転輪聖王

 一生を変える出会いという物があるとするならば、あれは正しくそういう物でありました。あの邂逅、俺の深淵を掴んで離さない琥珀の瞳こそが、俺の人生を、そして世界を根こそぎ変えてしまった紅蓮の種火だったのです。

 先ずは、初めての邂逅についてお話し致しましょう。とはいえ、邂逅と言うには一方的な、俺の片思いなのですが。
 今宵は新たな闇の王の御披露目というので、魔界中の魔物達が城のバルコニーを取り囲み、犇めき合いながら新王の登場を心待ちにしておりました。俺と悪友も例に漏れず、新王の即位を指折り数えて待っていたクチでしたから、バルコニーを取り囲む群衆に進んで仲間入りしておりました。
 世界を闇で支配した先代の大魔王・ゾーマが勇者の手によって滅ぼされてより、魔界の王位は永きに亘って空位の侭でした。他の世界にも魔王と呼ばれるに相応しい魔物は沢山おりましたが、大魔王ゾーマ直々に指名した後継を廃して玉座を簒奪する蛮勇を――敢えて蛮勇と申し上げます、大魔王ゾーマの存在はそれだけ、魔界において強大な地位を占めておりました――振るう者達はおりませんでした。
 大魔王ゾーマが選んだ後継には選ばれるだけの理由がありました。大魔王は深淵なる闇の王でしたが、最後には光に屈し、滅び去りました。全き闇は誠に深甚たるものですが、それでも命を賭した強き光には敵いませんでした。
 大魔王ゾーマが選んだ継嗣は、光の御子だったのです。
 成る程、光と闇の力を有する次代の王ならば、光の勢力に易々と屈する事もありますまい。魔界は新たな王を、闇の王を超える権能を有する強き王を欲しておりましたから、新王への期待は、日が経つに連れ否が応にも高まっておりました。幼くして母を失い、魔界に連れて来られた新王は、闇の城の奥深くにて次代の帝王となるべく大切に育てられておりまして、そろそろ元服に相応しい力と風格を備えているに違いない頃でした。城の教育係達を除けば新王を見た者は誰一人おらず、それ故皆が様々な想像を巡らせて新たな王の誕生を注視しております。今日こそが新たな魔物達の歴史の幕開けになると思うと皆いても立ってもいられず、故に皆、胸を躍らせて新王の御披露目を待ち構えているのでした。
 銅鑼が鳴り響き、耳目が再びバルコニーに集まりました。銅鑼に続くファンファーレにざわめきが止み、皆が息を殺して新たな己の主を待っておりました。俺は運良くバルコニーを一望できる良い位置に陣取る事が出来たので、間近に新王を見られるものとその時を楽しみにしておりました。
 生暖かい風が、髭を擽りました。来た、と思いました。
 影が、動きました。世界中の眼差しが、バルコニーに集まっていました。
 新王が、姿を現したのです。
 大きな立て襟をあしらった紫紺の長衣。長衣に隠されてはいるけれども、大きく取られた襟刳りから垣間見える、瑞々しく張り切った胸の形は、今見えている其れが、己が魅力のほんの片鱗に過ぎないと自ら語っているようですらありました。
 堂々たる体躯、優雅な裾捌きの何とまあ、見事な事でしたでしょうか。歩き方を美しい、と思ったのはこれが初めてでした。俺はもっと間近に顔を見たくて、大きく身を乗り出しました。
 蒼い肌。高すぎず低すぎずに整った鼻梁。闇を見据える切れ長の、黄金に輝く鋭い双眸には、浮ついたところが一つもありませんでした。横顔は彫像の様に高貴で凛として、犯し難い気品に溢れており、畏怖と崇敬をを呼び起こさせる気を纏っていましたが、恐怖を呼び起こす風では決して無く、寧ろ観る者を魅惑してしまう類でした。実際、俺はすっかり我等が新しき王に夢中になっておりまして、後になってもあの日の事をしつこいくらい何度も話したがったので、仕舞いには悪友に、そんなに惚れちまったなら婿にでも行って仕舞え、と罵られる始末でありました。
 そのかんばせが、願いが通じたのでしょうか、ふとこちらに向けられたのです。
 俺は臓腑を締め付けられる想いが致しました。心の臓が早鐘の如く脈を打ち、爆発するのではないかと思われました。
 嗚呼、光がかくも眩い物だとは。歴代の魔王達が光に焦がれたのもさもありなん、と思われました。全てを見透かす深い瞳にじっと見つめられて、果たして目を逸らせる者がいるのでしょうか?
