#1 stigma

 坑道の跡らしき穴蔵の片隅、独り息を殺して蹲ってる。
 汗の臭い、辿々しい呼気が、人いきれが、鉄と湿った土塊の臭いが充満する部屋には、老若男女有象無象の人々が囚われの身となり、己の運命を静かに、待っていた。俺も例に漏れず、腕と足に強固な鉄の枷を噛まされ、鎖で隣の男と繋がれている。が、誰も互いに口を利こうとはしない。
 光射さぬ闇の中、死ぬまで扱き使われる、のだろうか。逃げ出そうにも、奈落(アビス)の熱で鍛えられた魔剣・アゾースは取り上げられて、今は無い。
 面倒だな、と俺はひとりごちた。
 本来ならば今頃、俺は魔王の居城に辿り着いていなければならない筈だったのだが。

 俺の名はゲオルギウス。『 魔殺し(デモンスレイヤー) 』の二つ名が、俺の人となりを端的に語っていよう。
 世界の境界に程近い辺境の王国・アカルナニアに招聘された俺に命ぜられた使命は、魔界の王位に就いた新王を殺す事であった。アカルナニアは魔界の王に毎年多数の生贄を捧げて属国となる事で仮初めの平安を保っていたから、この命には少なからず驚かされた。
 訳を知らされ、合点が行った。新王が、嘗ての方針を翻したのだ。
 旧き王を弑して新たな魔界の王座に就いた新王・アラスティウスは旧王のやり方一切合切を改めた。生贄を捧げさせて属国となっていたアカルナニアに突然生贄の打ち切りと庇護の撤回を申し渡し、魔界の影響著しい半植民地化した地域に攻め入っては片っ端から制圧、聖地を悉く破壊して仕舞った。魔界でも新王の手腕を疑問視する声は多かったが、新王は不死であるが故に誰もが手を拱いて見守っているしか無い、というのが現状であるらしい。
 故に、俺が王直々の御指名を受けた、という訳だ。
 だが生憎、俺の名声は二つ名と共に、あまりに広く知れ渡ってしまっていた。魔王の王国領内へ堂々と入る訳にはどうしてもいきかねた俺が慣れない頭を捻った結果、荷馬車に忍び込む方法を選んだのが運の尽きだった。魔界に運び込まれる密輸品の抜き打ち検査に引っかかり、結局俺は見付かって藁束の山から引っ張り出された。暴れられたなら敵の首の二つや三つは撥ねて遣れたろうが、生憎隠れる為に馬車の荷へ無理矢理体を詰めた状態では如何ともし難く、俺はほぼ無抵抗で捕らえられ、縄を掛けられた。此処の所魔界では新王が支配を強化するべく統制を強めていたから、誰か賞金目当てに情報を漏らした者がいたに違いない。
 扉が開いて、松明の光が薄暗い室内を申し訳程度に照らした。
「おい、そこのお前、立て」
 二度目に呼ばれ、脇を小突かれるまで、俺が呼ばれているとは思いもしなかった。俺は後から放り込まれたクチで、部屋の住人の九割は先住者だ。
 正体がばれたか。
 生きて魔界を出られないかもしれないな、と思った。

 木の扉を潜ると、生臭い匂いが鼻を突いた。
 鎖に繋がれている奴隷達の一目で分かる共通点に、俺は己の立場を悟る事となる。―――年齢、性、種族を問わず見目麗しい者達。
 性奴――――しかし、何故、俺が?
 部屋を間違えたのだろうか。己の容姿を醜いとは思わない。が、俺が彼等の仲間入りをするには相応しからぬ様に思える。
 ぼんやりしていると、突然尻に鞭打たれてつんのめった。部屋の中央に押し出され、直立姿勢を保つよう命ぜられる。
 俺の脇では豚面の魔族が見るだにむしゃくしゃするようなみだりがわしい笑みを湛えていた。豚面野郎が顔を近付けると、生ごみの臭いが鼻腔を責め立てる。俺は奴を睨み付けたが、豚野郎はそんな俺のささやかな抵抗など物ともせず―――と言うよりは、態と、生暖かい吐息を浴びせかけた。
「もしも今動いて、お前のナニを切り落としちまっても知らんぞ?」
 豚野郎は俺の尻をぴしゃりと叩いて離れて行った。余程何か言い返してやろうかと思ったが、立場を考えてそれも止めた。
 待っていると、腰回りに熱を奪う固い物が押し付けられた。軽い痛みが腿を裂く。
 腰帯が千切られ、俺は素裸にされていた。
 腕を戒める鎖は歯車に通され、宙に釣り上げられて行く。腕を吊られた無防備な己の姿に、屠殺場の肉を連想して苦笑いが漏れた。肉にならぬだけマシだが、扱いは大して変わらない。
 運命は畢竟(ひっきょう)、同じかも知れないのだ。

