。が、奴は今までの遣り取り全てを知っていて、こんな陥穽を仕掛けているのに相違なかった。みすみす落ち込んでなるかという思いはしかし、目の前で嬲られ続ける俺の相方同様、巧みに削られ、失われつつある。
『抗うても無駄、と教えたではないか。さ、二人して一時の逸楽に酔うが良い』
 『影』は竜王の首筋を舐り乍ら耳元で囁きかけ、舌の引き際に俺を一瞥した。きゃつめ、俺に言い聞かせるつもりだったに違いあるまい。が、生憎俺の躯はさほど禁欲的には出来ていなかった。先程からはね除けた筈の触手に依って慰撫されていた俺の得物は、はち切れんばかりに膨らんでいる。
 背中に軽い圧力を受け、俺は一歩前に踏み出した。今まで踏み出せなかっただけだ。踏み出した以上止められない。大体、誰がこの欲望に打ち勝てる? 構うものか。大体、奴は魔王だぞ? 辱められたとて誰も同情などすまい。頭の中を執拗に巡る言い訳めいた呟きは、視界へと降ろされた生け贄の、掠れた喘ぎに掻き消された。改めて対峙し、俺は初めて多大な注意を払って嘗ての宿敵を大っぴらに鑑賞する事を許された。こうなってはつくづく眺めない訳にはいかなかった。――――今までは或る種の疚しさ故に、敢えて目を背けていたのだが。
 六尺を優に超える威丈夫。蒼い肌に包まれた躯には戦士の無骨さは無く、全ての部分は軍神の如く神々しく、優雅な曲線に依ってしなやかに調和していた。が、調和は今や闇の手に依って歪められ、望まぬ痴態を演じる様仕向けられつつある。とは言え肉体の魅力は辱めを受けても失われぬどころか、寧ろねじ曲げられる事でいよいよ魅力を発揮したと言うべきであろう。『闇の手』は端からその事に気付いていて、こんな風に美しい生き物を弄んでいるのに違いなかった。
 一方、高貴な顔立ちは執拗に繰り返される快楽と苦痛に屈する形で其の魅力を薄れさせつつあった。太陽の様な、見つめられた者全てを畏怖を抱かしめる双眸の輝きも、今は淫蕩に溶けて力強さを失っていて、俺としては幾分か残念な思いではあった。憎悪に生き生きと輝く黄金の眼が、俺を睨め付けてくれたなら! この誇り高い生き物は、敵方の手で焚き付けられた淫欲の火をどう扱って良いのやら解らずに、決して愉しむ風を見せないだろうに。俺の手で、あれを快楽に屈させしめてみたいものだ。一体どんな素晴らしい顔を俺に見せてくれる事だろう!
 其れでもみだりがわしい眼差しで肉体を愉しむ悦びに比べれば、俺はこのささやかな魅力を諦めざるを得なかった。時折思い出した様に身悶えし、肉欲から逃れて本来の己を取り戻さんと足掻く姿の官能的な事と言ったら! 俺はついに、欲望を妨げんとする全てのしがらみをかなぐり捨てて竜王の前に立った。
「アンタがいけないんだ」
 俺の所為じゃない。最初に誘惑したのは、お前の方だ。
 首筋を、不自然な形に幾つもの血管が這い昇っていた―――否、肉体を知悉している者なら、皮膚の下に浮き上がる其れが血管などでは有り得ないと断じるであろう。事実其れは血管では無かった。隆起は首筋から頤へ這い昇り、しっかと顎を捉えて無理矢理に口をこじ開けさせる。
 ――――何もかもお見通しって事か。
 俺は『闇』を睨め付けたけれども、『闇』は秘やかに嗤うばかりだった。
 顔を寄せ、態と音を立てて下唇を吸う。微かな、鉄の味がした。顰めた眉間の皺が快楽を耐えている様で、何とも欲望をそそる風情だ。
 俺は顔を引き寄せ、蒼い口を塞いだ。
 口腔で舌を踊らせる。首を傾げ、逃げる舌を奥へ、奥へと追い詰める。喉奥でくぐもった声が漏れ、苦しげに息を詰めている。一旦唇を引いて、再び深く舌を忍ばせる。