 大分長い間そうしていたようでした。悪友に肩を揺すぶられ、俺は漸く、バルコニーから人影が消えているのに気が付いたのでした。

 しかし程なくして、事態は急変しました。
 新王が、全ての臣下を城から追放したのです。否、そればかりか、廷臣の中でも特に側近中の側近、魔王ゾーマの時代から側仕えしていた者達を、裏切り者として悉く、手ずから処刑したのです。その様子を見ていた者曰く、バルコニーから姿を現した新王は返り血を一杯に浴び、憤怒の形相でもぎ取った首級を広間へと次々投げ付けると、誰一人城内への侵入まかりならぬ、命に従わねばこ奴等と同じ目に遭わせてくれよう、其れだけを言い残し、裾を翻して城の奥へと姿を消したのだそうです。
 そうして、新王はそれきり、人々の前に姿を現さなくなりました。
 魔界は朝から夜までそのウワサで持ちきりでした。曰く、王は乱心した、光の生き物故魔王となるのを怖れ拒んだと。魔物を滅ぼす為魔王となるのを拒み、魔物達を呪っているのだとか。皆想像で、ありそうもない話をでっち上げては面白おかしく語るのでした。
 誰一人仕える者もない城に閉じ籠もってこれからどうするのかを、誰もが不思議に思っておりました。姿を見せなくなってから半月が経ちましたが、城の様子は一向に伝わって参りません。誰も居ないのですから不思議と言うも愚かな事ではありますが、禁じられている以上、動向をやきもきしながら見守っているしかありませんでした。王位は空白の侭でしたし、新王がこの侭二度と姿を現さず、城の奥で朽ちてしまったらどうしよう、一体魔界を誰が導いていくのかと不安になるのは無理もない事でした。新王を差し置いて、他の誰なら魔王に相応しいか、などと口さがなく語らい、誰が相応しいと思う、などと問う者もおりました。
 しかし、俺には他の誰を主と仰ぐ事も考えられませんでした。流石に、悪友を除いて誰にも申しませんでしたが、他に魔界を統べる王として相応しい者など誰一人としていないとまで信じておりました。どの魔王とて、此程熱烈な崇拝者を得た事は無かろうと思われます。俺は新王が早く皆の前に姿を現して、魔界の玉座に着く日を待ちこがれていたものです。あまりに想いが熱烈なので、やがて俺は、姿を現さぬ主への憧れ故に、病に伏せる様になりました。初めの内こそ悪友が薬湯やら香やらを施してくれたのですが、一度原因に気付くや、恋に効く薬など持ってはいないと笑い飛ばされ布団を剥がされる始末でした。俺の気持ちはそんなものじゃないんだと抗弁しても、悪友は取り合ってくれません。
 全く、昔から失礼な奴でしたが、何でも茶化していいもんじゃない、俺は真面目だ、と言っても、熊助よ、恋の病ばかりは寝ていても直らんぞと笑うばかりです。
 しかし、確かに悪友の言葉は的を得ているように思いました。恋云々では勿論ありません。そもそもが、どだい身分違いではありませんか。俺は一介の魔物、しかも強力な力を有する上級魔族等ではなく、少しばかり力が強くてすばしっこいのが取り柄のリカントに過ぎません。そんな大それた恋慕を抱いているつもりはありませんでした。俺の言いたいのはそういう事ではなくて、三世の誰にも負けぬ忠誠を口にするなら、主の現れるのを唯漫然と待ってなどいない、俺の忠誠心は口だけで、形を伴っていない。そんな忠誠心など、陛下は――まだ即位してはいませんでしたが、俺には、他に陛下とお呼びしお仕えするに相応しい魔王など認めておりませんから、敢えてそうお呼び申し上げます――望んでいないに違いないのです。さもなければ、裏切り者と廷臣達を罰して首をもいたりはしなかったでしょう。
 俺は悪友の腕を無理に引いて、城に忍び込む事にしました。悪友を引きずり込んだのは俺の臆病もありますが、人を茶化した奴に仕返しをしてやりたいと思ったからで、そう言い募られれば否とも言えなかったのでしょう、流石の悪友も仕方ない、付き合ってやるかと重い腰を上げたのでした。