 部屋の片隅では、戒められた少年が先程の豚の魔物に犯されていた。年の頃は12,3か。部屋の中は吐息と、喘ぎと苦鳴と、鎖の微かな音、鞭打ち、淫らな肉と肉の交合の、秘やかな呟きの他は何も無い。
 俺の担当は目の前の、蜥蜴男であるらしい。蜥蜴男は俺の躯を表に裏にと返し、微に細に調べている。俺は鱗の生えた手に己が肉体を任せつつ、些か皮肉めいた笑みを蜥蜴に向けた。
「俺もああする訳じゃあなかろうな。……言っとくが、お稚児さんの趣味は無いぜ」
 つまらぬ事を言うな、と蜥蜴男は俺の背を鞭打った。「名は」
 俺は少し考えて、嘘の名を名乗った。
 間を置いたのは不味かっただろうか。が、蜥蜴男は幸いに、嘘を信じたらしかった。「なら、其の名は早く忘れる事だな。お前の新しい名はティゲリヌスだ。奴隷らしい名だろう。……だが、お前が其の名に相応しいかどうか、試してやらねば」
 蜥蜴男の口をひっきりなしに行き来する、青黒く長い舌。耳障りな呼気。黄金色の、忙しなく眩く目。全てが、己の肉体を吟味すべく蠢いているのだと思うと、百戦錬磨を自負する流石の俺もちょいとぞっとしない。俺が奴の言う奴隷の名に相応しいか否か、もし相応しく無ければ、正しく今の格好に似つかわしい運命が待ち受けているに違いなかった。
 蜥蜴男は内腿を、長い尾でぴしゃりと打った。先程の背中に当てられた鞭の正体は、これらしい。「足を開け」
 俺が足を開くと、蜥蜴の尾が腿に巻き付く。尾は其れ自体が独立した別の生き物の様に身を擡げ、双丘の合間をゆるゆると、擽る。腰を僅かに動かすと、蜥蜴男は動くな、と無茶な命令を下した。
「感度は、悪くないらしいな」
 爬虫類の手が、俺の、既にやや熱を帯び始めた雄を握り込んだ。見た目より其の手は温かく、寧ろ柔らかく繊細に感じられた。掌の中で巧みに揉まれた俺の中心は、手の動きに呼応して固くそそり立つ。
 爬虫類の口角が、舌なめずりでもしそうな具合に吊り上がった。「フン、見た目だけはなかなか立派な代物だ。簡単に精を漏らして、俺をがっかりさせるなよ?」
 成る程、そちらを求められていたか。
 一口に性奴と言っても、主人に体を任せる受け身の快楽だけが奴隷に求められている訳ではない。精力のとびきり強い、逞しい男達は何時の世でも美しい少年少女達と同じ位重宝されて来た。そういった男達は強蔵とか馬蔵だとか呼ばれ、饗宴に於いては同じ立場の奴隷達を、時には主人を裁尾する役割を演ずる。俺はどちらもイケるクチだが、相手が魔物となれば、受け身に回るのは責め役を負うよりかなりの危険を伴うに違いない。
 鱗に覆われた手が忙しなく動く様は、俺自身が異形の皮に覆われている様にも見えて淫らさをそそられる。俺の熱は、煽られて何時しか焼けた鉄棒と化していた。だが、これしきの事、耐えられぬでは無い。
 俺は思わず、あっと声を漏らした。
 油断していた。先程から双丘の狭間を擽っていた尻尾の先が、菊座に潜り込んでいたのだ。節くれ立った尾の先は細さ故に容易に胎内へと潜り込み、俺の温かい肉の中で小刻みに跳ねる。俺の熱を弄ぶ手は、指先にて裏筋をなぞる所作へと移行しつつあった。
 この蜥蜴野郎、相当な手練れだ。得物の扱いに精通しているばかりで無く、尻尾の動きを巧みに操る術にも長けている。俺は奴の責めに耐えねばならないのに、ふと気が緩むと己を追い詰める様、自ら腰を動かす事さえやってのけているでは無いか。両の手に余る程枕を交わした中にも、此程悦び所を心得ている者は居なかった様に、思う。
 又深く、尾が内へと侵入する。
「す、少し、キツいな……はっ、もっと、慣らしてくれないか……ッ」
「そうか? かなり深く入っているのだがなァ」蜥蜴男の舌が、首筋を舐った。ざらついた舌の感触が皮膚を擦り、微かな痛みを喚起する。先が二つに分かれた舌が、胸元で思わせぶりに蠢く。「肝の太い男だ」
「そりゃ、どういたしまして……ん、ぅっ……」立った侭前から後ろから責められ、口では強気に出ては見るものの実際には躯は熱く火照り、膝が震えて躯を支えるのがやっと。握り締められた熱は老獪な手の動きに翻弄され、少しずつではあるが音を上げかけている徴を滲ませる。蜥蜴男が其れを見逃す筈も無く、涎を垂らした鈴口に押し付けて濡れた指をこれ見よがしに翳して見せた。
「お前等貧弱なヒト共は我等を化け物と呼ぶが、其の化け物に辱められてよがってるとは。なァ?」
 俺は思わず噴き出した。
「……はっ、そんなつまらん事は、気にしたつもりはないが、なッ……好くしてくれれば、それで構わんよ……ッ……」
 異形の瞳が引き絞られた。小さく、左右に揺れ動く。瞳は不意に解放され、笑いが、耳元で堪えきれずに溢れていた。
「気に入った」耳朶をざらついた舌が、なぞる。「可愛がって遣る」
「傷物には、しないでくれよ……ッ」耳朶を噛まれて、思わず俺は言葉に詰まった。
「何を言う。この躯は、銜え慣れてる躯だろうが」
「銜えさせる方が、好みではあるがね……っは!」
 俺の一物は猛攻に耐え切れず、遂に埒を開けてしまった。脈動し乍ら吐き出した白濁のお陰で蜥蜴男の掌は白く染まり、指の隙間から滴り落ちる。奴は俺を責め苦から解放すると、俺の目の前で白濁にまみれた掌を丹念に舐めた。蜥蜴男が尻尾を一息に引き抜いて、どっと気怠さがのし掛かる。
「……試験は、これで終わりか」
「馬鹿言え。これからが本番だ」蜥蜴男は背後に回り込んで、俺の背筋を爪で緩く掻いた。微かな痛みと空白を埋められる予感に、四肢が戦慄く。
「お前は特別に俺自ら物して遣ろう。有難く思え」
「どう、有難がればいいのかね……っつ、痛ぇ……」
 蜥蜴男は俺の尻に平手打ちをくれた。続いて手が、腿の中に潜り込む。湿した指先が狭間を辿って、蕾を濡らす。蜥蜴男は態と音が立つ様に蕾の中を掻き混ぜた。腿を生暖かいぬるとした液体が伝う。
 腰帯の釦を二つ、三つ外す音。皮が、ずり落ちる重み。そして、背なに宛われる熱。
 目には見ずとも、奴の雄たる証が憤怒の色を湛えているのがはっきり解った。尻に押し当てられた其れは灼熱と化し、俺の狭間で脈打って、得物を貫く時を待ち構えている。
「そんな、に俺の躯にそそられた、か?」
 奴は湿した熱の圧力で其れに答えた。裏門は十二分に奴の尾で解され指で湿されていた筈が、思った以上の圧迫感に、俺は息を詰めた。首筋にかかる奴の吐息の熱っぽさが、昂奮を否応なしに高めた。頤を、汗が伝う。
 奴もきつかったのだろう、流石に暫くは動こうとしなかったし、俺も今動かれては辛かった。とてもじゃないが、躯が保たない。暫く此の侭で居てくれないかと願ったが、奴の長い尾が腿の間から差し入れられるのが見えて、俺は蜥蜴野郎があくまで俺を試すつもりでいるのを思い知らされた。奴には動けずとも、幾らでも俺を試す術があったのだ。腿を伝う、鱗のひんやりした感触が獲物を捕らえ損ねている俺の躯に、種火を灯す。
 蜥蜴野郎は俺の半ば昂った熱を掴んで、尾の先へ向けた。奴は尾を擡げると、俺の熱を取り戻しつつある雄の先に押し付ける。勿論細いとはいえ、そんな立派なシロモノを迎え入れる様に俺の道具は作られていなかった。奴は俺を手の内で弄びつつ鈴口を尾の先で犯すだけで満足したが、俺は後ろと前を同時に物されている昂奮に、再び雄を昂らせた。奴の尾の動きの俊敏さ、繊細さと来たら! 糸を紡ぐ乙女の指とてあんなに巧みには動くまい。
 奴の手が、尻を包んだ。
 蜥蜴野郎の腰が僅かに引かれ、そして、叩き付けられる。奴は一切の容赦無く、欲望で俺を穿つ。宙に吊された腕に食い込む手枷が、俺を苛んだ。奴は腰を叩き付け、俺を剔り、苛みながら尻から腰にかけてをしかと掴んで放さない。俺は思わず声を上げた。
「良く引き締まった、良い尻だ。……もっと緩んでいるかと思ったが、なっ」
「そんなに、経験豊富に見えたか……ッ、俺は、受け身は得意じゃない方なんで、ねッ……うっ、も、も、う少し、容赦してく、れっ」
 奴は容赦する代わりに、益々激しく腰を引き、深く貫く。腰裏が熱く燃え滾って悲鳴を上げ、吐き出す先を求めて鈴口は涎を垂らす。滴り落ちた汗が、床に汗染みを作っては吸い込まれて消える。欲望は限界を既に一度越えて、臨界点を下げていた。愉悦の波が再び、押し寄せる。
 躯の中に熱い迸りを感じて、俺も又、熱く滾る欲を解き放った。

 俺はどうやら試験という奴に合格したらしかった。
 一通り躯を綺麗にした後、格子付きの馬車の中で唯一人揺られているのが証拠だ。とはいえ、窓の外は見えない。魔界の空は常に厚い雲に覆われて昼も夜も無く、そう経っても居ない筈なのに捕まってから何日経つかなどとっくの昔に解らなくなっていた。奴隷市場に連れて行かれて競りに掛けられるものだとばかり思っていたが、どうやら俺の行き先は他の連中とは違っているらしい。
 馬車を下ろされる際に目隠しを付けられ、俺はあちこち連れ回された。階段を何度上り下りしたか知れない。反響の具合と歩く距離からするに、かなり広い建物、それも要塞等では無く城や宮殿と言ったところか。ひょっとしたら、同じ処を何度も回っていたかも知れない。連れられた先で目隠しを外されるが、眼が慣れる迄は何も見えず、慣れても暗くて大凡の輪郭しか解らない。唯、此処が地下であるらしい事は窓の無い部屋から容易に察せられる。用心深い事だ。
 闇に、蒼白い燐光が浮かび上がった。
 燐光の正体は魔力の発現だった。一見して魔族、それもかなり高位の其れと判る優男の指に宿る其れは、男が一度指を鳴らすと宙に弾かれ、辺りを心許なげに漂う。淡い光を通じて、男の人となりを掴もうと俺はざっと爪先までを流し見た。長く癖の無い銀髪を縫って生える、羚羊の角。僧の法衣にも似てかっちりとした形の、白を基調とした長衣を隙無く着こなし、片眼鏡の奥では緑がかった青の冷ややかな眼差しが俺を値踏みしている。線の細さと顔だけ見れば女と見まごう容貌だが、威圧的な眼差し、物腰の全てがそんな視線の一切を拒絶する。
 しかし、この男が俺の主人になるとはどうしても思えなかった。確かに顔立ち美しく細身の優男だが、風貌、身のこなしとどれ一つ取っても受け身の快楽を好む様には見えない。もし好むとしても、この様な手合いは俺の様な奴隷と、しかも人間の奴隷とは決して楽しむまい。果たして、俺が男の様子を伺っていると、男は俺に触れず、鞭の先だけを突き付けて立て膝の姿勢を強いた。
「奴隷の名は何と」
「は、フェブリス閣下。ティゲリヌス、と申しまする」奴隷商人らしき異形が嫌に遜った様子で頭を下げた。
「宜しい。この事は、くれぐれも内密にせよ」美貌の男は金の粒を床に投げ遣った。奴隷商人が慌てて拾う間、男は俺の顎下に鞭の先を引っ掛け、顔を上げさせる。
「私の名はフェブリス・パノプテス。だが、我が名を呼ぶ事は許さぬ。お前が仕える主人は逞しい男を好む故、鍛錬を怠らぬ様に。それから」
 端正な顔が、僅かに歪んだ。「逃げられると思うな」
 男は身を翻し、部屋を出て行った。奴隷商人が後から追い掛け、重々しい響きを残して扉が閉まる。反響から察するに、地下はかなり広い。
 俺は俺の主人となるであろう魔族の姿を様々に、殊更醜く思い描いては身震いした。掘られるばかりなんてたまったもんじゃない。