 無論その間にも他の部分を遊ばせておく様な勿体無い真似はしなかった。俺は時を惜しんできめ細かい手触りと肉の弾力を、素晴らしい肉体の隅々を掌で味わった。吸い付くばかりの肌は俺自身の手で刻まれた疵痕に依って損なわれていたけれども、其の魅力を減じるよりは寧ろ際立たせていたと言って良い。残酷な欲望に駆られて痕に指をねじ込むと、躯がよじれ、かんばせが苦悶に歪む。が、三つ目の傷の中で指に絡んだ触手が、このささやかな残酷を諦めさせた。見た目は変わらぬ肉体の中身はとうに『闇』の手で蹂躙され尽くしていたのだ。許された楽しみはそう多くは無いらしいと思い知らされ、俺は掌の上で転がされている思いを強くした。
 とは言え、まだこの熟れ切った肉体を十分に愉しんではいない。無事な方の胸板に指を這わせ、つんと頭を擡げた突を濡れた手で軽く、弾く。指先で弄んでやると、明らかに呼気が乱れ、切迫するのが感じ取れる。指先で軽く摘んで捻ってやると、首が大きく仰け反った。俺は頭を引き寄せつつ、頤を舌でなぞる。喉仏が小さく、動いて唾を飲み込むのが見えた。零れる息は弾み、頬はすっかり上気していた。恨みがましげな眼差しを感じ取り、俺は躯を引いて、下衣に手を掛けた。
「そんなに余裕たっぷりに見えるか? 生憎」
 下衣の中で笠を張っていた俺の一物は、抑制から放たれて勢い良く飛び出した。弾けんばかりの勢いに俺は慌てて一物を掴み、敵方の何に頭を押し付ける。既に鈴口から滲み出た淫欲は一物を濡らして、淫らな艶を描く。触れている内脈動が微かに伝って来て、俺は嘗て無く心地好く、鋭い感覚を味わっていた。片手をたっぷりの唾で濡らし直してから、殆ど零れそうな程昂った二人分の熱を握り込む。ぬめりで指の隙間から逃げそうになる得物に愛撫を施しつつしかと捉えるのは、得られる快楽に比してもなかなか骨の折れる事ではあったけれども、懸命に快楽に耐えつつも腰の揺れるを止められず、俺に躯を擦り付ける仕草の何とも言えぬ淫らな風情には代え難い。俺は誘われるが侭に再び唇を重ね、指先の動きに合わせて舌先を擽ってやった。竜王は初めの内こそ舌を嫌がったが、濡れた指先が胸先に触れる内、観念したのか小さく舌を動かす様になっていた。俺はここぞとばかりに舌を引き込み、強く吸ってやる。喉の奥から悩ましげな喘ぎが、言葉にならず洩れては消えた。
 触れても、触れても触れ足りなかった。触れる度躯の芯が燃え上がり、今にも焼け付きそうだ。嗚呼、中に沈み込んで、埋もれてしまいたい。奴が初めての男だなんて言う程初心なつもりはないが、此程までに甘美な快楽を味わわせてくれる肉体を、俺は知らない。とはいえ、場の雰囲気や状況だけでなく、"闇"の作用がそうさせているのかも知れなかった。そう思えば何処か溺れ切れぬ。竜王とて想いは同じなのだろう、俺などよりも"闇"の正体を知悉しているから、堕ちる訳には行かない。俺と奴の違いは破滅を怖れるか否かでしかなく、俺は自分で信じていた以上に享楽主義者であるらしい。俺を焚き付ける灼熱は、『闇』の代弁者として執拗に理性を放棄する様囁きかけ、俺は誘惑に屈しつつあった。
 俺よりずっと、『闇』との付き合い方を心得ているに違いない竜王にしても、事情はそう変わり映えせず、寧ろ俺と『闇』との探り合い、鬩ぎ合いの狭間で翻弄され、陥落寸前といった趣であった。少なくとも、首より下、否顎より下は最早己の意志では統御出来かねる様で、煽られるが侭に舌を踊らせ、腰を揺らし、得物を生え返らせている。唯一全ての意志を快楽に委ねていないと伝えてくれるのは闇にあって輝く双眸だが、其れも今では徐々に闇の侵食を受け、湛えた光も殆ど悦楽に溶け霞んでいた。
 なあ、堕ちちまおうぜ。
 俺に言わせれば、ヤる事自体が堕ちた証だ。今更何処に踏み止まるつもりだ?
