渇望

「ごはっ」
 床に叩き付けられ、込み上げてくる迸りが花弁と散って、降り注いだ。元は蒼かった衣も、何時しか血に染まって色褪せた紫衣となった。
 善きものよな、と、大魔王ゾーマはひとりごちた。
 暗黒の王は殊の外、血の紅を好んだ。己には無い物を人が望む様に、闇の王も又、己の手に余る光の生き物の証―――躯を廻る紅蓮を愛でる悦びを、絶望を啜り憎しみを喰らい、悲嘆の涙で喉を潤す快楽と共に(かつ)えて已まなかった。
 が、悲嘆の涙の方は望んだところで簡単に手に入れられそうには無かった。どんなに絞り出そうと、苛烈な環境より身を守るを強いられた凍れる魂の内に、涙は唯の一滴も居場所を見付けられそうにはない。ゾーマ自身も又、望むべくもない涙よりも手っ取り早く憎しみを買う方が余程楽であったし、光の御子に涙が似合いもせぬ事を良く承知していた。
 憎しみに燃える 黄金(きん) の双眸の色合いも、又己が持ち得ぬ色であった。全てを凍て付かせる闇の内に永くあって、未だ色を失わぬ眼差しに改めて驚嘆を覚える。憎悪に、時に絶望に、苦悶にと相を違える色合いを飽く事無く眺める様子は、子供が色とりどりの鉱石を夢中で集める様にも、蛾が誘蛾灯に惹きつけられるのにも似ていた。
 知っていて、寄越したのか。
 何れは手放すを怖れる様になると。
 闇の王は自らを滅ぼすべく天の王よりもたらされた御子の肢体を、何処か疎ましげに眺めていた。
 抉られた躯は、だらしなく壁にしなだれかかっている。多量の闇を帯びた身は、注がれた力に一切の耐性を持たない。光の子であるから、としても、体内に蟠る其れを吐き出す手段を持たぬはどう見ても先天的な欠陥としか思われぬ。
 我が手に堕ちるが為に造られたか。
 疑念を抱くも、当然であった。

 御子は爪痕を一杯に孕んだ胸を喘がせ、荒い気を零していた。胸だけではない。首筋の形に添って幾条も、赤黒い痕が在る。舌を這わせるとはね除ける様に身を竦めるが、結局は力無い動きに留まって無力を思い知らされるばかり。再び胸元に爪を埋め込むと、水面で踊る魚の様に大きく跳ね上がって、再び黒ずんだ塊を吐き出した。
「いっそ……殺せ……」
 震え、蒼醒める唇。微かな灯りのみを受けて揺れる黄玉には、しかし、闇の王が望む様な媚態も、失われた輝きも無い。寧ろ未だ、十二分に過ぎる程強い。爪を引いて、靴底を胸に強く (にじ) る。
「ご、はっ……」
「死にたいか」萎びた口角が吊り上がった。「なれば、こう申せ。『どうか貴男に慈悲あらば、私を殺して下さい。私は最早、貴男の与える絶望と苦悩に耐えられませぬ。貴男への報復も、貴男の権能に逆らってまで私を守ろうとした愚かな母の復讐も、何もかもを全てを諦め、我が身を捧げましょう。ですから、どうか私の命を奪って下さい。貴男が我が死までの道程にどんな苦しみを私に与えようとも、私は苦しみを長引かせぬようにと願い、死をのみ己が希望として耐えましょう』とな」
 言う筈も無かった。青黒い唇が、戦慄いた。色褪せた黄玉が瞠られ、見る間に憤怒の色を取り戻した。
 何と眩い色であろうか! 闇の王は己の欲望が、憤怒の色を湛えたのをはっきり覚えた。
 襟首をひっ掴み、祭壇の上に引きずり上げる。闇は犠牲者の四肢から自由を奪う代わりに感覚の鋭さを強める。顕わな胸元に冷えた手を滑り込ませると、蓮の臓腑の脈打つが、掌を通じて聞こえて来た。
 蒼白の面が、儀式の始まりを予感して強張った。
 己が立場を解り過ぎる程に解っている、そう思うと、内に孕む欲望を形にせずにはおれなかった。
 伏せられた黄玉の内に宿っているに違いない淫蕩の色を急いて、温い空気の中這い登らせる瘴気。瘴気は蔓草を思わせるうねりを伴って、白い実体を浮かび上がらせ乍ら絡み付く。御子は小さく呻いたが、躯に力が入らない。払い除ける事さえ侭ならず、白い塊に己が身を蹂躙させるに任せていた。
 光と、闇。
 二つの隔たりは余りに遠く、憤怒も憎悪も絶望も、悲嘆も、苦悩も、恐怖も、決して共有され得ない。互いに心を閉ざし合い、光は炎を滾らせて灼き尽くし、闇は冷気を漲らせて貪り尽くす。
 だが、唯一つ我等が共に分かち合える物を知っておるか?
 無論問いは放たれず、闇の内に潜むが侭になっている。知らぬと言われるが関の山、答えを教えた処で、頑なに否定されるが精々であろう。
 散々嬲られ尽くした躯に、目にも鮮やかな赤橙色の裾が覆い被さった。裾の中が瘴気で膨らんで、一息に裾を広げる。溢れ出た細く白い塊が、緩やかに躯を戒め、闇へと引き寄せる。
 光が、闇を呑み込んだ。否、光への暴力的な侵犯と言うべきであろう。光は微かに喘いで、のたうち、やがて逆らわなくなった。そうしたくても出来ぬ躯にされていた。
 戦慄いて、薄く開いた唇から、又朱が溢れ出た。気丈にも我を失うまいと微かに揺れる眼に、最早何も映ってはいまい。顎を押し上げ、無理矢理口を開かせる。己の萎びた貌には、蒼醒めた唇に重ねる肉など無かった。
 青黒い舌が、隙間を割って忍び入った。呼気を塞がれた呻きには耳を閉ざして、舌を執拗に絡ませ、吸い上げる。口腔の温もりが、己には無い熱が心地好かった。
 我と汝を唯一つ繋ぎ、共に分かち合う物。その名は肉の快楽。
 どう拒んでも、一度与えられれば躯は愉悦を求めて貪欲に蠢く。其れが証拠に、そなたの躯は高潮の予兆に震えておるではないか。違うか?
 否、知らぬでも良い。気付きたくなくば、知らずとも。