 しかし、どうやって城に忍び込んだらよいものか、俺は途方に暮れておりました。行く手を阻む衛兵こそおりませんでしたが、門は固く閉ざされておりましたし、城の背後には岩山がそびえ立ち、どうにもこうにも難攻不落の構えを見せております。俺達は岩山に登りそこから忍び込むことにしましたが、その岩山とて、当たり前ではありますが決して楽に登れるというものではありませんで、私の相棒などは長い法衣を砂まみれにして、熊の気紛れになど付き合うんじゃなかった、恋は盲目、などと文句を垂れながら、結局は俺の手を借りて何とか城に辿り着いたのでした。
 城の中は全くの真っ暗闇というに近く、大魔道師である相棒がいなければにっちもさっちもいかないところでした。相棒は高く付くぞと申しておりましたが、俺は素知らぬ振りを決め込んでおりました。気配らしい気配は途絶え、沈黙がのさばっているという次第で、我々は先客に遠慮して、跫音を殺さざるを得ませんでした。大体、禁を破って忍び込んでいるのですから、見付かったら八つ裂きにされても文句は言えない訳で、奥へと進むにつれ口数も自然と少なくなっておりました。
 俺達は宛てもなく、ただふらふらと無闇に歩き回っておりました。それらしき気配も感じられません。心臓がどくどくと、不安を掻き立てられて強く脈打ちました。
 嗚呼、何度引き裂かれても構いません。どうか御無事でいて下さいませ。
 階段を三つほど下りて、二つ上がった頃でしょうか。自慢のふさふさした、金色の毛が我知らず一斉に逆立ちました。落ち着かせようにも一向に止まらず、震えさえ覚える始末でした。
 光の生き物なら瘴気と呼ぶ、強大な闇の気配でした。
 間違いない、とみっともなく毛を逆立てている俺などお構いなしに、相方は奥へとずんずん進んでいきます。相方を追って肩を掴むと、相方は、人差し指を立てて言いました。
「おい熊、変だと思わんか」
「熊じゃない、俺にはカリオンって言うれっきとした名前があると言って……」
「しぃっ! でかい声出すな」相方は杖で俺の頭を叩きました。「お前だってあの場にいただろ」
「あの場?」
 如何にも馬鹿にしたように、相方は鼻を鳴らしました。「元服の儀の日、初めて皆の前に姿を見せた時だ。間近で見てた癖に」
 俺は相方の言葉が正しかった事を直ちに覚りました。我等が王はこんな気を纏ってはおりませんでした。辺りに溢れ出る気は、確かに闇の其れでした。暗く澱んだ、重々しい、陰鬱な気分を呼び起こす気配は、どうやっても主の物ではありません。
 もしかしたら、我が主は生きていないかもしれない。
 怖ろしい可能性に思い至って、震えが止まらなくなりました。恐れの故にではありません。どんなに打ち消しても、高貴な顔が痛ましい姿を晒している処を想像してしまうのです。
「とにかく、行こう」
 生きております様に、と祈りつつ、階段を上がりました。瘴気は、今となっては噎せ返る様な濃さになっております。空気は澱んでおり、確実に、少しずつ、気温が下がってまいります。
 扉に手を掛けると、相方が立ち止まってしまいました。相方が足下を指差しますと、引きずられた痕が点々と、扉の奥へと続いております。廊下の突き当たりには締め切らない観音開きの扉があり、痕はそこで途切れております。魔物には決して流れてはいない赤い血の混じった、痕でした。
「ここまでは付き合うがな、この先はお前一人で行け。こっち側で見ててやるから」
 ここまで来ておいて、随分な薄情者です。嗚呼解ったよ、死んだら化けて出てやると毒突いて、俺は取っ手に手を触れました。
 肉球が痺れました。思わず、取っ手から手を放しました。未だに、痺れが重く残っています。
 それでも、俺はもう一度取っ手に手を掛けました。