 うっすらとは気付いていた。俺と違って、奴は己以外の何物かに、己の生を委ねたくはないのだ。だが現実はどうだ? 俺は運命の導きとやらに従って、勇者としてお前を屈服させた。事実が全てだろ。お前は敗者だ。
 察したのか偶然か、長い接吻は振り切られた。荒い息と共に滴る唾液に混じる、血。
 どうせ、破滅は決まっているのだ。委ねた方が楽になれるだろ?
 俺には、わからん。
 唇が、小さく動いた。顎を引き上げる。虚ろな眼が、微かに揺れた。
「言いたい事があるんだろ。言えよ。……言わせてやれ」
 首筋に浮き出る異形がすっと引いた。対の双眸が細められ、眉間に一筋皺を刻む。濡れてやや強張った唇が、艶めかしかった。
「勝ち誇ったつもりか。馬鹿が」
 衝動的に拳が、飛んだ。赤黒い塊が、迸る。
 嗚呼、嵌められてるってな解ってる。
 だけど、嵌められてんのはお前も同じだろうが。
 唇を暗紅に染めた魔王の相貌は、俺の嗜虐心を限り無く掻き立てた。額に滲む汗を、首筋を、喉を吸ってやる。強く、強く吸い、歯形を付ける。舌を滑らせ、胸板を擽る。たっぷり唾を付けて、無事な方の突を舐り、舌先で擽る。軽く噛む。
 腰が、膝ががくがく震えていやがる。好色な癖に。
 舌を緩く下へ、下へと滑らせる。愛撫のしどころはしても仕切れぬ程あった。舌を離すのが惜しく、いっそ体中が舌であれば良かったと思う。格好の良い鍛え上げられた胸や、引き締まった腹。腰の線。見事な曲線を描く腿。腿にしなだれかかり、躯の熱を一身に集める雄の証。其れは微かに震え乍ら高潮の時を待っている。俺は昂る雄を掴み、一息に呑み込んだ。口の中でひくつく、雄。
 えづきそうになったが、其れでも深くまで呑み込む。呑み込み切れる代物では無いが、喉奥までを使って味わいたかったのだ。焦らす様に舌を使い、唇を押し付け乍ら口腔から、雄を押し出す。唇から溢れそうになる括れを離さぬ侭、舌先で裏筋を緩く擽る。限界が近いのを知り、口で満足させてやろうと内腿に指を滑らせる。
 俺は内腿から指を引いた。口を離し、覗き見る。先客が、身を躍らせて蕾を弄んでいた。今まで気付かなかったのが信じられぬ程、太さも長さも様々の触手が派手に音を立てながら跳ね回っている。泡立つ淫液を滴らせ、白く細長い塊が休む間もなく蕾を出入りする様は、生理的嫌悪を呼び起こすには十二分に過ぎる光景だった。俺は触手を全部引きずり出してやりたい衝動に駆られた。
 が、衝動が己を突き動かすより早く、嫌悪の種は贄を解放した。代わりに触手は太腿に貼り付き、皮膚にぴったり貼り付きつつ己の勢力を拡大して行く。指の太さ程もない一本だけが足の付け根から雄の根元に貼り付いて、欲望を戒めてしまう。行き場を無くした熱が、閉じ込められて苦しげに震える。
 生命力溢れるしなやかな輪郭を、凡そ似つかわしからぬ形が包み込んだ。乾涸らび、辛うじて貼り付いた皮が骨を包む掌。掌は見た目からは到底及びも付かぬ膂力を発揮して、両の腿を抱え上げる。
 俺は立ち上がった。躯は離れていった。