 何故なら、世界の秘密を知る者は、やがて滅ぼされるであろうから。
 ―――――余の様に。


 欲望と苦悩にまみれて力無く横たわる貌を眺め、闇の王は初めての邂逅を思い出してひとりごちていた。―――彼の存在が罠なれば、己は既に、始めから罠に絡め取られていたのだと。

 天の王との盟約を破って怒りを買ってより、時が流れて久しい。狭量な天の王は己の領分を超えた闇の王の振る舞いを決して許さず、己が血を引く者が闇の王を滅ぼすと、預言を通じて世界中に布告を発した。斯くて、或る界を統べる竜の女王と呼ばれる存在が天王の寵を受け、光の御子を身籠もった。闇の王とて己の滅びに手を拱(こまね)いている気はさらさら無く、早速魔王バラモスに命じて、かの世界で最も天空に近い、竜の女王が住む城へと早速兵を差し向けさせた。
 城の陥落は最初からすんなり行った訳では無かった。先遣隊は爆弾岩達のメガンテによる猛攻であっという間に全滅の憂き目にあった。苦慮するバラモスに、ゾーマは自ら出陣を決意し、何度か小隊を送り込んで様子見を計った。
 成る程、城は周りを岩山に囲まれ、落すは一見楽ではないように思われた。だが、夜こそ警備は厳重であれ、闇を得意とする魔物を警戒しての事。よもや、光を怖れて昼間には襲撃して来るまい、と油断しているのではあるまいか。地理的条件にも甘えて兵の配備を怠っているのが、何度かの偵察で察せられた。
 油断に乗じて、闇の王は敵の領分を軽々と踏み越え、斯くて天空に最も近い城で、空前にして絶後の凄まじい一大虐殺が行われたのであった。
 陥落した城の中、余りのあっけなさにゾーマは最初、罠を疑っていた。配備された兵は兵というにも烏滸がましい非力さ、二百人も配備されていなかったに違いない。他は皆非戦闘員で、右往左往する間に面白い様に屠られ屍を晒していた。
 そんな中、唯一人必死の抵抗を示していたのが、竜の女王その人であった。竜としてもさして大きい部類には入らず、また、産後の肥立ちも決して良くはなかったと聞く。そんな女王が、襲撃を受けていち早く逃げ出す兵もあったというのに、子を守る為己が身も顧みず抗う姿にゾーマは感嘆を覚えた。母が子を目の前で失う絶望と悲嘆を啜り、存分に貪りたいとの欲望を掻き立てられてもいたのだが。もしそんな絶望と悲嘆を喰らうが適うなら、そは何と甘美な味わいであろうか! ゾーマは配下の魔物に命じて、決して女王を殺さず、光の御子を生きた侭捉えるように命じた。
 母の必死の抵抗空しく、御子は魔王の手に堕ちた。臓物を引きずり乍ら、尚も母は己が子を守ろうと足掻いたが、守らねばならぬ者は手の届かぬ処に奪われていた。魔王は部下から渡された籠を覗き込んだ。
 御子は母の懐に抱かれる様に、眠りの中にたゆとうていた。未だ形の定まらぬ胎児にも似て柔い皮膚と鱗に包まれ、その姿は人とも竜とも付かぬ。造形も繊細そのもの、軽く踏み躙れば抵抗らしい抵抗も見せずに潰れて肉塊と化してしまうであろう、果敢無い生き物だった。
 青黒い爪が、母の前で子の命を毟り取らんと、伸びた。
 爪が触れるまで後三寸まで近付いた時、無限の安らぎに身を任せ、子は、無防備そのものに微笑んだ。全てを肯定する、無条件の然りが在った。
 闇の王は爪を引いた。
「此位の赤子が母から引き離されたとして、唯一人で、どの程度生きられるものであろうな?」
「さあ……」どうでしょうか、と鎧の兵士が呟いた。「竜蛇の類は生まれ落ちた時から独りで生きていくものもいると聞きますが、何分、此だけ幼い子が一人で、世も知らずにどう生きていくのやら」
「成る程。では、この子が両親の加護の届かぬ闇の世界に一人、打ち捨てられたなら、到底生きては行けまいな?」
 ゾーマは赤子を抱き上げた。赤子は突如、火が噴いた様に激しく泣き出した。
 ―――己の運命を覚ったか。宜しい。
 汝が天の王の定めし光の御子ならば、生き残れ。泥水を啜り、煉獄を這い回り、修羅を歩み、我が下へと現われるが良い。
 その時こそ―――――喰ろうてやろうぞ。
 汝の絶望を。
 汝の悲嘆を。
 汝の憎悪を。
 赤子は泣き止まなかった。泣き疲れても尚、身を丸め、既に失われた加護にしがみついて離れようとしなかった。
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