 扉が、僅かに軋みました。俺はしまった、と思いましたが後の祭りです。
 中から冷気が、濃密な瘴気と共に溢れ出しました。俺は慌てて扉を閉めましたが、中からは取り立てて物音は聞こえて参りません。俺は再び、僅かな隙間から中を覗き込みました。
「どうだ」
 相方が声を掛けてきましたが、答えるどころではありませんでした。
 広い室内は如何にも寒々しく、元々は高価な調度品が並べられていたに違いないのですが、どれもこれも元の面影を残してはおりませんでした。カーテンは縷々と裂かれ、調度は粉々に砕かれてさながら廃墟の様でした。引きずられた痕は、部屋の真ん中に据え付けられた天蓋付きの寝台までで消えておりました。
 軋む寝台。
 引き裂かれた紗から何やら中の様子が透けて見えます。俺はもう少し扉をこじ開け、中に首を突っ込みました。
「おい、どうした……!」
 俺が首を引いたのは、相方に呼ばれたからではありません。見てはいけないものを見てしまったのです。しかし、見てはいけないものは得てして、見てはならぬというその事実の為に人を惹き付けて止まないのです。俺はもう一度、扉の奥に鼻っ面を突っ込みました。
 白い触手が、羅紗の帳を持ち上げました。
 帳の奥には、無数の白い触手が犇めいております。その中には―――我等が主が、戒められておりました。王は触手で手足を縛され、はだけた紫紺の長衣からは幾夜も夢想した、逞しい肉体が覗いておりました。しかしそれもぬらついた触手の餌食と成り果て、微かな灯火を受けて淫らに濡れ光っているのです。面差しは以前より若干窶れた様に見受けられ、俺を魅了して止まないあの輝きも、倦み疲れ何処か力を失っておりました。触手の一本が裾を払い除けると、硬くそそり立った雄が、隠し所が露わになりましたが、その隠し所さえも既に無数の触手によって蹂躙されており、雄をがんじがらめにされた上で執拗に責め立てられておりました。責め苦の楔を打ち込まれる度、快楽の衝動で腰を揺らす姿に、何時しか躯の芯が熱くなるのを覚えて、俺は戸惑いました。
 触手の中から―――否、実際は宙から透き通った手が伸びたのですが、遠くからはそう見えたのです―――蒼白い乾涸らびた手が現れました。手は襟元を掴み、開いて行きます。肩口に、首筋に、無数の噛み痕が刻まれているのが見て取れました。木乃伊の手が、胸元を包み込みます。と、我が主は身を竦め、身悶えして手から逃れようと致します。しかし手はそんな事で犠牲者を手放したりはいたしませんでした。萎びた手が、乳房を摘んで指先で転がし、弄びます。尖った爪で胸を引っ掻き、傷付けますと、主は仰けぞって、無防備な喉をさらけ出しました。
 肩口に、ぼうと赤い光が二つ、浮かび上がりました。赤い光は禍々しく、見る者全てを凍て付かせる輝きに満ちておりましたが、それでも俺は光から目を逸らせませんでした。光を見つめていると、闇は凝固して、手よりももっと乾いた骨と皮だけの髑髏の姿を現したのです。髑髏は薄ら笑いを浮かべており、蒼白く、後ろの帳や壁が透けて見えます。角の生えた冠か兜を被っておりまして、真ん中の大きな眼が当たりの様子を伺って落ち着かなく蠢いております。俺はその姿を、確かに見た事がありました。
 魔物は首筋に噛み付き、黄ばんだ歯の隙間から青黒く長い舌を伸ばして、躯を舐め回しました。手が脇腹に滑り込み、やがて赤い染みが、脇腹を汚すのが見て取れました。腰を揺すぶる動きが強まり、口角から一筋、闇の魔物には決して見られぬ赤い糸が一滴、頬を汚して行きました。苦悶にかんばせを歪め、躯を強張らせ、王は途切れ途切れに何かを呟きました。耳をそばだてると、遠く離れた俺の耳にもはっきりと、掠れてはいても深みのある声が届きました。俺はこの時初めて陛下の声を聞いたのだと気付きましたが、声には疲労とやるせなさが滲んでおりました。