 抱え上げた肢体を、闇の手は容赦なく辱めた。脚を開かせて隠し所という隠し所を追い払い、欲望の行き場を閉じ込めた侭、創造力が思い付くあらゆる責め所を責め抜いた。四肢に絡んだ触手は半ば肉体と同化しており、手足の先は埋もれたのか、見えないのかも解らなくなっていた。俺は誘惑を押しやり、欲望の行き着く先――乾涸らびた手の主、『闇』の正体を見極めようと、目を凝らして闇をまさぐった。
 闇の中、二つの空虚が俺を捉えた。
 名状し難き震えが、俺を襲った。解っていた筈なのに。俺は怯んだ。
 闇に視界が慣れる内、闇の輪郭が徐々に姿を現した。萎びた皮一枚で覆われた髑髏の顔。禍々しい光を湛えた眼。優雅な所作に遅れて、色鮮やかな長衣が揺らめいた。
 目が合った。
『抱きたいか』
 嗄れた囁きが、耳朶を擽った。否、俺と『闇』との間には、無限の距離がある筈だった。あの素晴らしい肉体に触れるのを阻む為、奴が引いた溝。だが俺は溝を越えられず、奴は易々と断絶を無化する。
 何を今更。
 だが、まだ引き返せる。かもしれない。
 俺の愚かな心中の呟きを、『闇』が見逃す筈も無かった。口角が歪み、乾涸らびた皮膚が産み出す皺の波が揺れる。
 『闇』の帷、橙色の長衣が音無く開かれた。
 その下には、何も無かった。盲いたかの如き虚無が、ぽっかりと口を空けていた。
 虚無を割って、青黒い充溢が身を擡げる。歪な輪郭。太くはないが長く筋張っており、傘は特別節くれ立っている。
 が、『闇』はそれをじっくり観察させる機会を与えなかった。触手に捉えた贄の躯を引き寄せ、開いた躯を一息に、貫く。
 闇の中に開かれた、肉体。そして黄金の双眸。
 掠れ、途切れ途切れに洩れた秘やかな喘ぎ。
 見せびらかす様中に浅く抜き差しされる異物。蕾は触手の粘液をたっぷり含まされ、一物で貫かれる度足の付け根を伝い落ちる。
 触れぬを惜しむかに躯中を弄び、首筋を、腿を、腕を、皮膚の下を駆け巡り、同化を強いる触手達。
 腹の形が、目に見えて変わった。
 喉奥から、血の塊が溢れて床に散った。呼吸が、明らかに浅い。乾いた上に重ねられる艶やかな朱。
 無論『闇』は戒めを解き放つ事も無く贄を嬲り続ける。それどころか奥まで抉り抜き、一息に引き抜いてはまた深々と突き刺す。休む間も与えず、徹底的に嬲り尽くす気だ。俺は『闇』程残酷にはなれなかったが、眼前の光景を楽しめぬ程品行方正でも、いつまでも蚊帳の外でお預けを食っていられる程辛抱強くも無かった。
「今更、何を」
 引き返せるなんて嘘だ。引き返す気なんざ元から無い。
『望み、叶えてやろう。じゃが』
「条件を付ける気か」
『そなたが此より奪った物を』と、『闇』は己の贄を顎で指した。『その手で砕く、それだけじゃ』
 !
 俺は破滅を怖れているつもりは無かった。無かったけれど、己の前に示唆された行為が何を意味するかは知っていた。
 神より授けられし、闇の魔王を倒し、世界を光で照らした神器を破壊せよ、と。
 ――――まさか。もしや―――?