 数日後、フェブリスが一人で俺を呼びに来た。フェブリス自身も上級魔族、しかも相当広い城の筈なのに僕一人も連れずに奴隷を連れに来るのが俺には不思議で仕方無かった。俺は大人しく鎖を引かれ乍ら、不意を打てれば此奴一人位なら首をへし折って逃げ出せるだろうか、等と考えていたが、生憎フェブリスはそんな隙をちらとでも覗かせる様なタマでは無かった。
 行き止まりには両手に余る大きな鉄の扉。フェブリスが扉に手を翳すと、扉は大きく軋んで身を震わせ、部屋の中へと我々を導き入れた。
 扉が背後で重々しく閉じた音が、俺の耳には死刑宣告に聞こえた。
 部屋の中は、拷問部屋だった。
 部屋の真ん中には拘束具を完備した寝台や椅子。壁には一体何に使うのか解らぬ、しかし見るだけで苦痛を喚起するとりどりの拷問具。良く焼けた石炭を詰めた壺に突き刺さる、焼き鏝。皮、茨、鎖等々、様々な素材と形の鞭。俺は鞭にこんな種類がある事すら知らなかった。
 別の棚には此又形も大きさも異なる小瓶が収められている。一目見て毒と判るラベルも混じっていた。隣の棚には皮つるみの道具や張り型を始めとした淫具が仕舞われていて、この拷問室がある種の楽しみの為に存在している事を示していた。部屋の道具類はどれも手入れされ、直ぐにでも使える様万全の準備が為されている。
 唾を呑んだのが聞こえたのか、フェブリスは片眼鏡を僅かに持ち上げた。
「お前に身の危険は無い」
 そうは言われても、と言いかけて、俺は足を止めた。
 拷問部屋の奥にはもう一つ、同じ位の広さの部屋があった。其の奥に、ここからでも解る強大な魔の気配がある。
 あれが、俺の仕える相手なのか。
 入口を潜って、俺は我が目を疑った。
 部屋の奥に、鎖に手足を戒められた魔族の姿があった。
「お前は此から見聞きし、行う事の全てに対して沈黙を誓わねばならぬ。さもなくばお前の存在は、魂ごと奈落の底へ突き落とされ、喰らわれるであろう」
 俺は命ぜられるが侭に跪いた。額に鞭が触れ、魔力が額を微かに焼いた。
「顔を上げよ」フェブリスは己の主人の方へと顔を向けた侭、言った。
「あの方こそがお前が仕える主、此の広大な魔界を統べる魔王・アラスティウス様であらせられる」
 俺は危うく声を漏らしそうになった。噂には聞いていたが、実物を見たのは此が初めてだった。
 先代の魔王を弑して玉座を奪い、広大な魔界を統べる暗黒の支配者。
 不死の肉体と強大な魔力を持つ、恐るべき敵。
 其の魔王が、鎖で繋がれている。実に奇妙な光景だった。
「知っていたか。……驚くも無理は無い。だが、これしきの事で一々驚いて貰っては困る」
 フェブリスは片眼鏡の奥で僅かに目を細めた。
「お前の役割は、アラスティウス様を犯す事だ」