「貴、様の、思い通りには……な、なら……ぐ、っ」
「何を今更。そなたは我が依り代となるべく育てられたというに」
 嫌だ嫌だと何度も首を振りましたが、その首も触手に戒められて動かすのも侭ならぬ様子でした。首を絞められ、手足を戒められた上で辱められる姿は、残酷ではありましたが艶めかしく、苦しげに身を捩る姿などは何とも言えぬ風情でした。俺は欲望をそそられ、知らぬ間に、己の猛る雄を掴んでおりました。
 長い爪が、胸元を離れて腹を辿り、昂りに触れました。疲れて悩ましげなかんばせに、快楽の色が射しました。青黒い爪がゆるゆると、裏筋を辿って参ります。俺はたまらなくなって、手を激しく動かしました。
「か、解放……して……くッ」
「そなたが、その身を明け渡しさえすれば良い」闇は、闇の王は醜い顔を更に醜く歪めました。「快楽に我を忘れ、我に溺れよ。さすれば、我等は一つになり、世界に光と闇の王が生まれるのだ。おお、おお、好いぞ、好いぞ。そなたは余を悦ばせる術を独りでに身に備えておるのじゃな!」
 俺はぞっとしました。全ては周到に準備されていたのです。闇の王―――大魔王ゾーマは、己の弱点を克服し、復活して再び世界に君臨せんが為に、光の御子を依り代とするつもりなのです。
 気の遠くなりそうな話でした。しかし、有り得ないともまた思いませんでした。なるほどゾーマは慎重に準備を重ねてきたと言えましょうし、その威光は死してなお魔物達をひれ伏させて参りましたから、不可能どころか朝飯前と言って良かったでしょう。
 しかし、俺には承伏出来かねました。殆ど騙し討ちではありませんか。卑怯だ。御子が抗うのも無理はありません。己を次代の王と信じていたのに、配下が尽くしていたのは、己を旧き王の生け贄に捧げる為だったのですから。廷臣の首を残らず撥ねたのもむべなるかな、と申すべきでしょう。
 ああ、しかしやんぬるかな! 廷臣の首を撥ねようが、片っ端から城外に追放しようが、王の孤独は止みません。助けも無く、闇に怯え、そして辱めに耐えねばならないのです。何時まで耐えられるかも解りません。やがて心が折れてしまうか、欲に屈してしまうかも知れません。逃れる術もなく、徒に時だけを引き延ばし、苦痛だけが増して行くのです。何と耐え難い事でしょう!
 それに、過去の威光があったとて、大魔王ゾーマは終わった存在なのです。どんなに偉大だったとしても、既に一度勇者に倒されたではありませんか。後継を指名し、闇に退いたではありませんか。
 俺にとって、仕えるべき主は最早魔王ゾーマではあり得ませんでした。
「陛下ぁああッ!」
 俺は扉を押し開け、寝台に飛び乗っていました。触手を剥ぎ取り、王を引きずり出そうとしました。王は半ば意識を失っていて、俺は目を醒まさせようと頬を叩きました。
 俺の躯は宙を飛んでいました。
「ぐふっ!」壁に叩き付けられ、俺は意識を失いました。

 意識が戻ると、間近に我が主の顔がありました。
「何故……此処に、いる」
 俺は弁明をしようと試みました。しかし無駄でした。俺の足りない頭ではそれらしい言い訳など何一つ浮かびませんでした。俺は平伏し、申し訳御座いません、俺如きの首なら幾らでも差し上げます、と床に額を擦り付けました。陛下は鼻で笑いましたが、二歩と歩かぬ内にその場に頽れました。
 俺は慌てて躯を抱え、相棒の下へと戻りました。相棒は驚いておりましたが、兎に角直ぐにでも城を出よう、家に戻ろうと申しまして、俺も早速その意見に従いました。

 手当を受け、良い匂いのする薬湯の風呂に浸かって、陛下のお気持ちは幾分か落ち着いた様でした。俺は手拭いで躯の汚れを拭いて差し上げ、相方は薬茶を沸かして皆に振る舞い、練り薬を傍らで混ぜておりました。