『出来ぬか。ならば、そうして指を銜えて見ておれ』出来る物ならな、とでも言いたげな口振りだった。
 一方、竜王は最早意識もとうに手放してしまっている様に思われた。声にならぬ声が闇の中に溶け、愉悦の中に浸り切っている。殆ど輝きを失った目。薄く開き、震え、涎を滴らせている唇。根元を戒められ、解放を欲している昂り。
 唇の隙間から、薄く舌が覗いた。双眸は、俺を確かに捉えていた。縋る様な、誘う様な悩ましい眼差しが、俺を刺す。
 唾を呑んだ。
『此も、そなたに抱かれたいのだそうだ。のう?』
 言われずとも、俺は俺をこの世に繋ぎ止める最後の鎖を、自らの手で断ち切るつもりでいた。―――例え世界を敵に回しても。
 俺は血にまみれ、部屋の片隅で力無く光る玉を拾い上げた。宙吊りの侭苛まれていた肉体は、漸く楔から解き放たれ、俺の前に降ろされる。嘗ての宿敵、鋼を融かし、岩をも砕くと怖れられた姿は其処には無かった。目の前にいるのは闇の生け贄に過ぎぬ。快楽に責め抜かれ、壊された。
 俺は誘蛾灯に吸い寄せられる蛾だった。舌に誘われ、三度、唇を重ねた。
 濡れた感触の柔らかさが、否が応にも熱を掻き立てる。舌を吸ってやる。喉奥から、くぐもった声が漏れ出た。柔らかい、しなやかな動き。舌は自ずから深く滑り込み、思わせぶりにすっと引かれる。俺は舌を追って、更に深く舌を差し入れる。
『欲に靡くとは、見損なった』
 確かに、俺にはそう聞こえた。
「―――ッ!」
 食い込む牙。溢れる血と痛みを押さえる。あと少し振り切るのが遅れていたら下唇は食いちぎられていたろう。が、唇の痛みなど! 殆ど力を失っていた筈の瞳は、確かに俺への蔑みを湛えていた。
 汚濁と淫蕩にまみれて尚、矜持を手放さぬ、誇り高き王。
 力で屈服させた筈の存在に、心服した。
 俺の、負けだ。
 俺は玉を、頭上高く掲げた。
『なっ……! 貴様…―――――ッ!!』
 眩く輝く世界の至宝から発せられた幾条もの稜線が、次々に闇を貫き引き裂いて行く。鮮やかな闇の衣は見る間に色を失い、闇を埋め尽くした白い手足も又、見る間に萎びて行った。俺は剣を拾い上げ、闇を貫いた。金属めいた咆吼が反響し、闇の王―――嘗て世界を闇で覆い尽くし、滅ぼされた魔王は再び、光の海へと溶けて行った。闇を塗り潰す圧倒的な輝きの中、苦悶から解放された穏やかな顔を、俺は見た様な気がした。俺の一方的な願望かも知れなかったが、奴の気持ちはそうだったと俺は今も信じている。

 光の奔流が其の余韻を僅かに残すのみとなって、漸く目が慣れて来た俺が闇の中で見付けたのは、首から下は脊髄と肋骨のみ、手足は無論の事、臓物も何もかもをを失った魔王の屍だった。辱められ、蹂躙され尽くした果ての凄惨な姿はしかし、孤高の王たる高貴さを少しも失ってはいない。薄く開いた眼を閉じ、訳も無く熱くなる目頭を押さえて俺は、その場を去った。



 国中が祝賀ムードに包まれている中、俺はぼんやりと、今は昔となったあの出来事を何度も反芻している。
 人々は俺を駆り出してお祭り騒ぎの真ん中に据えたがったが、俺はどうしてもそんな気分にはなれなかった。人々の気持ちは解るけれども、俺は皆に感謝される手合いじゃあない。偶さか、俺が力の上で優っていただけだ、と思える。奴は善い奴では無いだろうが、俺よりはずっと人品賤しからぬ、誇り高く、そして強い。
 俺はそんな自分が嫌だった。
 せめて、葬ってやれば良かったのだ。だが、あの時の俺にはそんな資格は無い様に思えた。
 今からでも間に合うだろうか。
 馬鹿げた思い付きだった。今頃肉は腐り果て、蛆虫に喰らわれて腐汁に浸かっているだろうに。俺は最後まで奴を辱めたかったのか? 誇り高き孤高の王が、己の惨めな姿を誰かに見られたいと思うだろうか?
 けれども俺は奴の様に誇り高くも、忍耐強くも無かった。自分の愚かさを認めて許せる程強くも無かった。  俺は城を抜け、魔の島へと再び渡った。

 城の近くで、リカントを見かけた。
 良い風が吹く、穏やかに晴れた日だった。木の葉の囁きが駆け抜け、金の柔毛が風にそよいでいる。リカントが木の根元の小さな塚に跪く姿には、察して余りある程の哀慕の念が滲んでいた。塚は両手一杯の野の花で埋められている。毎日取り替えているのだろう、萎びた花は一つも無い。
 リカントは何時までもその場に跪いていた。祈っているのだろうか。だが、祈りの聖句も、鎮魂の聖歌も其処には無かった。
 風が、強まった。何時までそうしていただろうか。リカントは膝に付いた砂埃を払うと、小さく頭を下げて去っていった。リカントは一度だけ振り返り、背中を丸めて去っていった。
 リカントが去るのを見届け、俺はその場を立ち去った。

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