 俺がどんな顔をしていたかは解らないが、さぞかし阿呆の様な面構えであったに違いない。が、フェブリスは俺の阿呆面など意にも介さなかった。
「上品にやる必要は一切無い。乱暴な位で宜しい。何となれば、此の部屋で無く隣の部屋を利用しても良いし、部屋のありとあらゆる道具をお前の好きに使って良い。遠慮は無用、何をしたところでやり過ぎるという事は無いし、やり過ぎを理由に罰したりはせぬ。存分に痛め付け、嬲るが良い」
 そう言われても、どうして良いのやらまるで見当が付きかねた。
 それにしても。
 成る程。玉座に付くや、己の権能を見せ付けるべく大規模な粛正を敢行し、魔界の諸侯をも恐懼せしめた魔王アラスティウスが受け身の快楽を好み、痛め付けられるのがお好みとなれば、確かに皆への示しが付かぬだろう。念入りな箝口令も納得が行かぬでも無い。フェブリスが其の尻拭いをさせられているのだと思うと、おかしみすら込み上げて来る。
 俺は促され、立ち上がって、改めて宿敵・アラスティウスを見た。
 身長六尺を優に越える威丈夫、頭の横から角が二つ、前に一つ、そして目尻の上辺りから小さなのが二つ。躯は長衣に覆われているが、大きく開いた胸元を見る限り、素晴らしく張りのある、力強い肉体を奥に隠しているのが容易に察せられた。完全に無毛で、睫も、眉毛も髪も無い。
 肌は蒼く、滑らかで、殆ど完全に均一と言って良かった。薄い瞼を閉じて瞑目する顔立ちは冷厳にして高貴そのもの、此の顔が快楽と苦痛に歪む様など想像出来かねた。鼻梁は真っ直ぐ通っていて、高すぎずさりとて低すぎもしない。容貌は気品に満ちており、畏怖を抱かせこそすれ、嫌悪を抱かせる要素は絶対に無かったと断言し得る。魔王はぞろりとして、胸元の大きくはだけた前開きの長衣を羽織っており、唯其処だけが唯一、魔界の頽廃を反映している様に思われた。
 俺が一歩近付くと、薄い瞼が開いた。
 眦切れ上がった双眸の、冷ややかな色。己の待ち受ける運命への無関心が覗いて、又伏せられる。
 俺は意を決して、胸元に手を差し入れた。
 温かい。肌の色からひんやりした感触を想像していたが、温もりは人の其れと寸分たりとも違わない。左胸の奥に潜んでいる筈の脈動を捕らえようと、胸筋を包む。掌から伝わる脈は全く平静に、淡々と、時を打つ。
 俺は首筋に顔を寄せた、あんな冷ややかな目で見られ乍ら、抱けるものか。
 恐る恐る躯をまさぐっていると、背中からフェブリスの痛い視線が突き刺さった。
「男を抱くのが初めての餓鬼みたいな有様だが」
 お前に見張られてて出来るか、と内心呟くと、フェブリスは察したのか、壁際に退いた。「悪いが、最初はお前の手腕を見させて貰わねば」
 此処に来て又試験か、と毒突くと、フェブリスは其の通りだ、と返した。
「今の侭では役不足で不合格だな。城から放り出されて魔獣の餌だ」
 俺は思わずカッとなった。
「そんな事を言われても、どうしたら良いか俺だって解らん。遠慮するなと言われたって……兎に角、お前が見本を見せろ」
「宜しい」
 フェブリスは指を一鳴らしした。
 俺はてっきりフェブリスの野郎が直接魔王様に手を下すのだと思い込んでいたが、其れは俺の大いなる勘違いだった。奴が指を鳴らした途端、俺の躯は後ろに弾かれて尻餅を付いた。退かされたのだと思い込んでいたが、再び指が鳴ると俺の躯は俺自身の意志を無視して、魔王に背を向け直立していた。
 フェブリスは壁から、拳に握り込む形の変わったナイフと、刃を噛ませた皮の鞭を投げて寄越した。俺の躯は鞭とナイフを受け取って、再びアラスティウスに向き直る。
 三度目の、指が鳴った。
 鞭を握る手が二度、三度振り下ろされ、魔族の長を打ち据えた。鞭に仕込んだ刃が皮膚を裂き、幾つもの裂傷を作る。俺は鞭を捨てて、ナイフを握り込まされる。
 脇腹に叩き込む、拳。
 生暖かい液体が腕を濡らした。腕だけが突き刺さる肉の感触を味わう様に、手首を捻る。
 苦悶の呻きと共に、奔流が迸った。温度の無かった眼が見開かれ、矢庭に熱を帯び始める。逃げられると思うな、と言われた意味が解って、俺は魔族の腹黒さを秘かに憎んだ。
 いつの間にか、躯が俺自身の物に戻っていた。俺はナイフを引き抜いた。「し、死ぬぞ」
「陛下は不死身だ」
 嗚呼、そういえばそんな話を散々聞かされたっけか。其れにしても、全く心臓に悪い。
 アラスティウスの口からは青黒い血が途切れ途切れに滴って床を汚していた。奴はぐったりしていたが、首だけを擡げて俺を見、息も絶え絶えに俺を睨め付ける。
 成る程、奴は快楽を受け入れぬ振りをしていたい訳だ。
 そう思うと、睨み付けるのも俺へのおねだりに見えて来る。
 俺は奴の顎を押し上げ、態と大きな声を張り上げた。
「へぇ、可愛いところもあるじゃないか。何処ぞの腹黒さんとは偉い違いだ」
 奴は知らぬ、とでも言いたげにそっぽを向こうとした。だが顎を抑えているのは俺で、奴は自ら戒められている。俺は思い切って奴に口付けた。
「……っ!」
 闇の中で小さく、フェブリスが笑った気がした。唇の痛みに、俺は少しばかり闇の王を舐めていたのを思い知らされた。唇から溢れる血を舐め取って、俺は奴を殴り付ける。
「気取るな。犯されたい癖に」
 胸座を掴み、長衣を縦に引き千切る。釦が弾け、闇の中に開示される、肉体。
 開かれた躯の中に顔を埋める。無論手を甘やかさせては置かない。舌が血を拭い乍ら胸筋を辿り、外気に晒されて既に固くなっている突を吸い、転がしている間にも、傷口を指で弄び、下へ下へと伸ばして行く。指先がひんやりした感触に当たって、未だ闇に全て開かれ切らない肉体をさらけ出そうと両手が神殿の帳を開く。
「……ヒュー、驚いたな」
 奴は顔を背けたが、背けたところで隠し仰せる物でもあるまい。黒の、良く鞣して艶出しした爬虫類の革帯で戒められた肉体。非の打ち所のない黄金比の故に、戒めは淫らさを強調する。隠し所を覆う僅かな部分など、期待に皮帯が浮き上がってしまっていた。俺は指で軽く、鱗の形を上からなぞる。奴は悩ましげに首を振って、固く目を伏せた。
 俺は編み上げた革紐をナイフで引き千切った。大気に晒され、其れは萎縮するどころか解放される悦びに己を充溢させる。俺は膝を押し当てて奴の昂りを腹の間に押さえ付け、ナイフの先を軽く胸元に押し当てる。
「何をさせても良いと言ったな。間違いないか」
 俺もこの頃には、此の濡れ場で振る舞うコツを掴みかけていた。アラスティウスは己の快楽に没頭する事を望んでいて、己が何を望もうと、其れを受け入れない振りをしていたい。だから、直接本人にどうして欲しい、何をするな、等と聞くは愚の骨頂で、判断はフェブリスを通じて仰ぐ。まだるっこしくはあるが、俺の役割は楽しむ事に非ず、楽しませて遣る事にあるのだから致し方ない。無事に乗り切れないと、行き着く先は魔獣のエサだ。
 構わない、とフェブリスが応じる。
 俺は床の取っ手を引いた。取っ手は壁の手枷と連動していて、動かすと枷の位置を移動させられる仕組みらしかった。けたたましい悲鳴と共に鎖の留め金が降りて行き、魔王は必然的に身を屈めなければならなくなる。革帯の釦を外すと前宛てが取れて、俺の欲望も又闇の中に開かれた。俺はアラスティウスの角を掴んで、左右に揺すぶる。
「何をすべきか、解ってるよな」
 解らぬ、とでも言いたげに奴は顔を背けようとしたが、角を掴まれていては逃れ様がなかった。俺は先程奴の脇腹に突き刺したナイフを突き付けると、奴の顔に俺の未だ張り切らない得物を押し付ける。「俺のを張り切らせろ。手を抜くなよ。手を抜いたり噛み付いてでもしてみろ、お前のも切り落として遣る」
 奴は顔を背けたが、俺は首筋に刃を宛った。
「出来るだろうが」
 俺はナイフを捨て、奴の口に俺の熱を押し付けた。奴は嫌がったが、角を押し上げて躯を無理矢理に反らせ、傷付いている筈の脇腹に軽く蹴りを入れてやると、奴は苦痛に喘いで身を捩った。其の薄く開いた隙間に、無理矢理俺を押し込む。奴は観念して、されるが侭に俺を銜え込んだ。
「良し、上出来だ。……舐めろ」
 俺は角を持ち、時に揺すぶってやった。奴は恐る恐る舌を這わせ、やがて舌先を巧みに操って俺の欲望を煽り立てる。
 奴の舌が触れぬ部分は無く、触れる事によって欲望を煽り立てられぬ所作は何一つ無かったと言っても良いだろう。見た目にそぐわぬ細やかで淫らな舌のそよぎ、欲望を貪る濡れた唇、喉奥で微かに漏れる、くぐもった声。期待に揺さぶられる、腰。此の施しを受けて、俺は充分以上にお返しをしてやる気にさせられていた。
 角を後ろに引くと、青黒い血の混じった唾が俺の腿に一筋の線を描いた。レバーを足で押し上げると奴の腕が後ろに引かれて、奴は無防備な姿の侭床に座り込まされる。奴は膝を閉じて屈み込んでいたが、膝を無理矢理開かせて未だ外されていない革帯を外す。
 おやおや、と俺は外した革帯を摘み上げた。もう受け入れ準備は完了か。
 鼠蹊部をぐるりと取り巻く細い革帯は、隠し所を覆うかに見せかけて、埋め込んだ小さな張り型を固定するための代物だった。しかも此奴は生きた魔物の躯で作られており、触ると震えて、ぬめりのある液体を分泌する。成る程、奴の足の付け根は生きた張り型の涎でてらてらと濡れ光っている。よくよく見れば、先程までの敵意剥き出しの表情は何処か、既に淫蕩の気配に染められつつある。
 此処まで真性の被虐性嗜好だったとは正直驚きだったが、これでは秘密にせざるを得ないのも当然だな。俺は奴の濡れそぼった蕾に指を差し入れて、軽く掻き回す。
「犯されるまで、我慢出来無かったのか」
 俺は腰を寄せ、奴の腿を抱き上げて前に進む。押し当てた欲望同士を擦り合わせる。濡れた音が更なる欲望を誘い、俺の一物はこれ以上ない程、得物を求めて赤く膨れ上がった。
「存分に、喰らえッ」
 倒すべき敵を犯す、という状況はなかなかに興をそそられるものではあるが、俺を捕らえたのは其れとは別種の昂奮であった。もし奴と闘い、倒した上で奴を弄び、犯したらこんなに昂奮しただろうか、其れは解らない。唯、其の名を聞く者皆に畏れられる魔界の王が男を銜え込むのを好み、其の躯を味わう栄誉を与えられた昂奮の方がもっと、強いに違いないと思われた。しかも、俺は奴隷として、奴に仕えているのだ! そして其の躯が快楽に慣らされ、肉欲を満足させるべく其の趣味を洗練させているのだとしたら、其の味が極上だとしたら! 快楽に戦慄き、俺を巧みに快楽へと引き寄せる肉体を存分に味わい、出来るだけ快楽を長引かせようと俺自身も又、考える様になっていた。ありとあらゆる快楽に耽ったに違いない闇の王を悦ばせる為に。
 俺は全てを一度に味わわせてはつまらなかろうと、先だけを中に埋め込んでやった。額の角を掴み、頭を引き寄せる。
「見えるだろ」
 奴は目を背けたがる振りをしていたが、其の視界の端に、肉欲に繋がれる己の肉体をしかと収めていた。俺は指を伸ばし、二人の繋ぎ目を指で辿る。奴の躯が俺の括れを強く締め付けたので、俺は余りの良さに危うく精を漏らしそうになるところだった。鼠蹊部に残る細い革帯の痕を指で辿り、胸でつんと気取った突を軽く摘んで、弄ぶ。薄く開いた唇から、微かに、低く艶めかしい喘ぎが漏れた。
「此処が好きなんだろ。それとも……此処か」
 散々嬲られて、鈴口に溢れる涎は微かに濁りを帯びていた。奴の腹に貼り付いた猛りを軽く弾くと、口一杯に溜め込んだ唾が腹を濡らす。呼気は浅く乱れ、大きく腹が上下している。
 指先で裏筋をなぞりながら、腰をゆっくり沈めて行く。態と焦らし、音を立てて中を掻き混ぜる様にゆるゆると腰を動かしつつ、奴の躯を壁に押し付ける。快楽に唇を振わせ、己の躯に侵入する怒張を食い入る様に見つめる眼は快楽に潤んでさえいる。
 俺は奴の熱を掴み、擦りながら躯を預け、更に深奥へと向かう。手向かう様に強く締め付けられるのを割り入って進む快楽を、征服の万能感が更に掻き立てる。
 其れにしても、何とも好色な魔王様だ! 誰がこんな快楽を教え込んだのか、独りでに憶えたかは知らないが、此処まで男を悦ばせる快楽を究めた者を、俺は見た事が無い。俺は暫し、己の役割を忘れて快楽に熱中した。態と腰を引くと追い縋り、求めれば拒む振りをする。其れでいながら寸分の隙間も許さず吸い付いて、俺を決して離そうとはしない。躯の駆け引きに飽いて、奴の脈打つ熱の根本をしかと押さえ付けると、奴は懇願するかに伸び上がって無防備な首筋をさらけ出した。俺は思わず首に手を掛け、首を壁に押し付け乍ら腰を引き、剔り抜いた。
 喘ぎと共に、腹を温かい物が濡らした。俺は尚も腰を動かし、熱を搾り取る迄腹を押し付ける。腹の中で雄が力を失いつつあるのを感じて、俺は奴の躯から熱を引き抜いて立ち上がった。蒼い肌の上に塗された白濁は、脇腹から溢れる青黒い液体と混じり合って蒼い肌の上に斑模様を描いていて、彫像の如き均整を乱し艶めかしく見せていた。が、俺には物足りない。この絵面はまだまだお上品に過ぎる、もっと汚して遣らなくては。
 俺は未だいきり立つ灼熱を掴み、己の熱を吐き出して総仕上げを施して遣った。散々お預けを喰らっていた俺の欲望は捌け口を求めて迸り、我慢し過ぎた所為なのか、余りに良かったからなのか、手元が狂ったか、兎に角俺の欲望は、欲に疲れて横たわる魔王の顔を、白く汚して均整を台無しにした。