「おい、熊。水飛沫を飛ばすな、下手糞め。床が腐って抜けたら貴様の所為だからな」
「熊と言うな熊と。誰が熊だ、俺はリカントだと……それより、躯は痛みませぬか」
 陛下は茶を啜りつつ、黙って我々の遣り取りを聞いておりました。が、ふと貌を上げて俺を見るのでした。目が合ってしまったので、俺は手を止め黙り込んでしまいました。だって皆さん、そうでしょう。城への出入りは禁じられていたのに、俺達は勝手に入り込んで、それに……。
「そなたらが今宵見た事は、全て、他言無用」
「は、ははっ」
 躯が、湯船に沈み込みました。「良い……それから、あれに熊熊言うてやるな。熊と言うよりは寧ろ、ネコであろう」
 俺は目をまん丸く見開きました。悪友は噴き出して、げらげら笑っております。俺は顔を真っ赤にしましたが、相手が相手なので抗弁するのも憚られ、悪友が放って寄越したバスタオル二人分を黙って受け取るのでした。陛下が湯船から身を起こしますと辺りに薬湯の臭いが立ちのぼり、麗しくしなやかな肉体が露わとなったので、俺は御身を見ないように見ないようにと気遣いつつ、恐る恐るタオルを差し出すのでした。俺は俺でずぶ濡れになっておりましたのでいそいそと躯を拭っておりますと、悪友が濡れた床もそのタオルで拭いておけ、と申しました。悪友は奥からバスローブを取り出して恭しく差し出し、良い物ではありませんがお許しを、あちらに寝室がございますのでお使い下さい、と頭を下げておりました。
 陛下が寝室に姿を消すと、相方は毛を乾かす様俺を暖炉に引っ張っていきまして、体が良く乾いたら陛下の躯に練り薬を塗って差し上げろと申しました。俺はさっきからこき使いすぎだろうと不平を申しましたが、相方は相方で、薬の準備もせねばならぬし部屋の後片付けも待っている。大体、俺の服もお前の雫でベタベタだ、などと生意気を申します。陛下のお世話をするのが嫌か、と切り返されては嫌とは言えず、俺は練り薬を手に寝室へと御邪魔いたしました。
 寝台に横たわる陛下の頬は湯上がりで上気しており、微かに残る仄かな薬湯の香りが鼻腔を擽りました。練り薬を寝台の脇に置きますと陛下は身を起こそうと致しましたが、俺はそれを押し留め、肉球にたっぷり薬を塗り込みました。練り薬はどことなく蠱惑的な甘い薫りを漂わせておりまして、ぬるとした感触を手に残します。傷口に触れますと陛下は少しお辛そうでしたが、痛むのは当然故気を使わぬ様仰って王に相応しい心遣いを見せて下さいました。薬を塗り込む度微かに上下する胸の動きが、顔に痛みを出さぬ様気遣って下さっているのを気付かせて下さいまして、俺は陛下の寛大さに、心から敬服するのでした。
 疵痕の一等大きなの、脇腹よりやや下でしょうか、肉球が触れた時でした。
 俺は十全に気を配っていたつもりだったのですが、爪が傷口に触れてしまったのか、陛下は顔を顰めてしまわれました。俺は直ぐに手を引き、申し訳ありません、と頭を下げました。下げて何とかなるとは思っておりませんでしたが、それでもそうせずにはいられませんでした。
 俺の喉を、擽る物がありました。
「そう、頭を下げずとも良い。そなたの柔毛は柔らかいな」
 俺の喉を擽っているのは、陛下の手でした。思わず喉を鳴らしてしまいますと、陛下は小さくお笑いになりました。少し窶れてはおりますが、穏やかな笑顔でした。
「お、およし下さいまし……」
 陛下は暫く喉を擽っておりましたが、仕方なしに手を引きました。俺が再び薬を塗ろうと乗り出しますと、はて、尻尾の付け根がむずむずと、擽ったいではございませんか。振り返ると、陛下が尻尾の先を掴んで玩具にしているのです。根元から緩く扱いて、毛先を摘んでは尻尾を振り、また根元に手を這わせては毛を扱きます。背筋から、熱がじわじわと這い昇って行くのが感じられます。