 一義を終えてアラスティウスが退出する迄の間、俺は別室で待たされた。支度するまでの間に、俺の躯は何時しか俺を陶酔境へ導いていたあの昂奮から冷め、すっかり熱を奪われていた。躯を洗いたいと思ったが、生憎それらしい物は何も無かった。
 冷えた躯を擦っているとフェブリスが、厚手の大きな手拭いを俺の上に被せた。手拭いは石鹸の微かな香りと、血の匂いがした。
 柔らかい綿織物の感触に身をくるんで、フェブリスの後を追って歩いた。廊下は相変わらず、人の気配の一つも無い。二人の跫音だけが染み入って、深淵に呑み込まれる。
 俺には聞きたい事が山程あった。が、俺は其の問いを呑み込んでいた。奴隷の立場故答えは期待出来ないし、不興を買ってしまうやもしれぬ。其れでも、俺は問いを無かった事にしてしまい込むには、未だ己の立場を受け入れてはいなかった。
 何故、俺なのか。
 秘密を守りたければ第三者を加えるのは望ましくない。もっと言うならば、俺の様な下賤の輩(と奴らは信じている訳だが)よりも魔王の伽の相手に相応しい、秘密を守り忠誠を誓う上級魔族なぞ幾らでも居る。アラスティウスは奴らとお楽しみになれば良いのだ。
 俺は余程怪訝そうな顔をしていたに違いない、フェブリスは
「おかしいか」と俺に問うた。
 俺が肯くと、フェブリスは小さく肯いて返した。「ちょくちょく同じ配下が陛下の下に出入りすれば、周りの目が煩かろう? それに、何より陛下は皆に畏れられている。栄誉を仰せ付かっても、立場がある故に遠慮が生じて陛下を楽しませて差し上げられぬ。陛下とて、身近な者に裏の顔を知られたく無いのだ」
 遠慮するタマでも無かろうに、と呟くと、フェブリスは俺の可愛い尻に鞭の一打ちをくれた。
「アラスティウス様の好みだ。出来るだけ粗野で逞しく、己をぞんざいに扱ってくれそうな、精力に溢れた男を御所望なされた故。初めは私も陛下に望まれて御身を抱かせて戴いたが、私は見ての通り精力盛んとは言い難いし、陛下の様に肌を触れ合わせるよりは道具を使って嬲るを好む。何度か伽を務める内に、陛下もやがて己の好みを自覚して、物足りなさを感じるようになったという訳さ」
 帰り際、フェブリスは言った。
「陛下は殊の外満足であった。此からも励み、御心の侭に従うが良い」

 呼び出しが掛かって、『殊の外満足であった』というのが本心からのセリフと知れたのは、それから二日と経たぬ内の事だった。
 俺と魔王の関係は、型通りに始まり、型通りに終わる。フェブリスが迎えに来て奥の部屋へ連れて行かれ、一義を終えると躯を拭い、鎖を引かれて部屋に戻る。だが、其の間に行われたよしなし事の数々は、とても型通りとは言えぬ。一度として同じ始まりをして、同じ終わりを迎えた試しが無い。
 奥の部屋で、別の奴隷が待機している事もあった。彼等は俺とは違って一切口を利かず、唯命令に従って魔王に仕え、欲望に奉仕していた。俺は何度かそういう連中を見たが、同じ顔は一度として見なかった。彼等の精を降り注がれ、恍惚として身悶えするアラスティウスの貌は未だに忘れられない。
 背中を散々鞭打って、滴る血を頼りに尻を犯した事もあった。祭壇に縛り付け、口を犯し乍ら俺も口を犯させ、張り型で弄ぶ様な真似もした。一物を戒めてから散々弄び、犯し抜く事もした。躯に焼き印を押し当ててやったりもした。躯に媚薬や、皮膚を爛れさせる劇薬を塗ったりもした。
 アラスティウスは相変わらず、そうしなければ快楽を受け入れられぬかに快楽を受け入れぬ振りを演じ続けていた。それでもあの淫蕩な眼差しや、淫らな舌使いや、肉を貪る際の腰使いや快楽の溜息はどうあっても肉欲を楽しんでいる者のそれだ。奴は態と俺から屈辱を受けたがっていて、其の為に様々な技巧を凝らして俺の前に姿を現わした。俺の前に現われる時は必ず素肌に直接長衣を纏って来たし、其の長衣も体の線をくっきり浮き立たせる形の、脱がせ易い物を選んで来た。長衣の中は中で革帯や淫蕩な下着で己を戒め、時には魔物を躯に巻き付け其の魔物に己の躯を弄ばせている。
 俺は魔王の想像力に少なからず驚かされた。此処まで己の欲望を洗練させる術を心得、己の快楽を追求して尚且つ、快楽の為に己の身を持ち崩さぬ者は、世界中の何処でも見た事は無いと断言し得る。大抵の者は一度欲望に取り付かれたなら、欲を追求して止まぬが故に快楽の為に目が眩み、全てを擲って淫蕩の世界に身を投げ出す。成る程、流石は魔界を統べる王、傑物であるには違い無い。
 だが、一体何をして、アラスティウスは己を傷付け、辱められるを己が悦びとしたのか?
 此れは大いなる一つの疑問符であった。俺は『御心に従って』アラスティウスを犯し、傷付け、嬲り者にしたけれども、誰とでもこんな風に躯を重ねたりはしない。こう言ったやり方を望まれていると解っているからこそ可能というだけの話で、寧ろ、躯重ねる以上は心を交わした睦み合いをより好んだ。が、アラスティウスの方は俺が少しでも奴を労る素振りを見せると途端に俺を拒み、ある時など途中で俺達をほっぽり出して帰ってしまった。
 俺は一度だけ、フェブリスを通じて、一度は普通に情を交わす事が出来ないか聞いてくれと言付けたのだが、フェブリスは余り気乗りしない様子で伝えはするが期待はするなと返した。果たして、アラスティウスは俺の提案を拒み、俺を強かに打って己の立場を知らしめんとした。つまり、俺は奴隷で、主人の命をさえ聞いていれば良い、という事らしい。
 何故かと尋ねたが、フェブリスは応えなかった。
 比類無き闇の王であるが故に、対等な立場に立つのが許せないのだろうか? 否、そうであれば、己を低め、辱めるのにはもっと耐えられぬ筈。
 が、今の俺には如何ともし難く、唯、薄ぼんやり描かれた輪郭の周りを巡るのが精々だ。そもそも、開いてみたところで所詮は覗き趣味に過ぎない。今でこそ主人と下僕の位置に甘んじてはいるが、元々アラスティウスは倒すべき敵である筈。
 では、何故、そうしない?
 不死として知られるアラスティウスの力の源が、額の第三の眼にあると薄々感付いてはいた。初めの頃は兎も角、今なら、二人きりになる日も少なくは無い。魔剣は奪われたが、代わりの武器なら幾らでもある。問題は殺した後だ。己を縛る呪力は効果を失っていない。フェブリスに見られれば確実に () らされる。魔王を葬るなら奴をも殺さねばならぬ。だが、二人さえ片付ければ取り敢えずは何とかなるだろう。アラスティウスには即位時の事情から敵も多いと聞き及んでいるし、巧くやれば見逃して貰える可能性も無くは無い。
 やるか。
 扉の隙間から射し込む燐光に誘われ、俺は腰を上げた。

 アラスティウスは初めての邂逅の時と同じ姿で俺を待っていた。
 俺は予め、壁から短剣を抜いて腰帯に差しておいた。どれもよく研がれ、油を引いて手入れされている。そして今、腰帯から剣を抜き放ち、切っ先を首筋に突き付ける。柄を握り締める手に、無駄な力が籠った。
 ええい、ままよ。
 首筋を切り裂くと、蒼い血が壁一面を染めた。脇腹、鳩尾、肩、腿、次々刃を突き立てる。壁だけで無い。床も、俺自身も返り血で蒼く染まる。苦痛に身悶えし、身を捩り、泡立つ血を零しながら戦慄く魔王。途切れ途切れに喘ぎ、天を仰ぐ眼の恍惚。鎖を握り締め、両の手を開く姿は天啓を待つ預言者を思わせる。だが、奴が待つのは天の光に非ず、恥辱と、身を灼く刹那の閃光。
 今の俺は、どちらをもくれて遣るつもりだった。
 俺は躯に突き刺した短剣を捻って臓物を掻き混ぜ、溢れ出す血の色を楽しんだ。口端から溢れる其れは尽きせぬ泉にも似て止めどなく、刃の愛撫を施す度愉悦の証で己の肉体を染める。俺は奴の長衣を敢えて、下だけ裂いて脚を顕わにさせた。張り詰めた、逞しく磨き抜かれた肉はしかし、幾度も短剣を突き立てられ、体重を支えるのが精一杯、否、其れすらも危うく思われる風情であった。下肢を衣の上から乱暴に撫で回すと、躯の方は既に、燃え盛らんばかりの熱に冒されていた。俺は血に濡れた衣を態と押し付けて、布の上からでも淫欲の形が一目で解る様にしてやった。熱の形を指で擽ってやると、布が持ち上がって揺れる。
 俺は、態と意地悪い笑みを作った。
「何を思ってる? 魔王アラスティウスよ」
 脇腹に突き刺した短剣を、手前に引き抜く。長衣は血の所為で、最早元の色が解らなくなっていた。
「お前は、お前を殺そうとする者に犯されたかったのだろう。違うか?」
 安全に、な。
 言外の調子を読み取ったのか、例の演技なのか、アラスティウスは抗う様に首を振った。
「ぁン? 又お得意の嫌がる振りか」
 短剣の柄を濡れた蕾の中に押し込む。血で濡れた柄は然したる抵抗もなく体内に収まり、卑猥な音を立てた。柄を抜き差しし乍ら布を徐々に引き裂くと、裂け目から体中の熱を集めた欲望の輪郭が姿を現わした。俺は見せ付けてやろうと身を屈め、舌先で軽く擽り、唾をたっぷり絡ませてやる。唾と血に濡れた一物はてらてらと濡れ光り、鈴口一杯に溜め込んだ雫が今にも零れ落ちそうに震えている。
 俺は短剣を引き抜いた。
「お前を、絶頂の中で殺してやるよ」
 言うか言うまいか、俺は殺害を決意してから此処に来る迄の間ずっと悩み、決めあぐねていた。が、緊張から真意を気取られる位なら、口にしてしまった方が気が楽だ。戯れの味付けにと散々辱める様な言葉を投げ付けて来たのだし、今更怪しむまい。
 俺は魔王の両足を持ち上げ、壁に躯を押し付けると、其のまま一息に躯の真芯を貫いた。蕾から、開いた傷からぬめりが溢れて腿を伝っていく。肉体の温もりを微かに留めていた其れも直ぐ、大気に熱を奪われ乾いた痕を残す。鎖が耳障りに鳴いている。不死とはいえ夥しい血を失って、アラスティウスの蒼白な面持ちは益々色を失っていた。大粒の汗が眉間を伝って、血を洗い流す。
 躯を壁に押し付け乍ら、俺はゆっくりと、剔る様に腰を使う。艶めかしい、秘やかな喘ぎが呼気に混じり、俺を銜え込む熱い坩堝は、俺の全てを貪り、奪い尽そうと貪欲に蠢く。乾いた血潮の上に引かれる、鮮やかな流れ。
 余す処無く貪るがいい。
 今宵が、最後だ。
 猛りが腹の上で脈打ち、追い詰められて苦しげに訴える。
 追い詰められているのは俺も同じだった。体中の熱が背裏で焼け付いて、爆発しそうなのを懸命に堪える。俺は予め腰帯に差しておいた別の短剣を、後ろ手で静かに抜いた。
「願いを、叶えてやるよ!」
 俺は短剣を振り翳し、眉間に突き刺した―――筈だった。
「―――!?」
 切っ先は眼球に触れる直前で、不可視の壁に阻まれていた。触れる直前で刃は赤く、眩く輝き、歪んで、液体状に姿を変えて行く。
 溶けていやがる!
 灼熱の金属に腕を灼かれ、俺は短剣を取り落とし、のたうち回った。水桶に手を突っ込むと、水面が激しく泡立つ。俺の中ではしかし、事態への憤りが手の痛みより遥かに勝っていた。痛みを堪え、俺は奴を押さえ込んで欲望を叩き込む。余りに乱暴だったので、動く度床の血溜まりが派手に飛沫を立てた。
 長い吐息が、愉悦の深さを物語っていた。内奥で欲望を受け止め、白い血で腹を汚し、アラスティウスは総身を打ち震わせ、陶然とした面持ちで目を伏せた。僅かに瞼が震え、乾き切った唇の隙間から薄く覗く舌の、唇を潤す所作。
 俺は快楽の余韻を味わう余裕も無く、躯を引いた。アラスティウスは最早躯を支える努力を放棄し、己の手を戒める手枷が手首を傷付けるに任せていたが、俺が背を向けると珍しく、俺を呼び止めた。
「未だ、足りないのか」
 魔王は首を振った。
「否、何をこれ以上望む事があろう。『 魔殺し(デモンスレイヤー) 』と讃えられし勇者・ゲオルギウスの刃を受ける栄誉に預かったのだ、其れ以上を望むは贅沢にも程があろうというもの」
 俺は背中で魔王の哄笑を浴びながら、早々に部屋を退出した。
 見透かされていたどころか、一から十まで仕組まれていたのだ。

 今日も又、快楽の時間は型通りに終わった。汚れた躯を拭い、鎖に繋がれて人気の途絶えた通路を二人して歩く。
 今日ほど帰り道の通路が長く感じられた日は無かった。俺はし損じ、魔王の裁量によって"今は"生かされている。が、其の最中にも破滅への道程を歩かされているのかも知れない。
 今、フェブリスの首をへし折れば逃げられるだろうか。
 堂々巡りを繰り返している内に、しかし型通りの終わりがやって来た。フェブリスは扉を開け、顎をしゃくって部屋を差し、俺は大人しく部屋に入った。フェブリスは鉄扉を閉め、鍵を掛けて立ち去ろうとしたが、僅かに動きを止めて鉄格子付きの窓を開けた。
「陛下はいたく満足されたそうだ。――勇者ゲオルギウスよ、『 魔殺し(デモンスレイヤー) 』の二つ名は伊達では無かったな」
 あのフェブリスの冷笑程、俺を心胆寒からしめた物は無かった。

 其の日を最後に、呼び出しはぱったり途絶えた。
 俺は悶々と悩み苦しむ日々を過ごした。魔王は俺が、奴を殺そうとする日を待っていた。俺が奴の殺害を決意し、実行に移した事で目的は果たされたのだから、もう俺は用済みの筈。ひょっとして、アカルナニアと魔王との間に密約が交わされていて、俺はアカルナニアからの生贄として送り込まれていたのだろうか。そんな事を考えもした。
 俺は裁決を待つ罪人の気持ちを嫌と言うほど味わわされた。苛立って壁を蹴ったり、扉の鍵を外そうと針金を細工して奮闘してみたり、次回のあるかないかも解らぬ呼び出しに備えて、逃亡作戦を練ったりもした。しかし時が経つに連れて思考はまとまらなくなり、いっそ殺してくれ、と願う様にさえなっていた。
 だから、十日ぶりの跫音を聞き留めた時、俺は幻聴では無いかと何度も耳を疑ったものだ。俺は飛び出して鉄格子に食らい付きたい衝動を必死に抑えていた。
 フェブリスは何時も通り無言で扉を開けた。腕を差し出す様に命ぜられ、俺は素直に従う。
 手首の重みが、不意に弾けた。
 俺を戒めていた桎梏は、消え失せていた。
「お前は今日を以て自由の身だ。どこへなりとも失せるが良い。呪も解いた。――此を返そう」
 差し出された細い両の手に、魔剣アゾースの姿があった。
「―――何があった」
「知ってどうする。お前には関係無かろう」
「おかしいだろう。俺はお前の主を倒す為に遣わされた敵だ。お前等二人は俺を慰み物にする為捕まえて連れて来た、其処迄は良い。だが何故、今、逃がす。しかも、武器まで返して―――」
「お前の目的は達せられた」
 俺は問いを喉奥に押し込んだ。
 己の立場を危惧した先王派がクー・デ・タを起こしたに違いない。先王の影響を払拭し、支配を強めるべく先王の側近を次々と滅ぼしたが為に、アラスティウスには敵が多いとは常々聞かされていた。
 だからこの十日間、アラスティウスは一度も俺の下を訪ねなかったのだ。
「お前は何処へ行く」
「私は陛下が即位する以前よりの腹心だったのでね」フェブリスは殊更に自嘲めいた調子を籠めた。「先王を弑する様唆したのは私だ。……お前も、一刻も早く魔界を後にする事だ」
 フェブリスは闇に視線を投げた。白皙を彩る眼差しは、何時に無く厳しい。
「此は、陛下がお前に下された最後の命令だ。逃げよ、と」
 逃げろ、だと?
 否、本当は俺に助けを求めている。でなければ俺などわざわざ気に止め、魔剣を返すものか!
「アラスティウスは生きているのか。何処に居る」
「なっ……!」
 戸惑うフェブリスの手から俺は相棒を引ったくった。
「主人も主人なら、お前もお前だ。本音じゃ、アラスティウスを助けて欲しかったのだろうが。馬鹿が!」
「待て、何処へ行く気だ。正気の沙汰では無いぞ」
 既に早足で歩き出していた俺を、フェブリスが狼狽えながら追い掛ける。フェブリスは俺の腕を掴んだが、俺は振り払った。
「生きているんだな」
 フェブリスは頭を下げた。「もう、止めはしない。……頼む……陛下を……」