 俺の躯と頭は既に好い加減火照っておりました。塗り薬の香りの所為か、感触の所為か、はたまた傷付いてはいるが堂々たる肉体の故でしょうか。先程からかっかと燃え盛る欲望にだけは、どんな苦痛に耐えられようとも耐えられそうにありませんでした。
「陛下ッ」
 俺は半ば、陛下に対してお恨み申し上げる気持ちになっておりました。こんなにも尽くしておりますのに、俺の気持ちを弄ぶ様な無体な真似をなさるなんて。俺は何時しか、寝台の上に陛下を組み敷いておりました。陛下は擽ったそうに止せ、止せ、と笑っておられましたが、俺は陛下がそうするより早く、首筋に舌を押し付けておりました。やはりお前はネコだ、と仰って本気になさいませんので、俺はバスローブを乱暴に左右に開いて、瞬く間に剥ぎ取ってしまいました。
 俺に組み敷かれて、陛下は不思議そうな、憐れむ様な顔で俺を見ますので、俺は余計にかっかと来まして、力一杯躯を寝台に押し付けつつ体中を舐め回し、撫で回しました。俺の尻尾を擽ったお返しに、俺も尻尾で陛下を擽ってやりますと、やがて上気した頬が更に熱を増し、躰の中心に熱が集まっていくのが見て取れました。俺は陛下を抱き竦めますと指に練り薬を擦り付けまして、秘め処に塗り薬を滑り込ませました。「こんなにお慕いしておりますのに、俺をからかって。俺は木偶の坊じゃあ御座いません。俺は……ずっと……」
 くぐもった、艶のある声が漏れました。陛下は途切れ途切れに荒い息を零すのが精一杯で、俺のいきり立った得物を見て何かを言いかけましたが、それも直ぐ、俺の躯が押し込まれるや有耶無耶になってしまいました。
 俺は驚くほど夢中で腰を振っておりました。腕の中に温もりを抱きしめ、心地好い熱の中に己を埋めておりました。既に解された中は吸い付く様で、決して離しては下さらぬ勢いです。淫らな水音、薬湯に混じる微かな汗の臭いが俺を煽り立てます。陛下は抗うのを止め、唯俺に身を任せておりました。零す息に混じって喘ぎが零れ落ち、下肢が小さく動いているのを感じて、陛下はそんなに嫌がってはいないのだな、と感じておりましたが、例え嫌がっていたとしても、俺は俺の欲望を押し留める事など出来なかったでしょう。俺はもう、自分を制御する術を失っておりまして、夢とも現とも付かぬ侭、俺はありったけの欲をここぞとばかりに解き放ったのです。
 首尾しても尚、俺は熱の余韻に身を任せておりました。躯の重みを預け、俺の下で激しく脈打つ命を味わっていました。玉の汗が沸々と浮かぶのを舌で拭っておりますと、俺の下で陛下が小さく身悶えいたします。この人はまだ俺を煽り立てる気なのでしょうか? しかし熱が落ち着き、琥珀の眼差しが瞼の奥から覗きますと、俺は自分がやらかした不始末の意味にようやっと気付いたのでした。あんまり慌てて寝台から飛び退いたので、俺はひっくり返って床に叩き付けられてしまいました。俺は慌てて蹲り、尻尾を丸めて下される罰を待っておりました。
「おい、さっきから煩いぞ……?!」
 何とまあ、これ以上は無い程最悪のタイミングでした。俺はみっともない格好で床に蹲り、寝台は衣服も寝具も乱れに乱れておりましたし、陛下は陛下で事を終え、しどけない格好の侭横たわっておりました。俺がちらと見上げますと、気怠げに身を起こしております。相棒はこの愁嘆場を目にするや、ぷっと噴き出しました。
「ば、ばか、噴き出すな! わ、笑うところじゃない」
「これが笑わずにいられるか。全く、また風呂に入れよ。ドロドロにしやがって」相棒は俺を軽くいなすと、俺の頭を押さえ付けました。「く……にゃんこの奴、この通り、真剣に陛下に惚れておるのでございます。貴男様をこうして城よりお連れするまでは、叶わぬ恋に身を窶す余りに床に伏せる始末。陛下のお命をお救い申し上げたのもこのネコめ故、何とぞ。何、にゃんこめが悪いのでは御座いませぬ。実を申しますれば、お二人を焚き付けたのには何せこの俺なのですから。盟友に思いを遂げさせてやりたいが余りに、薬湯と塗り薬にほんの少しばかり媚薬を混ぜました故。何せこ奴は頑なで、なかなか己の恋情を認めようとはいたしませぬ。それ故」