 全ては、先王の狂気が原因だった。
 アラスティウスは生まれ乍らの魔族の中の魔族、選良として類い希なる魔力と知勇に恵まれ、高貴な容貌故に先王の寵を受けていた。が、其の寵愛こそが憎しみを育み、先王を滅ぼしたのだ。
 先王はアラスティウスを寵愛し、己の様々な権能さえも与えたが、其の愛し方は正しく狂気であった。毎夜伽を勤めさせたと言えば可愛らしいが、其の実、嬲り者として扱っていたらしい。肉体、精神に様々な恥辱を加えたがる先王の欲望は暴走し、やがては凄惨な拷問の果ての陵辱に迄行き着いた。
 アラスティウスは当時既に先王の下で数々の勲で名を上げていたが、功績の割には己の領土一つ与えられず、常に先王の手許に置かれるかさもなくば苛酷な戦場へと送られていた。先王の仕打ちに、他の魔貴族はアラスティウスが魔王に憎まれているのだと囁きあっていたという。
 其れでも、アラスティウスは耐えていた。耐えざるを得なかった。
 無力だったからだ。
 アラスティウスは秘かに力を求め、しばしば魔族が己が身を顧みずそうする様に、奈落の諸力と秘かに契約を交わし、力を得て、魔王を殺した。
 奈落と契約し、絶大な権能を手にしたアラスティウスを待っていたのは、己が憎んだ筈の魔王に加えられた仕打ちを欲していた己の肉体であった。アラスティウスも初めは独り秘かに己を苛み、慰めていたという。が、やがて欲望は己を蝕み、或る日、癒え切らぬ肉体の傷をフェブリスに見咎められてしまう。腹心に問い詰められ、アラスティウスは己を苛む肉欲を認めざるを得なくなったのだという。焦燥に駆られ、己を傷付け苦しむアラスティウスを見るに見かねたフェブリスは自らも手を尽したが、貪欲な魔王の肉体を鎮めるには至らなかった。
 だから俺を手に入れたがったのか、と問うと、フェブリスはそうだと返した。全ては魔王を鎮めるべく、仕組まれた陥穽であったと。
 全く、我ながらつくづくお人好しだと思う。助けてやる義理などこれっぽっちも無いのだが、一度は枕を交わした仲だ。
 フェブリスに教えられた通風口を右に左に曲がった先、取り付けの格子が通路を塞いでいた。二つ程外すと通路は行き止まりになっている。格子の隙間から見える眼下の情景に、俺の目は釘付けになった。
 台座に縛り付けられるアラスティウスの肉体。頭も四肢も、不定形の、生理的嫌悪を誘う生きた塊に覆われて見えない。不透明の傍目にもぬるぬるした不気味な塊は膨れ上がり、泡立った表皮から沸々と吹き出た芽が、滑りのある液体を表皮から分泌し乍ら身を擡げ、育ち、首筋に、腕に腿に絡み付く。その中でも節くれ立った一際太い芽が腿を割って潜り込むと、アラスティウスの体が弓なりに反り、腕が肉を掻き分けて、出る。
 アラスティウスの腕は、肘から先が無かった。
 腕だけでない。脚も、腿から下がすっぱりと無い。断面は直ぐ、醜い粘質の中に呑み込まれてしまう。よくよく見れば台座を取り囲む格好で水置かれた水槽があり、中には切り落とされた腕、脚―――そして、虚ろな、首。肉に埋もれている首と思われたのは異形の胴体で、時折膨れ上がっては表皮の疣から植物の蔓に似た触手を伸ばし、なめらかな皮膚を犯す。
 皮膚が、泡立った。場の瘴気が強まったのだ。
 何かが来る。
 脇に淡い輪郭が二つ、三つ現われた。瘴気は凝って輪郭を描き、量感を伴った姿が現われた。瘴気の強さ、優雅な所作そして装束が身分の高さを物語る。其の内の一人が、アラスティウスの肉体に骨張った手を差し伸べた。肉塊が、気配を察して引いて行く。
 水槽が突然、蒼く濁った。中は見えないが泡立つ水面が、苦悶を示していた。
 脇腹には爪が食い込んでいた。爪は深く、肉へとめり込む。凄まじい膂力で食い込む腕は鋼の肉をものともせず、中から臓腑を鷲掴みに引きずり出す。差し出された銀器の上に掴み出した臓腑を乗せ、素速く手を拭った魔物は銀器を受け取り、恭しく別の魔物に捧げた。何を言っているか迄は聞き取れないが、彼等の振る舞いからは容易に、反・アラスティウス派の黒幕なのだろうと察せられる。
 『黒幕』は差し出された臓腑を暫く眺めていたが、歪めた口から青黒い舌が伸びて、臓物の上を跳ね踊る。一旦引いた後、先割れは臓物を包み込んで一息に呑み込んだ。暫く蠢かせていた口が矢庭に吊り上がり、蒼く染まった歯を剥き出しにした。
「なかなかの美味じゃのう?」
 割れんばかりの哄笑が、一斉に室内を覆った。俺は耳を塞いだ。再び室内を覗き込むと、魔族の影は失せていた。

 瘴気が薄らいだのを確認し、俺は格子を外して室内に侵入した。通路からは解らなかった薬品の微かな、しかし胸の悪くなる匂いが鼻を突いた。今も尚魔王の肉体を苛む薄気味悪い生き物を押しやって核を魔剣で突き刺すと、不定形の体は見る間に萎んで溶け落ちてしまった。俺は崩れた肉片を掻き分け、払い落してアラスティウスの躯を発掘し、水槽を片っ端から叩き割り、四肢と首とをおぞましい液体から救い出した。俺が腕を取り出すと、アラスティウスの手は未だ肉体が己の物であるかを確かめようと手を握ったり、開いたりしていた。俺はアラスティウスの拳を握り締めた。
 台座の上に手と足を、繋がる様に並べる。首は意識を失って力無かった。虚ろな目は半開きで、薄く開いた唇から滴る薬液は蒼い血で濁っていた。額の第三の眼は特別に誂えられた額冠に依って塞がれており、無骨な造りが何とも痛々しい。刃を押し当てると、額冠は耳を劈く衝撃と閃光を放ち、真っ二つに割れて台座から転がり落ちた。破片を払い除けると、固く閉じられた瞼が重たげに薄く、開く。
「とうに殺されていたかと思ってた」
「死んだも、同然だが」其の通りだった。言うに事欠いて、よりにもよってこんな言葉をかけてしまうとは。我ながら馬鹿にも程がある。すまん、と返すと、アラスティウスは自嘲めいた笑みで返した。
「人の子よ、汝に非は無い。―――余は死なぬのではない。死ねぬのだ。見たであろう、臓物を喰らった痕を。奴らは我が力を封じた後、永劫余を慰み物にし続けるつもりだったのだろうよ」
 死ねぬ、躯。
「どうせ、あのお喋りから何もかも聞き出しておるのであろう。此処に居るが何よりの証拠」アラスティウスは鼻を小さく鳴らした。「与えられた不死の躯も、余を嬲り者にする為。―――闇の腕に抱かれている限り、余の生は己の物にはならぬ」
 俺はアラスティウスの首を、抱いた。首は薬液の中で熱を失っていて、触れると穏やかに体熱を掠め盗る。
「ゲオルギウスよ、そなたは、温かいな……」
 訳の解らぬ衝動が胸を熱くした。俺はアラスティウスに口付けた。触れさせるだけの、儚い。「陵辱ごっこ無しで抱いて遣りたかった」
「だから捕まったのだ。お人好しめ、其の内寝首を掻かれるぞ」
「首に説教される筋合いは無い」俺はアラスティウスの首を自分の顔に向けた。「俺は自分の遣りたい様に、生きる」
 俺は首を横たえ、胴にくっつける。無論、巧く繋がったりはしない。唯並べるだけだが、見た目に其れらしく見えれば良い。頤を両手で包み込み、薄く開いた唇に誘われる様顔を寄せた。肘から先の無い腕が俺の肩に触れた。
 再び、今度は長い、熱の籠った接吻。冷えた舌が恐る恐る伸びて、絡み付く。口腔に充ちる薬液の味に覚えた微かな吐気を堪え、深く舌を伸ばした。舌だけが静かに蠢いて、何処までも螺旋に交わろうと足掻く。薬液の味も薄らぎ、溢れる唾液を呑み込んでアラスティウスは目を伏せた。アラスティウスはもっと欲しがって舌を伸ばして来たが、俺は態と逃れて、舌先で軽く擽ってやる。舌が追い、もどかしげに喉奥が震えてくぐもった声が漏れた。
 舌先と舌先を触れ合わせる内にも、躯は徐々に熱を取り戻しつつあった。蒼い、先の無い腕は必死に俺を抱こうと藻掻く一方、断ち切られた腕との間で繋がろうと得体の知れぬ管やら筋やらが浮き立ち、根を伸ばす。器官が、肉が皮膚が伸び、狂おしげに溶け合い、糸を引いて繋がろうと蠢く様はあたかも肉の睦み合いをなぞらえているかに思われた。俺は肩に触れて、腕全体を抱き込む。アラスティウスは逆らわなかった。穏やかで、しかし嘗て無く熱の籠った触れ合いを受け入れていた。
 名残惜しげに舌を引く。濡れた唇が鮮やかに、俺を誘う。俺は優しく下唇を啄んだ。
 俺達は暫し、見つめ合った。薬液が割れた水槽の中で泡立つ音だけが、酷く際立った。
 沈黙を追い払ったのは、アラスティウスの深い嘆息だった。「ヒト如きに哀れまれねばならぬとは、魔王アラスティウスも墜ちたものよ」
「本当にお前は、分からず屋の頓珍漢だな」俺はアラスティウスの鼻先を軽く弾いた。「よもや、フェブリスが従っていたのは、忠誠心と恐怖に突き動かされてとでも?」
 アラスティウスは呟いた。「……全く、お前には敵わぬな、魔殺しとはよう言うたものよ」
 俺はアラスティウスの頬を軽く叩いて、身を起こした。尻に何かが触れて払い除けると、アラスティウスは決まり悪げに顔を背ける。俺は笑い乍ら、腹の上で昂ったアラスティウスを揺すぶって、小さく口付けた。「好かったんだから、そんな顔をしなくても―――未だ、躯は戻らないのか」
 とはいえ、封印を解かれた魔王の肉体が以前の力を取り戻せていないのは一目瞭然。臓腑を剔られた疵痕は未だ開いていて、癒着しかけた疵痕から中身が覗く。人の其れに似て似ても似つかぬ青黒い臓腑が蠢き、傷を癒そうと複雑な組織を絡み合わせている姿は、体内に別の生き物を住まわせている様にも思われる。見慣れた光景なので、もう嫌悪は覚えなかった
「此の薬液が、結合を阻んでいるのであろう」くっつき切らない腕の指先が、水槽を指差す。「力を取り戻すには時間が掛かる。―――先に逃げよ」
「馬鹿言え」俺はぴしゃりと言った。「一度寝た相手は見捨てない主義なんだよ。独りで逃げられるか」
「――――生憎、そうは行かぬ様だ」
 アラスティウスの肉体は俺を振り解く様に身悶えした。第三の眼が見張られ、双眸は対と細められる。遅れて、背筋を伝って全身を包む、怖気。
 瘴気が凝り、魔物の姿を象った。二つ、三つ―――俺達は囲まれている。