「なっ!」
「首を撥ねるならこの俺の首を差し上げましょう。さあ、幾らでもお持ち下さい。ですが、ネコめだけはお許し下さいませ。例い一時の過ちとして、貴男様を思うが故の事ですから」絶句する俺を尻目に、相棒はそんな事を申しました。俺は呆れ果てました。確かに小狡い奴ではありましたが、悪友がここまで大胆不敵だとは! 相棒の手が少し緩んだので、俺は上目遣いに陛下を見ました。
「成る程、余を助け上げたそなたの手が湿っておったのは、その所為なのだな」
 相棒はまた噴き出して、今度は俺の頭を何度も叩きました。今度は陛下も笑いを堪えておりまして、俺は余りの恥ずかしさに、穴があるならどんな穴にでも閉じこもってしまいたい心持ちでした。が、俺の頭を叩く手が、何時しか撫ぜる動きに変わっていたので、俺はもう一度顔を上げました。
 間違えようにも間違えようがありません。暖かい手は、陛下のお手でありました。
「……良い。所詮余は依り代に過ぎぬ故」
「いいえ、そんな事はございません」俺は頭を上げましたが、結果として陛下の手をはね除けてしまったので、慌てて俺は手を取り手の甲に接吻するのでした。「貴男様はこの上なく高貴にして強大、我々下賤の魔物には、眩しき雲の上の方。先程のそれは夢幻と」
「こんな傀儡の王でも、そなたは忠義を尽くし慕ってくれたのだな……」陛下は寂しげに、微笑まれました。
「だが、城を脱したとはいえど、闇の世界にある限り決して、ゾーマの魔の手からは逃れられぬ。何時まで逃げ続けられるかも、耐え続けられるかも解らぬ。―――いっそ、己を手放してしまえれば楽であるやも知れぬな……」
「逃げられぬなら、いっそ攻めれば宜しいのです」悪友が不意に独白を遮ったので、俺と陛下は悪友の顔を見ました。
「大魔王ゾーマの弱点は分かっております。ウワサに依れば、貴男は光の竜の御子だとか。ならば、ゾーマが貴男に指一本触れられぬよう、光を取り込んでおしまいなさいませ。闇の王に打ち勝つ程の、強い光を。貴男ならば出来る筈です。誰が闇の世界を統べようと俺にはどうでも良い事です。が、これから毎日、このネコ介がしょぼくれた顔で俺を見るのを思うと我慢ならんのです。だから」
 悪友は杖を陛下に突き付けました。
「陛下、貴男は闇の世界の王として、否、光と闇の王として世界に君臨すべきです。その為には強き光を手に入れなさいませ。この阿呆ネコの為にも、ネコの面を毎日拝む俺の為にも、生きて、生き延びて、我等の王とおなり遊ばしませ」
 俺は圧倒されていました。そして悪友を見くびってさえいた己を恥ずかしく思いました。頭は回るが悪戯気が多くて毒舌な友の男気を、俺は今日、初めて知ったのでした。
 悪友が俺に、後ろ手に隠し持っていた壺を渡しました。高価な、香油の薫りが鼻頭を掠めました。感謝を込めて相棒に小さく頭を下げました。相棒は素知らぬ顔をしておりました。
 俺は再び陛下の足下に平伏しました。「俺如きの命で宜しければ、骨の髄まで捧げましょう。陛下の世が、常しえにあらん事を。どうぞ、おみ足を」
 陛下の蒼白いおみ足に、俺は琥珀の液体を注ぎました。ナルドの薫りが、部屋一杯に広がりました。

 地上のアレフガルドと呼ばれる国に託された光の玉―――竜の女王、即ち陛下の母君の忘れ形見―――の存在を知るにいたり、人間共から光の玉を奪い返し真の所有者となった陛下が名実共に光と闇の王、諸王の王として君臨したのはそれから間もなくの事でありました。

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