「魔界を統べる王が、人の子如きに絆されるとは」
「しかも、『魔殺し』の悪名高き戦士・ゲオルギウスでは無いか。酔狂な」
 押し殺した忍び笑いの反響。俺は魔剣アゾースを抜き放って、構えた。瘴気に反応して魔剣は振動し、淡い輝きを放つ。台座の上に飛び乗り、アラスティウスを庇う。
 輪郭が色と量感を伴い、形を為した。先程の連中に違いない。違うのは、其の手にある―――銀糸を、右肩から下をごっそり失った上級魔族の姿。不死の肉体を持つ己が主人と違って、虚ろな眼には最早、何も映さない。
「独りでは寂しかろうと気を回したのだが、要らぬ世話であったの」
 魔族は投げやりに肉片を投げ出した。瀑布の如き銀は、濁った薬液に溶け込んで艶を失った。
「……貴様等……ッ」
「情に厚いとは耳にしたが、成る程、噂に違わぬ熱さよな」
「臣下に畏れられるばかりか、敵からも慕われてもいたとは。実に羨ましい」
 嘲笑が辺りに弾けた。
「さ、戯れは仕舞いとしようぞ。――お引き取り願おうか」
 足下から瘴気が這い上がる。濃密な気配は徐々に形を為し、身を擡げた。魔剣の一払いで瘴気は容易く砕け散ったが、砕けても砕けても瘴気の海から生まれる塊は執拗にまとわりつく。邪魔な瘴気を払い除けている内、遠くから跫音が連なって押し寄せる。
 雑魚が何匹来ようが、独りなら何とでもなる。だが、俺には守らねばならぬものがある。
 足首を掴む、冷たい感触があった。刃を突き立てようと、剣を構える。
 足を捕らえていたのは、まだ繋がり切らぬ侭糸を引くアラスティウスの右手だった。
「今の侭では多勢に無勢、自慢の魔剣も役には立つまい。余は余で此の有様だ。此の侭では、共倒れだ」
「もう見捨てよったって間に合わんからな」
「良いから聞け――――唯一つ、此の苦境を脱する方法がある」
 アラスティウスの目が、顎が上方を指した。「この目を与えよう。並の刃では通らぬが、汝の魔剣ならば剔り出せよう」
「なっ―――!」
 アラスティウスは完爾として微笑んだ。「生きたまま慰み物になり続けるよりはマシだ。―――余の命だ、自分の遣りたい様に遣らせて貰う」
「解った」俺はそれ以上、何も言えなかった。
 包囲網は其の間にもじりじりと間を詰めていた。迷いの介在する余地は無い。――だが、それ以上の何かが俺を突き動かしていた。俺は魔剣を振り翳し、切っ先を額の第三の眼に滑り込ませた。迸る血、闇を照らす七色の光線。戦き、後退る魔族の影。虹色に包まれ、融けて行くアラスティウスの貌。
 手許では畏るべき変化が起っていた。魔剣アゾースは魔王の血を受け、蠢動し、生き物の如く姿を変える。枝分かれし、膨れ上がり、脈を描き、禍々しく、艶めかしくのびやかに。刃は波打ち、柄に嵌め込まれた貴石は魔力に耐え切れず、砕けて弾け飛ぶ。
 剔り出した眼球は手の中で微かな温もりを湛えていた。触れさせるだけの口付けを一つ、落とす。
 魔剣の柄が、俺を呼ぶ様に開く。手の内の温もりを惜しみつつ手渡すと、柄は眼球を呑み込み、金属質の咆吼を上げる。凄まじい振動が五体を襲い、俺は危うく剣を取り落としそうになった。
 お前の命に応える為だ、俺は死なん。
 掌を灼く瘴気を堪え、俺は、剣を、振る。肉を灼く臭いが、鼻を突いた。柄の細工が、身悶えする様に震えて、柔らかく俺の拳を包んだ。感触は明らかに金属なのに、其の動きは生ある物の形を模して、否、命を宿す物の其れだ。
 痙攣じみた明滅を繰り返す刀身の輝きが、ふと失われた。己が手を焼く熱が和らぎ、痛みが引いて行く。柄の中央に据えられた魔眼が、瞬いた気がした。五つの角を伸ばす柄は、アラスティウスの角の形を模していた。
 光の余韻で眼を灼かれていた魔族連中が反攻に転じたのは此の時だった。連中は明らかに混乱していて、上級魔族の面々などは事後を雑魚に任せて逃げようとさえしている。
 逃がすものか!
 俺は台座を蹴っていた。上段に構えた魔剣を振り下ろす。軌跡に沿って星が砕け、光が散り、肉が裂ける。怒号も、断末魔の叫喚も、返り血も、放たれた呪詛さえも何一つ俺達を阻む物は無かった。

「……という訳で、もうアンタらはアラスティウスどころか、他の魔族共の顔色も、暫くは伺わなくて済む様になるんじゃないか」
 報告を終えて、早々に謁見の間を引き上げる。アカルナニア王の間抜け面が忘れられない。
 事の一部始終は俺の胸の内にある。アカルナニアとアラスティウスの密約を暴き立てたところで認めはしないだろうし、アラスティウスの名を汚す事にもなろう。相棒を貶める真似はしたくない。
 空は明るく晴れやかに何処までも高く、澄んだ大気が心地好く五体を慰撫した。俺は剣の柄に手を掛け、魔眼を傾けて上向かせる。
「本当に俺なんかで良かったのか?」
 物言わぬ魔眼は一つ、瞬きを落とす。
「惚れられ得って事にしておこうかね。―――相棒の居る旅も悪か無い」
 誰がだ、とでも言いたげに、魔眼が俺を睨め付けた―――様に見えたが、俺は素知らぬ振りを決め込んで、胸一杯の大気を吸い込んだ。
 短い命だが、お前と共に在ろう。
 新たな旅の始まりを祝福するかに、外套が風に翻った。

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